S-7 キリシタン灯篭について(1)
本年(2009)正月7日、八千代市郷土歴史研究会の皆さんと目黒七福神の寺社・史跡を巡りました。
その道すがら、目黒大鳥神社と、この神社の別当である大聖院の境内で、有名なキリシタン灯篭4基を拝観することができました。
大鳥神社の1基と大聖院の3基(⇒画像)は、ともに目黒駅西側付近にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷に祀られ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
(なお、大鳥神社の1基は、わたしが少女のころに通っていた守屋図書館の中庭に、一時、保管公開されていた灯篭でした)
都内では、他にも内藤新宿の太宗寺と上野の本覚院で、キリシタン灯篭を観察したことがありましたが、今回はキリシタン灯篭としてそれぞれ特徴的ある要素の実例を見ることができましたので、資料(「切支丹燈籠の信仰」松田重雄著・恒文社)などを取り寄せて、その形式、歴史的・宗教的な意義を整理してみました。
キリシタン灯篭と織部灯篭の関係について
まず、キリシタン灯篭と織部灯篭の違いについて整理したいと思います。
キリシタン灯篭はその名の通り、キリシタン信仰上の石造物で、禁教下には密かに祈りを捧げるための仮託礼拝物であり、一方、織部灯篭は戦国大名で茶人の古田織部に好まれ、茶庭や数寄屋造りの庭園の点景物として普及した文化遺産の一つです。
安土桃山・江戸初期、古田織部と親交のあった大名や上級武士・町人の茶人たちの幾人かはキリシタンでもあったので、キリシタン灯篭と織部灯篭は形態的にも本質的にも不可分な関係にありますが、織部灯篭はのちに仮託礼拝物とは知らずに庭園の観賞用に設置され、現在でも作庭に欠かせない石工品となっています。
織部灯篭は、笠と四角形の火袋とT字の竿からなり、竿の上部の円部にアルファベットを組み合わせた記号を陰刻し、その竿部を直接、地中に埋め込んでいて、キリシタン灯篭の特徴点を網羅していますが、デザイン・寸法も画一で、また石材も別の石材と組み合せてあるということはありません。 (⇒画像は、あるお店のエクステリアの織部灯篭)
一方、キリシタン灯篭は、松田重雄氏によれば、信徒の心から心へとその形が伝えられたので、時代によりさまざまな形態的変化と特徴を持ち、同一寸法のものはないそうです。また別石材との組み合わせや、火袋を欠き、竿のみ残存している状態も多く、設置場所も人目に付かない墓地や小祠内など、また庭の露地にその一部だけが見えるものなどさまざまのようです。
織部灯篭が茶庭の設備として好まれ普及していたため、仮託礼拝物のキリシタン灯篭もまた完全に姿を消すことなく、禁教下でも江戸末期まで作られ、潜伏キリシタンの遺物として今に伝えられましたのでしょうか。しかし、その区別は難しいように思えます。
このような関係はマリア観音にもいえると思います。
子安観音(慈母観音)像を「マリア観音」と指定するのは形態ではなく、キリシタンの家に奉られたかどうかと言うことと、故結城了悟師は言われました。 (納戸の「御前様」=カクレの聖母像)
鎖国間際のころ、西欧画の聖母像に替わりに礼拝用として福建省で焼かれた陶製白衣観音像(慈母観音)がキリシタンの家に普及しました。それは、またキリシタンの信仰とは無縁の家や寺にも残されています。
世界に類を見ない江戸時代の過酷な宗教弾圧の中、キリシタンのイコンが、信仰と切り離される形で、民衆の新しい習俗や日本の文化を生んでいったのでしょうか。キリシタンとは無縁と認識されて受容された子安観音像や織部灯篭。逆にそれゆえに、潜伏キリシタンの礼拝物として存続できえたのか、謎は深まります。
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