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2006年9月25日 (月)

S-4 お墓に刻まれた遺言の道しるべ

 今から十年ほど前の1998年ごろ、八千代市郷土歴史研究会の仲間と八千代市内の道標の調査と古道の探索とその復元の研究を始めました。
 高本入口の「むかうへゆけばさくらミち」庚申塔道標のように石造物の造形として優れているもの、あるいは新木戸三叉路の「血流地蔵尊道標」のように江戸期の交通史資料として貴重なものなど、たくさんの道しるべを調査発見し、それは2001年105基の道標データとともに『八千代の道しるべ』という報告書刊行となって実を結びました。
 その時の調査では、江戸時代の道標は庚申塔や月待塔などに刻まれた供養塔が多かったのですが、ひとつだけ分類を「墓塔」とした例外的な道しるべが大和田新田の坪井町入り口の墓地にありました。06920_034s

 成田街道の復元した「血流地蔵尊道標」の立つ新木戸三叉路を吉橋方面へ300mほど行くと、「ミヤコシ」というバス停のところにY家の墓地があります。
 その中に、この道しるべを兼ねた文化14年(1817)の建立の墓塔があり、わかりやすい大きな字で次のような銘文が刻まれています。 (⇒画像)

正面 「 文化十四丑天
    教正院法山妙清信女霊位
     三月初九日」
左面 「右 よしはしヨリき於ろし
    左 たかもと又左つほい  道

右面 「本家高本三右エ門 
      大和田新田施主峯吉」

 左面の道しるべは、右へ行くと吉橋から木下へ、また左のわき道に入ると高本へ、そしてまた分岐して坪井へ至る道を案内しています。
 建立された位置は、墓地が整理されてしまっていたのでその時はわかりませんでした。

 道しるべが刻まれた個人のお墓というのは、市外も含め他に類例がなく、そのころからとても不思議に思っていましたが、今年度の八千代市郷土歴史研究会のテーマが「大和田新田研究」で、私は屋号調査を担当しましたので、旧家の聞き取り調査のついでに、ぜひそのなぞを解いてみたい気がしていました。
 そして通称地名「三軒家」と呼ばれたこの墓地周辺の昔の屋号を探索しているうち、やっとこのお墓に記された方の子孫のY家を訪ねることができ、道しるべのあるお墓の由来をお聞きすることができました。

 このお墓に葬られた方は、ご主人に先立たれたY家のおばあさんで、「高本のインキョ家からお嫁にきた方」とのことでした。
 このおばあさんは、亡くなる前に自分のお墓をぜひ道しるべにしてほしいと言い残され、その遺言に従って、女性一人としてはやや背の高いりっぱな道標兼用のお墓が建てられたとのことです。
  実家の「高本のインキョ」家とは、『八千代市の歴史 資料編 近世Ⅳ』の文久4年「生長祝儀并節句覚帳」に「高本隠居三右衛門」とあるので、道標に記された銘文の「高本本家 三右エ門」のことでしょう。06920_039

  実はこの墓石は、木下街道の拡幅前は、今のバス停の目印のところにあり、坪井町入り口の三叉路が拡幅され、高本へ行く道が墓地の右側に移動されるまでは、墓地の左手の細い路地が高本方面への道であったとのこと。ちょうど分かれ道のその角にこのお墓があったわけで、本当はとてもわかりやすい場所にあったわけです。 (⇒画像)

 りっぱなお墓の主のこのおばあさんは、晩年ご自分の実家、高本への道がとても懐かしかったのでしょうか。 あるいは生前、新木戸三叉路の自宅の門前で不安そうな旅人に道案内することが多く、没後も人のためにつくしたい一心で遺言されたのでしょうか。
 想像はつきませんが、今回の旧家の聞き取り調査で、長年の私のなぞもやっと解けた気がしました。

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