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2007年2月10日 (土)

S-6 弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑、そして発見地点のなぞにせまる

弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑

 2月3日、八千代栗谷遺跡研究会の皆さんと、本郷から東大構内、そして弥生土器の発見ゆかりの遺跡を訪ねました。

 文京ふるさと歴史館と「発掘ゆかりの地」碑を訪ねるとともに、武蔵野台地の東縁で沖積低地との接点にある坂の町を足で歩き、弥生文化の背景となった文京区本郷の地形を体験しようという企画です。 (→やちくりけんブログ)

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたことは、日本先史時代研究史上、あまりにも有名なことです。

070203_111s  司馬遼太郎氏は「街道を行く」で、根津駅から弥生坂をのぼった向が岡近辺について次のように記述されています。

『 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治二年(1869)政府に収用され、それでも名無しだった。
 明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、弥生をとった。向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時代には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。』

 この碑の詞書の続きは
「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ
 名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」。

 この歌碑がなかったら・・、この「向岡記」碑が弥生(3月)に建てられなかったら・・、碑文が誉めているのは桜の美しい向ヶ岡の地であって、「弥生」はただ記されたそのときでしかないのに、この碑文の建立月にこだわって町の名をつけなかったなら・・、稲作と金属器の「弥生時代」という時代区分は、いったいなんとよばれたのでしょう。
 「縄文」に対する無紋土器、略して「無文」(時代)なんていったらイメージが悪いので、単純に「向ヶ岡」、明治らしく漢文調では「向陵」(時代)だったのでしょうか。

 この見学会の企画に先立って年末に下見に行ったときは、日の暮れるのも早く、東大工学部浅野キャンパスをうろうろ歩き回っても、この碑は探せませんでしたので、2月3日、文京ふるさと歴史館の加藤学芸員にご案内していただき、この碑を校舎の狭い間に伐採した不用の刈り枝に覆われた状態で見つけたときは、感慨深いものがありました。Yayoi_1

   町の名となるほどですから、幕末から明治のころは、きっと拓本を採ったりする文人たちにもてはやされたことでしょう。
 自然石の風雅な石碑ですが、今は酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めません。でも、かろうじて「夜余秘」の文字(→画像)はわかります。

 加藤氏は、「文化財として覆い屋根をつけるなど、東大さんにも、もっと大事にしてほしいですね」と嘆息されていましたが、私も同感。近世・近代の文化を伝える文化財として、赤門並に扱ってしかるべきだと思いました。

弥生の壷の発見地点のなぞにせまる

 さて、有坂・坪井氏らによる弥生の壷の発見地点は、どこなのでしょう。
 坪井氏の報告や有坂氏の懐旧談にはあいまいな記載しかない上、その後の都市化が進む中で遺跡の位置は判然としなくなりました。

昭和 61年(1986)向ヶ丘弥生町会有志が、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という記念碑を建てましたが、「ゆかり」と刻まざるをえなかったのは、発掘地点が謎とされていたからです。

 070203_113s_1推定地としては挙げられてきたのは、
(1)東京大学農学部の東外側、
(2)東京大学農学部と工学部の境(「ゆかりの碑」付近)、
(3)根津小学校の校庭裏の崖上、そして
(4)東大工学部浅野キャンパス内の弥生 2丁目遺跡です。

 『古代学研究』15号-2001年6月で、上野武氏は『「最初の弥生土器」発見の真相-発見者有坂鉊蔵の嘘-』と題して、これまでの発掘成果や、有坂氏の回顧録の記述を詳しく分析し、最初に有坂少年が発見したのは(4)付近で、壷を見せた翌日に同行した東大理学部生坪井・白井両氏が(3)地点と間違えたことに話をあわせ、「正確な場所はわからない」と嘘を通したと結論づけています。

 また、2007年1月12日の読売新聞では、推定地は農学部内の生命科学総合研究棟付近とする原祐一氏の説を紹介しています。 工学部内は当時、射的場で警視庁用地なので気軽に発掘できない。現在の農学部内は、東京府の精神科病院用地で立ち入りは可というのが主な理由です。

