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2009年1月27日 (火)

S-9  キリシタン灯篭について(3)

 目黒でいくつかの「キリシタン灯篭」を見た後の1月20日、市川市行徳の妙覚寺へ境内のキリシタン灯篭を見学に行きました。
 S090120_004 かつて、市川と行徳の史跡探訪で見たことがあり、再度の訪問でしたが、今回も快く拝見させていただきました。
 妙覚寺は、天正15年(1586)創建の日蓮宗中山法華経寺末の寺院で、市川市が建てたらしい門前の説明板には、次のように記されています。

 『境内には東日本では大変めずらしい、キリシタン信仰の遺物であり、房総でただ一基の「キリシタン燈籠(とうろう)」がある。
 塔炉の中央株に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを着たバテレン(神父)が靴をはいた姿が彫刻されている。(靴の部分は地中に埋められている)
 戦国時代の大名古田織部の創業であったといわれ、別名を織部燈籠(おりべとうろう)という。』

 S090120_027  お寺の方が「キリシタン灯篭の見学ですか」ととてもやさしく声をかけてくださり、発見された時のお話を書いたプリントをくださりました。

 そこに書かれていたのは、まだこの灯篭が知られていなかった昭和26年春、キリスト教の信者が突然「天主のお告げに導かれてここで足が止まりました」と言ってこの灯篭を拝んだという不思議な話と、その10年ぐらい後に、学生が目を留め「キリシタン灯篭という珍しいものだ」といって、2、3日後再度、写真入りの本を持って来たこと、そしてその数年後、研究者が来て、この灯篭が江戸初期もしくは、前期の希少価値のある石造遺物であることを初めて知ったという話です。

 それまでは、火袋もなく、竿部もほとんどが埋まっていて、丸いふくらみと浮彫の像の頭部が少し出ていただけだったそうで、特に気に留めることもなく、ただ睡蓮の池の背景として風流な眺めだったとか。

 ところで説明板に「房総でただ一基」とありますが、実は安房の西岬地区加賀名でもう一基見つかっています。
 昭和60年(1985)に館山市の石造物調査で発見された加賀名の「安産の神様」。
 竿の部分のみを曹洞宗墓地の一角の阿弥陀堂に祀ってあるそうです。。

  H.チースリック師は、著書『キリシタン史考』の「キリシタン遺物のニセモノ」という項で、キリシタン灯篭について「昭和の初め頃、故西村貞先生が、普通、織部灯篭として知られてきた石灯篭を、切支丹燈籠と名付けて以来、鹿児島から北海道にいたるまで数百基が『発見』され、論議を呼び起こしたが、しかしそれは、直接にキリシタンとは関係がない」と言い切られておられます。
 そして、「織部灯篭の発案者、古田織部は千利休の七哲の一人で、キリシタン茶人とたいへん親交があったが、彼自身は信者ではなかった。古田織部がこの灯篭を発案したとき、キリシタンからヒントを得たことは確かであるが、それがキリシタンに信仰の表示であるとは言えない。」、さらに「各地の観光案内に見られる『切支丹灯篭』は一種のデッチアゲであって、そこに隠れキリシタンが居た、という証拠にはならない」とのこと。

 確かにキリシタンの仮託礼拝物として、歴史学の立場からの証拠足りうるものがないのが一般的で、徳川家関係の庭園や寺院にも多いのも事実でしょう。
 どちらかというと、キリシタンを弾圧した側の人物にゆかりのある寺院や屋敷跡も少なくないのが現状ですが、一方では系図をたどるとその縁者に名にあるキリシタンがいることもまた多い時代でした。
 竿部のみの残欠が山里の小祠にかすかな伝承を伴って祀られている例などは、かつて仮託礼拝物だったということもありえるでしょうが、その確たる事例が乏しいのも現実です。

 茶庭とその点景物の灯篭は大名・武士・公家など上流階層のものであり、また1614年の徳川家康の禁教令以後、農民に先駆けて追放や殉教、棄教により上流階層のキリシタンは、一掃されています。
 キリシタン灯篭は、子安観音像を聖母像として礼拝した北九州の潜伏キリシタンの社会的階層とも異なる階層のものでした。

