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2007年12月29日 (土)

F-2 中の山古墳(さきたま古墳群)出土の須恵質埴輪壺について

071202_129  12月8日のさきたま古墳群の奥の山古墳現地見学会の際、解説くださった若松良一先生に、歩きながら隣接する中の山古墳から出土した「埴輪壺」について興味深いお話を耳にしました。
 それは、通常の円筒埴輪ではなく、長い胴をした須恵器の壷で、さきたま史跡の博物館に常設展示されているとのこと。
 最近、弥生時代の生活用の壷が古墳の埴輪へと姿を変えることに興味を持っていましたので、耳をダンボのようにしてお聴きし、現地説明会が終わってから展示室で、じっくり拝見、さらに学習室で調査報告書の解説のページをコピーしていただきました。

 中の山古墳は墳丘長79m、剣菱形の二重の周濠を持ち、かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから別名、唐櫃山(かろうとやま)古墳と呼ばれている前方後円墳です。071208t_041

 若松先生の考察によれば、この古墳から出土した須恵質の壺は底部を焼成前に穴を開けてあり、最低21個体、また須恵質の朝顔形円筒埴輪7個体が、周堀に転落した状態で確認され、本来は円筒埴輪のように墳丘上や中堤に廻らされていたと推定されています。
 ただし、この灰色をした長胴壷は、古墳前期の埴輪壺や底部を穿孔した土師器とは時間的な隔たりが大きく、平底を持つことから別系統で、須恵器の技法によって造られ埴輪的な性格を持っていて「須恵質埴輪壺」の名を与えたそうです。
 系譜としては、百済系の平底壺を大型に製作し、底部を穿孔して仮器化したものという見方を示されておられます。

 その後、エックス線解析した結果、約30キロ離れた寄居町の末野遺跡第3号窯で焼いたものであることが判明。中の山古墳は埴輪が一般に置かれなくなる6世紀末から7世紀初めの築造と推定されることから、時代的にこの埴輪壺は最後の埴輪といえるでしょう。
 この日、口頭では、埴輪の風習が朝鮮半島に伝播し当地で須恵質に変容し、それが百済滅亡など半島情勢の急変による人の移動にともなって、逆輸入された可能性も示唆されておられました。
 壺型&器台型埴輪から形象埴輪へ、そして時代の変遷でいったん廃れ、またその終末期に埼玉の地で、姿を変えて埴輪壺として一時的に復活する現象は面白いですね。

 なお、桃崎祐輔氏の「笊内37号横穴墓出土馬具から復元される馬装について」という報告で、大分県日田市の天満天満2号墳では、埼玉中の山古墳のものと類似する須恵器埴輪壺も出土していると追記されています。

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