 私は、上野氏の「有坂の嘘」説(本当は工学部内)と、原氏の新説(農学部内)の理由を読んで、次のように考えました。

 有坂氏が『「独占の宝庫」として秘密にしたかった(第一の嘘)。』『第一の嘘がばれることをおそれ「遺跡の正確な場所はわかりません」と嘘をついた(第二の嘘)』というのが上野氏の説ですが、私は、考古少年だった有坂氏は、本当は入場を禁じられた射的場の奥に入り、東側の崖際の(4)地点で壷を発掘し、坪井・白井氏に見せたところ、年長の両氏は、不法侵入の疑いをかけられるのをおそれ、「旧向が岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」(坪井・談)と射的場からの方向をごまかして話し、有坂氏は沈黙、晩年になって坪井氏と同様な見解を述べたというのが真相で、自然な流れだと思いました。
 ようするに、射的場不法侵入の証拠を隠すため、弥生二丁目遺跡付近である本当の発見地をあいまいにしたというのが私の仮説です。

参考HP :東京大学総合研究資料館 石器・土器・金属器(日本)5 壷形土器(重文指定)
東京大学埋蔵文化財調査室:本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

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コメント

 発見地の仮説、面白く読みました。仮説のための情報を提供することができ、うれしく思いました。土器の発見地については、東京新聞の1月14日、サンデー版に、「弥生」の由来とあわせて取り上げられているのでご覧ください。「谷根千」、84号に浅野地区の歴史の原稿を掲載しています。「谷根千」2月発行予定号で、インタビュー記事が掲載されますので、あわせてご覧ください。論文は、國學院大學博物館紀要に掲載予定で現在、印刷中です。
 「向岡記」碑については、同感です。先日、保存状況の調査を行ったところで、水戸藩邸があったことを物語る唯一の遺跡です。これから、大学側に保存の働きかけを行います。皆さんの意見も重要です。ブログに掲載していただきありがたいです。
 浅野地区には、武田先端知ビル、弥生二丁目遺跡に遺跡解説版がありますので、見ていないのであれば、ご覧ください。「弥生土器の碑」の裏にも解説版があります。射的場と「向岡記」碑の位置が示してあります。
 遺跡の成果発表を考えていますので、後日、連絡します。

                                  東大埋文 原

投稿: 原 祐一 | 2007年2月13日 (火) 11:44

東京大学埋蔵文化財調査室・原祐一様
直接のご研究当事者からのコメントをありがとうございました。
東京新聞の1月14日号は残念ながら見逃してしまいました。

昨年5月の日本考古学協会でのご発表も研究発表要旨では『●本論提出後、共同射的会社射的場が皇宮地付属地であったことが判明したため、土器発見場所は東京府地「荒」部分に訂正する』とありましたので、近いうちに、國學院大學博物館紀要の論文、「谷根千」2月発行予定号で詳細が報告されることを楽しみにしています。

発見地の仮説は、『古代学研究』15号の上野武論文と原先生の日本考古学協会研究発表要旨、発掘の成果から、土器発見地は浅野キャンパス内というのが妥当と感じていましたが、上野氏のいう「有坂の二つの嘘」の動機が、私には人情として納得しがたいものがあり、疑問に思っていましたので、1月の原先生の読売記事は「目からうろこ」で、有坂少年が晩年まで沈黙し、坪井氏もはっきりした場所を明示しなかった理由を、自分なりに解釈してみました。

武田先端知ビル(ピロティーの床のタイルも)、弥生二丁目遺跡の遺跡解説板は、いいですね。
キャンパス内に遺跡のある多くの大学も、ぜひ見習ってほしいなと思いました。
「向岡記」碑については、覆い屋(あづま屋)とベンチ、植え込みなどを風流に配置して整備し、当時の文化人の教養が、学生・市民にもわかるようにされたらいかがででしょう。
また、ぜひ摩滅前の拓本を見てみたいです。

>遺跡の成果発表を考えていますので、後日、連絡します。

楽しみにお待ちしています。ではまた。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2007年2月14日 (水) 00:24

