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2006年8月 3日 (木)

T-3 本佐倉城外郭・北大堀遺跡の姿

 私が城跡という遺構に興味を持ったのは、12年前のこと。
 たまたま手にした佐倉のマンション建設反対を訴える市民グループのチラシに、奇跡的ともいえる良好な状態で残されている臼井城の砦跡が危機的状況であることに心動かされて、測量調査の始まろうとしている遺構に単身で調査に通いました。
 (その記録は、「史談八千代」第19号1994の拙稿をご覧ください。)

 そのころは、光町の篠本(ささもと)城跡の現地説明会や、千田嘉博先生との見学会など夢中でお城めぐりや探索をしていました。
 将門伝承の残る本佐倉城もそのひとつで、今も折があるたびに訪ねています。

       ⇒  2006フォトアルバム 早春の本佐倉城跡-2005  (続)-2006

 さて昨年梅雨のころ、メールでひとつの情報をいただきました。
内容は、成田街道の酒々井町のスーパートライアル(元ダイエー跡地)反対側での発掘調査で、中世の堀が見つかり、その堀の中から、大量のカワラケが出土していて、文献に載っている家康の五男の武田信吉が住んだ屋敷ではないかとの説もあるとのこと。
 遺跡は本佐倉北大堀遺跡といい、ダイエー建設前の調査でも巨大な堀が見つかっているそうです。

 さっそく翌朝、梅雨の晴れ間に行って見ました。印旛郡市文化財センターが行っている調査現場はその日は無人で、発掘もほぼ終わりかけていて、カワラケなどは全て取上げも終わっていたようでしたが、幅3mぐらいの薬研堀の大きな堀の姿は壮観でした。

050511motosakuras_1   

 とりあえず写真だけ撮り、(HP掲載は遠慮して)報告書や遺跡発表会で詳細が明らかになるのを待っていると、センターの広報誌に報告が載り、また7月22日の遺跡発表会で天本昌希さんの詳しい報告「酒々井町本佐倉北大堀遺跡―発掘が語る中世戦国時代の城下町―」をお聞きすることができました。06722kawarake_1

    北総の城跡探索で興味深いのは、やはり「惣構え」の壮大さとその複雑な縄張りにつきます。
 今回の発掘調査で本佐倉城の城下に53m×67mの方形の堀に囲まれた戦国末期の館跡の存在が明らかになったことでしょう。06722touki
 おそらく家臣団の屋敷の屋敷のひとつだったこの館跡は、1590年本佐倉城が滅亡後、徳川家康の五男、武田信吉(のぶよし=万千代)がこの地を治めるにあたり、居館としたといういわくつきの「史跡」であるらしく、『成田山参詣記』の「本佐倉村千葉家故城址の図」の「万千代殿ヤシキ」の位置と推定できるというのも興味深いことです。

Kitaoohoriisekitizus_1 遺跡発表会の帰り、いつもお世話になっている八千代市郷土歴史研究会会長であるM先生を車でお送りしました。
 車内でこの遺跡の話題に触れると、先生は昭和58年の国道敷地部の調査に立ち会われ、その時は堀の中から多量に出土した白骨におどろかれたそうです。

 印旛沼のほとりには、国史跡となった本佐倉城のほか、臼井城やその出城の師戸城などがよく保存されています。
 しかし、本佐倉城で半径1.5mというその巨大な「惣構え」の全貌については、その後の開墾や開発で明らかになっているわけではありません。
 今後も道路や店舗の工事に伴って、小規模ながらも数次にわたって行われる調査の貴重な成果に期待するところです。
 作年夏、こっそり訪ねた調査現場でしたが、ほんとにすごい薬研堀を見ることができて感動でした。情報をお寄せくださった方に感謝します。

(北大堀遺跡は 「千葉市の遺跡を歩く会」HPの力作「空撮 本佐倉城周辺」のページでは、左下のスケールの400の縦線の辺りになります。 残念!はみ出しちゃったね)

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