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2009年12月23日 (水)

K-11 湯殿山本地仏の大日如来像と子安像との不思議な関係

 栄町西霊園の元文5年(1740)の子安像を目にした時、この母子像のかたちを創造するにS1814_11あたって、石工が参考にしたのは、大日如来像ではないかとひそかに思っていました。
 胸に子を抱き、乳を飲ませているが、引き締まった体つきと真正面を見据えた姿勢は威厳があって、子育てにいそしむ母親のイメージより、大日如来像を連想させます。 K-10参照
  他にも酒々井町今倉新田の松島神社の文化11年(1814)子安塔(⇒画像)など、大日如来像を連想させるそのような作風の子安塔をいくつか見てきました。

 大日如来は湯殿山信仰の本地仏であって、ムラでは「奥州参り」の主尊です。
 出羽三山登拝をすませたムラの男たちは「八日講」に入り、毎月8日、宿に集まってオコモリしますが、その際、「穢れるから」といって、炊事に女性の手を借りたり、一緒に祈祷したりしない風習が、北総のムラに今も残っています。
 「八日講」というのは、弘法大師が湯殿山を開山したのが4月8日だったことにちなむとか。またその年は丑年だったので、今も丑年の巡拝は「丑年御縁」といって特に御利益が多いのだそうです。

 出羽三山はかつて、月山・羽黒山・葉山からなり、湯殿山は「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったそうですが、葉山信仰が衰退後、真言宗系では「湯殿三山」とよばれて、下総では、江戸時代の三山碑もその銘文は「湯殿山」が中心に刻まれています。

 ところで、湯殿山講(「八日講」)は、江戸時代の初めから男性だけの女人禁制の講だったのでしょうか。
 今回、丑年御縁年で、八千代市郷土歴史研究会出羽三山信仰を学ぶ研修旅行に行ってきました。
 確かに、羽黒山の山伏修行の羽黒山修験本宗荒沢寺には、「是より女人禁制」の碑が高々と建っていましたが、それは聖なる常火を守っていたからで、ここを迂回する女人道が羽黒山頂まで続き、そこには西国三十三番の観音石像が一丁毎にあったそうです。
 また湯殿山の登拝口の真言宗系寺院は女人遥拝所として栄え、春日の局御寄進の大日如来像など、女人信仰が凝縮されたさまざまな仏像や寺宝で飾られていたことは、意外でした。

  出羽三山の旅から帰って、石造物調査データを整理していると、近隣の石仏に、「二世安楽○○男女」という銘が記されている大日如来像があることに気付きました。

S八千代市勝田 字新山 ボンテン塚の享保十年(1725)十月九日 銘「奉造立大日尊 二世安楽所 善男女 勝田村同行五十三人」
・佐倉市土浮正福寺 正徳四年(1714)2月8日 銘「奉新造立八斎戒現當二世安樂之所 男女同行二拾二人」 (⇒画像中央の像)
・同じく享保十五年(1730)「奉造立大日尊像一躯 土浮村 八斎戒講中男女同行四十八人」(⇒画像左の像)

 男性も女性もともに二世安楽の御利益を得るため、厳しい八つの斎戒を守って湯殿山の大日如来に念仏し、その記念に建てた塔です。

 12月9日、小見川史談会から発刊されたばかりの『小見川の石造物(西地区編)』が届き、さっそく子安塔のデータを拾い出していた最中、元文6年(1741)銘の子安塔データを見たときは驚きました。なんと「八日講」の銘のあるのです。

 翌日、仕事が休みでしたので、猪突猛進、小見川に飛んでいき、虫幡の迷路のような細い山道を登り、やっと日向山薬師堂にたどりつきました。
S1684 元文6年の子安塔の銘文は「奉待八日講中 西友村 元文六年辛酉三月吉日 同行廿六人」、像容も、栄町西霊園・元文5年像と、柏木新光寺墓地・元文5年像の像と比較して、双方と密接に関連する像容でした。

  S1687 この子安塔を含め8基の供養塔群(↑画像)の真中には、やや大きめの大日如来像(⇒画像)がありました。
 貞享4年(1687)11月の建立、銘文は、「奉修日記夜待二世安楽処 虫幡村 辻下西共 信善女人 道行九人」、明らかに女人の日記念仏講です。
 さらに、この右隣の文化十年(1813)の「念仏講中」の子安像は、意識的に左の大日如来像を模した形なのです。

  大日如来をまつる湯殿山信仰「八日講」が、村里の女人信仰として存在したことを物語る貴重な子安塔群と推察しました。

 S2_3子安講と女人禁制の修験道の出羽三山信仰との間になんの関係がと思うでしょうが、「死と再生の旅」である山伏修行は、夫婦の交わりから出産までの追体験でもあり、その本質は性的な宗教儀礼です。
  高津の梵天塚の大日如来の丸彫り像(⇒画像)は、私には下総で最も優れた心惹かれる石仏ですが、その前には、女体をシンボライズする丸石が置かれています。
 この丸彫りの大日如来像には建立年が刻まれていませんが、正徳3年(1713)、女性たちが高津観音寺に建てた如意輪観音石像に並ぶその品格から1700年代初めごろでしょう。

 S_2元禄から正徳ごろ(1700年前後)まで男女ともに念仏していた下総の湯殿山信仰が、その後、男性の奥州参りと女性の十九夜講(子安講)に分離していったのかは不明です。
 しかし1740~50年ごろ、下総に発生した子安像のうち、正面向きの子安像の像容に、湯殿山信仰に由来する大日如来の像容が影響していたとしてもおかしくはないと確信できました。

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