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2008年9月11日 (木)

I-13 「栗谷古墳」ってどこ? 見つかった半世紀前の調査記録

 この夏は、八千代市教育委員会が発掘していた「平戸台8号墳」調査のおっかけで、実に充実した時を過ごさせていただきました。(「追っかけられた」調査担当者のT松さんには、はなはだご迷惑をおかけしまし、ごめんなさい。)
調査過程の内容は「=姿を現した八千代市平戸台8号墳=その発掘調査と見学ルポ」をご覧ください。
 

 さて、この秋発刊する予定の八千代市郷土歴史研究会の研究機関誌『史談八千代』の原稿でこの調査速報をレポートするに当たり、平戸台8号墳の特徴である「後期群集墳・板石組合せ箱式石棺・追葬」、そして市毛勲氏の言ういわゆる「変則的古墳」(主体部が墳丘裾部にある)に関してその類例を文献で調べていくうち、「阿蘇村栗谷古墳」という文字が目に飛び込んできました。

 図書館で借りた中村恵次氏の追悼遺稿集『房総古墳論攻』に載っていた「千葉県における後期古墳―とくに群集墳の分布・内部施設被葬者について―」という1961年の論文の中に、「類例を若干あげるならば、印旛郡印旛村油作一号墳・同阿蘇村栗谷古墳・香取郡昭栄村地蔵原一号墳・・・・」と古墳名が列挙されています。

 ひとつひとつの古墳名に出典文献の註が付いていて、大川清1954「千葉縣印旛郡阿蘇村栗谷古墳」『古代』第11号とあります。そうか、そのころ八千代市は印旛郡阿蘇村だったんだ!

 実は、「保品栗谷古墳」という古墳名が、八千代市の遺跡一覧と、1979年刊『八千代市の歴史』にあり、そこには次のように書かれています。
  名称:保品栗谷古墳
  所在地:保品栗谷
  立地:台地先東北端
  形式:不明2基
  大きさ:不明
  内容:明治・大正時代に破壊され、人骨や直刀などが出土したという。その後昭和47年土取りのために消滅した。周辺は土師器の散布が多い。

 その後、八千代市史編さん委員会が編集した1991年の『八千代の歴史 資料編 原始・古代・中世』と、今年出た『八千代市の歴史 通史編 上』にも記述がなく、公式の記録から姿を消し、幻の古墳となっていました。

 『房総古墳論攻』のコピーをT松さんに渡し、「栗谷古墳の出典が載っている」とお話しすると、さっそく、この『古代』第11号のコピーを届けてくださいました。

 内容は、栗谷古墳は戦時中の開墾により封土が削られて開棺されてしまった古墳で、戦後間もなくのころの調査では、棺は蓋石3枚、左右各3枚と前後1枚の側壁、底石4枚の緑泥雲母片岩で築造した長さ約180㎝幅約65㎝の組合式石棺で、内部には長刀3口刀子3口、鉄鏃若干、玉類のほか、人骨が2人分以上検出されていました。
 また棺の位置が地表下にあることから、「封土の裾近くに位置する類例に所属するもの」と推察しています。また北西50mの位置にもう1基、封土が削られ破壊された石棺が土中にあるそうです。

 活字は旧字体で、遺物の絵もとてもレトロですが、2段組み5ページにわたる詳細な報告で、断片的にしかわからなかった栗谷古墳の姿が、平戸台8号墳の姿とともに鮮明によみがえってきました。

 また、先日『八千代市の歴史』のこの項を書かれた村田一男先生から滝口宏編『印旛手賀』復刻版の昭和26年のページのコピーをいただいていたことも思い出し、読み直してみると、11行ほどの記述ですが、栗谷で行われた石棺調査の遺物などが要領良くまとめられてあり、末尾に「本調査は、この地域としては学術調査の非常に少ない場合の一例として貴重な資料を提供するものであった」と書かれています。

 さて問題は、古墳の場所です。
 「阿蘇郵便前を約弐粁ほど北進すると、道は印旛沼の岸に出るため䑓地上から下り坂になる。坂を下りおわると、道は東へと折れて保品の部落に通じる。
 この坂を下りきったところの西側に、道路から水田をへだてて標高二〇米の䑓地の端近く二基の古墳があり、その一基が本墳である。」

 大川清氏の論文には地図がなく、上記のように行き方が丁寧に記述されています。開発で道も地形も大きく変わってしまった地域ですが、10年前に八千代市郷土歴史研究会で行った古道調査のフィールドワークの経験で、たぶん東京成徳大学の前の坂を下りきった神野入口の左手台地だとわかりました。

 現在そこには老人ホーム「八千代城」がそびえ建っていて、その手前下には、偶然にも上谷・栗谷遺跡調査を行っていた八千代市遺跡調査会のプレハブが空き家のままになっています。

080910_001_3
 「八千代城」の旧地権者の方の家を、知人の八千代市郷土歴史研究会のメンバーのご紹介でお訪ねすると、「確かに八千代城敷地のやや左寄りの場所です」とお答えくださり、また「先代が調査の記念にと仏壇の下にしまってあった資料があるから」と見せてくださったのは、まさしく『古代』第11号の大川清氏の論文でした。

 ところで、現在遺跡の場所とデータを調べるためには、インターネット、特に千葉県の場合「ふさの国文化財ナビゲーション」を使っていますが、最近、奈良文化財研究所の遺跡データを非公式に利用している「遺跡ウォーカー」というすぐれものがあります。

 Googleの航空写真が出るので便利ですが、その位置は若干アバウト。(中には海の中のとんでもない場所を指す遺跡もありますので、要注意)
でも「栗谷古墳」でキーワード検索すると、詳細データとだいたいのこの場所が出ます。(でもちょっと北西に寄りすぎかな?) 重要な遺物データは入っていませんが、県文化財地図データにはちゃんと遺構だけはリストアップされていたのですね。

74s_3    1974年の航空写真と比べてみて地形の変化が大きいことに、今更ながらびっくりしてしまいます。

 平戸8号墳のおっかけで、偶然巡り合えた「阿蘇村栗谷古墳」。
 地域の小さな調査データでは、市町村合併や文化財担当係の世代交代で散逸してしまうことも多々あると思います。
 特に戦後間もなくの報告は、アブナイですね。

 今回、中村恵次氏の追悼遺稿集がきっかけで見つかった大川清氏の論文、旧家の仏壇に大切にしまわれていたことと合わせ、また滝口宏編『印旛手賀』の記事とともに、五十年近くたって今、また陽の目を見たことを喜びたいと思います。

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