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2009年6月24日 (水)

K-7 印旛沼周辺の子安塔の初出をめぐって

 6月5日の東京成徳大学での講義では、私なりの「新説」を披露するレジュメを用意して臨みましたが、聴講してくださる方々が石造物に親しむことに重きを置き、どちらかというと子安塔とはなにかというレクチャーと、事例紹介のスライドが中心だったと思います。17405

 印旛沼周辺を調査して得られた私の説は、子供を抱く子安像は、元文5年(1740)2児を伴う子安神像の石祠が現れた酒々井町中心に、印旛沼東部の印旛村・成田市・佐倉市でその像容が模索され、印旛沼の両岸沿いに西へと広がり、文化文政年間に江戸川縁を除く北総全体の村々へ普及していくということでした。

 ⇒酒々井町柏木新光寺跡墓地の元文5年の石祠内子安大明神像

 もっとも、酒々井町では、この石祠の像に先行して、尾上 住吉神社の享保 18年(1733)子安様がありますが、立像であることから、その後の子安塔像容の成立の系譜につながりにくいので、むしろこの元文5年(1740)像のほうをルーツとして考えていきたいと思います。

 (7月11日の八千代栗谷遺跡研究会の調査報告会では、子安塔成立のプロセスとその考証を中心に、お話したいと思っています。)

  東京成徳大学の発表以後、追加調査している千葉市・印西市・我孫子市などの子安塔をみても、おおむねこのフレームに収まるようですが、一方、たぶん私のこの説は、これまでの諸先輩方の想像する子安塔成立のイメージとは異なったものになると思います。 

 というのは、「子安観音の像容の起源として、利根川下流域を中心に、如意輪観音像を刻む十九夜塔が盛んに建てられる中で、子を抱く如意輪観音の姿が創りだされる」という榎本正三氏の説が石造物関係の各市町村史などに一般的に引用されているからです。
 榎本正三氏は、印西市を中心にした女人信仰とそれにかかわる石造物研究の第一人者です。
17182 その説の根拠になっているのが、「我孫子市江蔵地青年館の享保三年(1718)の十九夜塔」です。

   ⇒我孫子市江蔵地青年館の享保三年の十九夜塔

 榎本氏の著書『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』1992でも「子安観音の原型」と記され、また平岩毅氏も『房総の石仏百選』1999で、この塔が「(千葉)県内最古」で「(子安)観音の発祥地を暗示する」と述べておられます。
 印西町教育委員会発行の『石との語らい』1992でも「如意輪観音からの変容」の例として紹介されています。
 その根拠は『我孫子市史資料 金石文篇Ⅰ石造物』(1979)に、この塔は「如意輪観音・十九夜塔」として写真入りで載っていて「(如意輪観音浮彫)」の下に小さなポイントで「*赤子を抱く。」と追記されていることに由来するのではないかと思います。 

 「我孫子の抱き子の如意輪観音が発祥」というのは、酒々井町の子安神が発祥という私の説と矛盾することになるので、まずはとにかく行ってみることにしました。(こうして私の週休日はいつも無残にも費やされてしまう!のです)

 結果は、百聞は一見にしかず、子安観音ではなかった!のです。
 『我孫子市史』が「赤子を抱く」と間違えたのは、未敷蓮華(みふれんげ・つぼみの蓮華)で、実際はやはり如意輪観音像の一般的な十九夜塔でした。

 090623_030また、ここには、安永10年(1781)の「子安大明神」の刻銘の子安塔がありました。清楚でかわいらしい像です。

 印旛村岩戸の西福寺には、これとまったく同じ像容の安永5年(1776)の子安塔が先行してあります。

 ⇒我孫子市江蔵地青年館の安永10年の「子安大明神」

 おかげさまで、子安塔は「印旛沼の東端から西へ」という私の試論の考証を、一からやりなおすことはまぬがれました。
 そして、文献調査に頼るのはあぶないということを学ぶなおす結果にも・・。

 そういえば、公式の調査記録『千葉県石造文化財調査報告』1980のリストに11基だけ載っている子安観音も、見直しが必要かもしれません。

 このリストで初出とされている銚子市東岸寺の「元禄3年」塔も、房総石造文化財研究会の情報では所在が確かめられなかったとか。

 雨が止んだら、また子安塔探しに行きゃなくちゃ・・。

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コメント

子安塔というのを始めて知りました。
ありがとうございました。
鎌倉にはたくさんの如意輪観音の墓石がありますが
そのほとんどが如意輪観音の定型を守っていません。
キリシタンの石工さんが作ったのかなと思っています。
子供を抱いたのは見た事がないので、興味深かったです。

投稿: 亀子 | 2009年8月11日 (火) 16:50

コメントをありがとう。
江戸時代の終り頃から盛んに子安塔を建てる風習がある地域は、千葉県の東北部から茨城県の南部にかけてらしく、江戸川から西では、ほとんど見られないようです。
べつにキリシタンの石工さんがいたわけではありません。

鎌倉の石仏はいいですね。でもやはり近世の母子像はないかも。あっても戦後、どなたかの好みで立てらしいのが、石仏の写真集に載っているぐらいでしょう。
江戸時代の子安塔があったら、ぜひ教えてください。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2009年8月11日 (火) 21:43

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