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2009年9月22日 (火)

K-9 子安塔の初出をめぐって-銚子市の子安塔「元禄3年」銘否定の考証

 前々回の「K-7 印旛沼周辺の子安塔の初出をめぐって」で、「公式の調査記録『千葉県石造文化財調査報告』1980のリストに11基だけ載っている子安観音も、見直しが必要かもしれません」と書きました。
 そして「このリストで初出とされている銚子市東岸寺の『元禄3年』塔」のデータがとても気になり、またリストアップされている子安塔11基中、4基の銚子市所在の子安塔をぜひこの機会に見ておかなければと、秋の連休を待って調べに行くことにしました。S_2

 まずは、その前に、データの出どころも押さえておく必要があります。
千葉県中央博物館を訪ね、幸い、収蔵庫内で、この調査報告書の元になったデータを見せていただくことができました。
 
 『千葉県石造文化財調査報告』に「所在地:銚子市若宮町東岸寺、造立年月日:元禄三・正・吉、像容:子安観音、形状:光背型、銘文:(記載なし)」と書かれているデータは、調査カードの時代の欄には「文禄三□正月吉日」と記載されています。
 添付の写真は如意輪観音が右手で子を抱いた姿のようですが、風化して、像容も銘文もはっきりしません。
 Sそれにしても、「文禄」というのは1592~1594年ですから、元禄(1688~1703)をはるかに遡る江戸期以前になってしまい、カードの記載も、調査報告書の「元禄三」の記載も双方とも明らかに間違っていることがわかりました。
 とすると、形状や石材の質からみても、文化・文政期(1804~1829)となる可能性があります。
 
 さて、そのような疑問を晴らすべく、シルバー・ウィークで車の混む道をはるばる銚子まで行ってみると、さすが、中世から石塔文化の栄えた銚子市です。古刹の石塔には、優れた珍しいものも多くありました。

 その中でもまっさきに訪ねた東岸寺には、数多くの月待塔・子安塔がありましたが、お目当ての「元禄3年」銘と誤記された子安塔は、原形をとどめないほどに剥落崩壊し、史料的価値を完全に失った姿だったのです。

(⇒画像の左側が「元禄3年」と記載されていた子安塔、右側は建立年不明であるが、印旛村岩戸高岩寺の文政2年(1819)の子安塔と類似している)

  それでも「文」の文字だけは、はっきり見えましたので、県報告書の「元禄3年」は否定できました。(⇒右上の画像をクリック)

 このお寺の境内には、砂岩(凝灰岩?)製の子安塔だけで10基位あり、そのうち銘文がはっきり読めるのは、文化10年、天保6年、明治44年、大正9年、大正10年の5基、そのほかも像容から文化文政期と思われるものが2基でした。
 
 S16273東岸寺には、子安観音像が現れる前の月待塔としては、宝永3年(1706)銘聖観音立像の十九夜塔と寛延2年(1749)銘如意輪観音像の十九夜塔があります。
 どちらも硬質の安山岩製とみられ銘文もくっきりした保存状態のよい石塔です。

  ⇒右の画像は宝永3年(1706)銘聖観音立像の十九夜塔*

  そして東岸寺はもちろん、この日に訪ねた賢徳寺など銚子市域の寺院境内には、中世からの五輪塔や宝篋印塔をはじめとして、多くの石造物が立ち並んでしました。

 銚子市は、中世から江戸時代、水上交通の盛んな経済的にも栄えた地域で、伊豆や筑波から硬質の石材が流通していた港町であると同時に、石無し県の千葉県では、「銚子石」(犬吠砂岩)とよばれる砂岩の石材に恵まれた地域です。

 江戸期の石仏については、17世紀の後半(元禄のころ)から正徳のころをピークとし、安永のころまでは、硬質の石材をもちいて儀規に忠実で丁寧な作風です。

 硬質製の石材で石仏を刻むことは高度な技術ですが、霞ヶ浦一帯まで中世の真言律宗系の僧と大蔵派の石工が布教に努めたこともあり、また築城のための石材加工技術も進んでいて、江戸時代前半のには、庶民の墓塔至るまで、小松石など安山岩製の石仏を建立することが普及しました。

 しかし、江戸後期、特に文化文政期以降、硬質の石材を使用した宗教的な気品のある石仏は少なくなります。

 北総一帯では、石質のやわらかい石材(神奈川県の七沢石など?)製品が広く商品として普及し、各地域では凝ったデザインや省略された像容の石仏が多く作られるようになります。
 何よりも安価で加工しやすいことが特徴で、特に明治以降、各村の女人講は数年おかずに競い合うように砂岩製の石塔を建立しています。
 砂岩・凝灰岩の石造物は、お堂の中に安置された少数の子安塔や丸彫りの大師像などを除き、露地では風化が著しく、文化財としての価値を留めている事例は多くはありません。

 東岸寺でも、砂岩製のこの石仏の「元禄3年」のデータを修正することにより、18世紀初頭の小松石や筑波石などの硬質石材にかわり、18世紀後半から砂岩製の普及品が増え、文化文政期の軟質石材製石仏の全盛期を迎えることが、整合性をもって立証されると思います。

 『千葉県石造文化財調査報告』では、東総には、他に銚子市賢徳寺の延享2年(1742)銘と山武市蓮沼子安神社の延享5年(1748)銘の子安観音像があるとのこと。
 延享から宝暦にかけての18世紀中葉は、酒々井町や成田市でも様々な像容の子安観音・子安明神像が生み出される頃です。
 このことに関しては、このブログの続報でお知らせしたいと思います。

Photo_2 東岸寺の子安塔群

*コメントに寄せられた苔華さまのご指摘で、聖観音立像の十九夜塔の造立年を 「寛永3年」から「宝永3年」に修正しました。ご指摘ありがとうございました。

また、石材についてご助言頂き、一部修正しました。(2009.12.14)

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コメント

東岸寺の寛永の十九夜塔は宝永の間違いではないですか。あの形式は江戸中期の形式と思います。
 拡大すると宝永と読めますが…
 寛永三年の十九夜が銚子にあるなら、十九夜塔の流れは大きく変りますね。

投稿: 苔華 | 2009年10月27日 (火) 10:30

苔華さま

ご指摘ありがとうございます。
確かに画像でも、明らかに宝永3年(1706)ですね。
本文も修正します。

銚子市三嶋神社元禄9年(1696)の聖観音立像の十九夜塔はもっと堅い感じの表情の像で、この東岸寺の十九夜塔比べてみると、東岸寺がその後の宝永3年(1706)の作というのが、納得できます。

今後ともご指導ください。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2009年10月27日 (火) 13:13

さわらびY(ゆみ)さま、

子安神について修士論文を書いていますが、この中の写真を引用したいですが、著作権のことで、許可をお取りしたいと思います。よろしければ、メールをくださいませんか。

イン

投稿: ying | 2019年1月14日 (月) 08:26

イン様
ご連絡ありがとうございます。
学術論文などでの写真の使用は引用元を明示いただければ、OKです。
大サイズのオリジナル画像が必要であれば、お申し出で下さい。
なお、このブログの内容は、学術論文集の房総石造文化財研究会 会誌 『房総の石仏』第20号(2010年9月 発行)に掲載の拙文
「北総の子安像塔の系譜=江戸時代中期におけるその出現と成立について」に載せていますので、できればこちらもご覧ください。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2019年1月14日 (月) 09:28

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