F-3 「おちゃわん」考
「ご飯を食べるため左手に持つものが、おちゃわん」と子供のころから言われてきた「茶碗」。
ご飯を食べる器がなぜ「茶碗」といわれるのか、それがわかったのは、茶道(裏千家)の先生から茶器に関するうんちくを傾聴した中学のころだったでしょうか。
人のなせる技と自然の力が微妙にミックスしたやきものの不思議な美の世界には、今も関心があります。
先日、東京国立博物館の薬師寺展を見に行った際、「特集陳列・高麗茶碗」の展示(~2008年7月27日)をついでにのぞいてみました。
これは、「魚屋茶碗 銘さわらび」。(「さわらび通信」の名にこじつけたて撮ったわけではありませんが、)小堀政峯(1689~1761)が、箱の蓋裏に「さわらびのもえいづる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけり」 (源実朝『金槐和歌集』)と記した名品だそうで、春霞のような釉薬の淡い景色が素敵です。
ところで、「おちゃわん」といううつわの世界に話を戻します。
「白粥の 茶碗くまなし 初日影」 (内藤丈草・1662~1704・尾張犬山藩士であったが病弱のため致仕し僧侶になる)
茶器の「茶碗」がご飯を食べる器として転用されて、陶磁器の「お茶碗」でご飯を食べるようになったのは、江戸ではいつ頃のことでしょうか。
高原町(台東区寿町二丁目)の地名のいわれに「此地承応二年(1653)旧幕府茶碗用達人高原平兵衛ト云者ノ賜地トナリ高原屋敷ト唱ヘ来タリヲ明治二年町名トス」 (東京府志料)
随見屋鋪(中央区新川一丁目)のいわれに「同所新川一の橋の北詰、塩町の辺、その旧地なりといへり。このところに瀬戸物屋多く住せり。ゆゑに、茶碗鉢店とも号く。あるいは、随見長屋ともよべり。」 (河村瑞賢、1617~1699。『江戸名所図会』)
とあり、そのころ江戸では陶磁器が流通しはじめていたと思われます。
それまでは、弥生時代以来、飯椀、つまり木のお椀でご飯を食べていたのでしょう。
(Wordの漢字変換もよくできていて、「飯椀」と「茶碗」のわんの字はちゃんと書き分けている!)
縄文時代以来、漆器を含む木の器が日本の食文化を代表する食器であったはず。 現代も正式な本膳などは漆器に限っていますし、江戸時代の大奥でも陶磁器のお茶碗は、夜だけでの「お夜食茶碗」であったとか。
「瀬戸物」(関西では「唐津もの」)が民間でも使用され始めたのは、さらに寛政以降のことらしいです。 (大河ドラマの関連で読んでいる『天璋院篤姫』徳永和喜著にそう書いてあった)
「晴れの日」用の椀は、壺・平・汁・飯の四つの蓋つき椀「八十椀」 (蓋付で8点だから「八重椀」というのは間違いか?)が基本で、民俗事例として20客揃いの八十椀を各講中で共有する「貸椀制度」がありました。 (『民具研究ハンドブック』S60・雄山閣出版)
明治以降、山林が入会から国有になって伐採が不自由になり、木地師が定住して農家に転じてしまうと、木器の生産は急に減り、代わって陶磁器の生産がふえて日常生活にゆきわたります。 (『日本の生活文化財』S40・第一法規出版)
どの家でも、お茶碗でご飯を食べるようになったのはそのころ。また木器にかわるちょっとぜいたくでプライベートなお茶碗は、また個人によって使い分ける銘々器の始まりでもあったと思います。
江戸の足軽屋敷などの発掘調査現場では、お茶碗を含む多量の陶磁器が考古資料として出土します。
木器より残りやすいということもありますが、江戸では少々余裕のある家では、美しく衛生的な「せともの」が元禄時代から、食膳をにぎやかなものにしていたことでしょう。
⇒右のふたつの画像は、「御先手組」屋敷跡 東大追分学寮跡発掘調査見学会 で撮影(2008.2.2)した出土陶磁器です。
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