 また、江戸初期のキリシタン灯篭に多い「岩松無心風来吟」と「錦上鋪花又一重」の銘文も、インターネット検索で調べてみると、前者は茶室の掛け軸の書、後者は虚堂和尚語録に出てくる禅語らしく、私としては、松田重雄氏の論のような解釈には至りませんでした。

 古田織部が、(現代日本の若者がロザリオをアクセサリーにするように)十字架などキリシタンの礼拝物のデザインを、単にかっこいいからということだけで灯篭の形にとりいれたとしたら、親しかった高山右近や蒲生氏郷などのキリシタンの茶人の理解が得られたでしょうか。
 
 キリシタン灯篭のなぞは、なかなか解けません。
 この灯篭を、16世紀末、キリスト教の要素や哲学を茶禅の心にとりこみながら新たに創造された造形と考えるならば、禁教前においてはキリシタン茶人の瞑想と祈りの拠り所となり、また、その後の厳しい禁教下でも、その抽象的な普遍性ゆえに、大名屋敷や禅寺の茶庭に伝世され、あるいは信徒の縁者の墓地に遺されたと思えますが、いかがでしょうか。

 

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コメント

私達は行徳探訪を計画中。
妙覚寺の「キリシタン灯籠」も拝観予定で、貴HP大変参考になります。キリシタン灯篭は織部灯篭とも言われますよね。
ところで、行徳街道沿いに建つ「おかね塚」について教えていただけませんか。脇に建つ板碑の説明は後世の作文のような気がします。この塚は「宝篋印塔」のようなものだとも言われておりますが、供養等のようにも思えます。

投稿: Rits Chiba | 2010年9月14日 (火) 11:13

ご覧いただき、コメントをありがとう。
押切の「おかね塚」を訪ねたのはもうだいぶ前ですので、記憶があいまいですが、市川市の公式HPにその伝説が載っています。

http://www.city.ichikawa.lg.jp/gyo01/1111000010.html#05-2

恋した船頭を、ここで待ち続けて亡くなった吉原の遊女おかねの供養碑という伝承ですね。

実はこの石仏は、阿弥陀如来を刻む寛文5年(1665)の庚申塔です。(宝篋印塔ではありません。)
この石仏があるのは押切村と伊勢宿村の村境だそうです。

江戸初期万治のころ(1658)から元禄の初め(1690年ごろ)までの庚申塔は「二世安楽」を祈願し、青面金剛像以外のも、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、観音菩薩像などを刻んだ石仏が多いのが特徴です。
元禄半ば以降、庚申塔はおおむね青面金剛像と三猿などを刻み、江戸時代後期にかけては「青面金剛」や「庚申塔」を彫った文字碑が多くなり、幕末からはこれが主流となります。

この阿弥陀如来の石仏に、船頭と遊女の悲恋物語が付会されたのは、たぶん、この庚申塔の造立意図が、もう江戸時代の終わりごろには、わからなくなっていたからと思います。
地元有志によって建てられた「行徳おかね塚の由来」を書いた石碑の碑文を、いわゆる「作文」と言ってしまってはもったいないでしょう。
(ちなみに「板碑」とは中世の板石塔婆のことで、これは「石碑」と言います。)

「製塩に使う燃料を運ぶ船頭」の存在や「年季が明けるとここへ来た遊女」、「僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた」など、当時の行徳や江戸の庶民の様子が生き生きと伝わってくるのが「伝説」の世界です。

どちらも貴重な石造文化財と言えますね。

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このコメント欄から画像がアップできないので、内容も補充し、新記事<S-10 行徳の阿弥陀石像「おかね塚」とその伝承>に詳しく載せました。
こちらの記事をお読みください。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2010年9月14日 (火) 19:05

お礼が遅くなってすんまへん。
庚申塔だとすれば、また別の思いがします。
庚申信仰も時代と共に変わったようですので。

キリシタン灯篭は桂離宮古書院玄関前にあるのを見たことあります。
千葉では幕張の「見浜園・松籟亭」の手水脇にもあります。(最近に造られたものですが)

投稿: Rits Chiba | 2010年9月23日 (木) 22:57

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