協会の原稿は、書いている途中、内容が多少強引であったため、申し込まなければ良かったと思っていましたが。初稿が戻った頃、土地利用状況がわかる文書を発見したため、一文を添えました。危なく恥をかくところでした。当日、追加資料を配布しました。近代は文書があるだけに面白い反面、恐ろしいです。調べに行く度、新たな文書が見つかるので、書き直しばかりです。
 
私は、近世、近代が専門のため、弥生土器や遺跡に関する論文を避けていましたが、最近、勉強し始めました。ブログで紹介されていた、上野さんの論文は、先日、神田で購入し、引用文献の主なもの手に入れて読みました。自論を訂正する必要がないと思いました。上野さんの文章、読破した論文の数などから熱心さが伝わってきましたが、私は、斉藤先生以外の考古学者の事は知らないし、性格や学閥には興味が無いので、公文書と地図、最近の発掘調査の結果から検討しました。上野さんの論文には、私が見落としていた事柄もあるので、上野さんの論文と引用文献を追加し書こうと思います。

「向岡記」は、上野の岡が見える場所に移すべきだです。弥生二丁目遺跡付近が最適だと思います。先月、碑を見に行ったところ伐採樹の置き場になっていました。何とかしなければなりません。
東京新聞は図書館等でご確認ください。

「向岡記」の拓本が掲載されている文献です。黒木安雄編は大きく掲載しています。私は、国会図書館で複写しました。明治44年は小さいですが、写真が掲載されています。
・明治44年(1911)「第十五 東京市本郷區彌生町侯爵浅野長勳邸内向ヶ岡碑」『史蹟名勝天然記念物保存協会第壱回報告書』
・黒木安雄編 大正8年(1919)『書苑』十巻第四號 法書會発行

東大 原

投稿: 原 祐一 | 2007年2月15日 (木) 11:01

原祐一さまが書かれた『水戸藩駒込邸と保存が決まった“忘れられた”「向岡記」碑』という記事の載った「東大工学部教職員組合ニュース」をPDFファイルでいただきました。

この碑のある研究棟の挟間は、伐採された枝の置き場になっていて、これでは、近世~近代の地誌と考古学研究史のキーワードとなる重要な文化財が、あまりにかわいそうと思っていたところ、原氏の尽力で、武田先端知ビル内へ修復保存が決まったそうです。

修復展示されたら、ぜひ拝見したいですね。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2008年1月10日 (木) 22:41

5月24日~25日、東海大学湘南キャンパスで行われた日本考古学協会第74回(2008年度)総会の公開講演会と研究発表会に1泊2日で行ってきました。

2日目のプログラム最後のほうで、原祐一さんの「向ヶ岡弥生町の弥生土器発見地と土器の名称由来となった『向岡記』碑の保存修復と公開」 の発表がありました。

その中で、「向岡記」碑を共同基盤センターの設置することが決まり、来月以降移転されるそうです。

また文京区と東京都の指定文化財へむけての働きかけを行っているとのこと、
10月11日~11月24日茨城県立博物館特別展「幕末日本と徳川斉昭」で「向岡記」碑の展示が予定されていること
などの情報がありました。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2008年5月28日 (水) 18:00

加藤建設株式会社埋蔵文化財調査のHPに、原祐一さんがお書きになったコラム「東京大学浅野地区『向岡記」碑(むかいがおかきのひ)保存処理と展示」で、保存処理の経過が画像付きで掲載されています。
http://www.katoh-k.co.jp/columu/feature1-1.html

なお、原さんからの情報では、碑が設置されたら、東大浅野地区の見学会のご案内がいただけるそうで、楽しみです。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2008年5月28日 (水) 22:46

この「向丘記」碑が、修復と保存処理され、解説板とともに、東京大学浅野南門、情報基盤センター通路脇に2008年 8月 8日、無事移築されたとのことを、原さんからメールでお知らせいただきました。

やまださんのブログ「谷根千ウロウロ」にその経過がアップされています。
http://yanesen-urouro.bakyung.com/2008/08/post08081003.html
http://yanesen-urouro.bakyung.com/2008/08/post08082100.html

都心へ行く機会があれば、見てみたいですね。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2008年8月25日 (月) 18:09

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