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2009年7月 2日 (木)

K-8 北総に子安像が出現したとき

 集落ごとの産土神社やムラの小さな寺、その多くは今は地区集会所になっている境内に、子安様と呼ばれる子安塔が祀られているという情景は、茨城県南部から北総の印旛沼周辺の地域特有の現象のようです。

 子安塔の分布に関して、各市町村の悉皆調査データがそろっていない現状で、子安塔の無いところはどこかというのは、存在する地域の特定より難しいのですが、私の勤める江戸川区内とその隣接する市川市・浦安市・葛飾区など江戸川沿いで子安塔を見かけることはほとんどありません。

 一方私の住む八千代市では、子安塔が、江戸時代の文化文政期から現れはじめ、明治の中ごろからは各集落が競い合うように建立し続け、現代に至っている状況です。

 この状況を平岩毅氏は、『房総石造文化財研究会会報』24号 (1985)の「下総の子安信仰・石造品分布」で、「印旛村から流れ出して東京湾へ注ぐ新川(下流は花見川)流域は何故か江戸後期の始め頃から次第に子安信仰が盛行し、子安観音の刻像塔が濃密に分布している。そして現在も、各地に子安講が現存している。印旛村岩戸の高岸寺にある十五夜塔(天明四年)に刻まれた両手に子を抱く観音像や、享和三年のもの、近くにある広済寺の享和元年のものなどが古い方で、出現時期としては千葉市の安永五年、船橋市の安永八年などに比べ可成おくれている。」と表現しておられます。

 この文章に接して、下総の子安像刻像塔の調査研究は、他地域の方の研究に甘えていてはいけない、八千代市の郷土史を多少でも学んでいる自分が追及すべき課題なのだと思いました。

 さて、下総の子安塔の出現はどこかというと、酒々井町尾上の住吉神社境内で、ここには享保 18年(1733)銘の「子安大明神」立像と、宝暦元年(1751)の如意輪観音像の変形像の「子安大明神」座像があります。090303_044_2

 北総において突然現れるこの享保の立像は、今のところ北総最古の子安刻像です。(右側の像)

 あえて、この像容に近い石造物を写真集で調べてみると、『東総の石仏』に載っている  宝暦13年(1763)の東庄町小南・福聚寺の弁財天の立ち姿がよく似ています。
 福聚寺の弁財天は、尾上の子安神像30年後の作例で、しかも儀軌による持ち物も違いますが、着衣の表現、駒形の光背、雲のような岩座などよく似ていますから、この子安塔の像容は、18世紀中葉ごろの吉祥天・弁財天など天女の刻像と共通するものかもしれません。

 それにしても、手で持っている赤子の姿は、頭を下にしており、産み落とされたばかりの姿のようです。
 この像容に関して後出では、土浦市手野の薬王寺の境内に宝暦13年(1763)の子安観音立像、粟野の惣持院にも明和3年 (1766)の子安観音立像がありますが、前ページに書いたように酒々井町近隣の地域内では、その後の系譜がたどれません。

 依頼した尾上村女人講のだれかが、母子の姿の子安像について聞いた記憶があったのでしょう。
 その曖昧な情報だけで、見たこともない「子供を持った子安大明神像」の制作を依頼された享保期の石工のとまどいが見えるようです。

 左隣に安置されている宝暦元年銘の「子安大明神」像は、如意輪観音に子供を抱かせた事例です。
 右手は思惟相のまま、そして左手の一本は宝珠かハスの花を持つように子供を抱き、一本は、衣の袖のようにも見 えますが、ひざに伸ばしているかのようにも見えます。
 17世紀後半から、女人講の供養塔として二臂の如意輪像が多量に普及していた中で、母子像を創造するには、最も安易な方法だったはずですが、1764hiragahudouまだその子供の抱き方の表現はあいまいです。

 この作例の像容が授乳の姿として、はっきりと表現されるのは、明和元年(1764) 印旛村平賀の不動堂の子安観音像(⇒画像)と観音堂の同じ像容の子安観音像でしょう。
 その後、船橋市金堀町竜蔵院の子安像(1785)成田市吉倉薬師堂の子安像(1777)、船橋市米ヶ崎無量寺の十九夜塔(1779)といくつかの作例が続き、像容が確定してきます。

 しかし、首を傾げ、右手を頬に当てて考え込むこの思惟相の姿勢のままで、子を抱く姿は、かなり無理のある構図です。

 1776印旛村岩戸西福寺(1776)⇒画像千葉市星久喜町千手院(1780)我孫子市江蔵地(1781)の子安像では、子供の方に首を傾けて両手で抱く自然な姿へと変わっていきます。
 とはいっても、その周りのムラの多くは、幕末までずっと二臂の如意輪観音像を建て続けますから、思惟相の姿勢のまま子を抱くスタイルも根強く残っていきます。

 さて、はじめから正面を向いた母子の子安像もあります。
 次回はその姿の母子像から、子安塔のルーツを追ってみたいと思います。

リンク元 房石研HP  土浦のあれこれ   
      「さわらび通信掲示板」

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