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2006年2月 2日 (木)

Y-7 縄文土器にも「壷」と台付の鉢があった

このブログって皆さん見ていてくださっているのですね。
考古学にちょっとだけ首を突っ込み始めたたわいのない思いつきに、その筋の玄人さん、院生さんが助言やコメントをくださって、いわば「初心者のための考古学教室Q&A」になりつつあるのも、皆様のおかげです。

2005年12月26日 (月)の〈弥生の壺は魂のうつわ?〉と、2006年1月22日 (日)の〈台付甕形土器は弥生の「文化鍋」〉この記事に、土器のプロ・鈴木M氏からメールでコメントが届きました。

まずは、「台付甕とは弥生式研究の言い方ですが、縄紋式後晩期では台付(深)鉢が当たり前のように存在します。 九州と東北北部です。」とのこと。
さらについでに壷も上野原で早期から。亀ヶ岡でも大いに発達します。
また、弥生式の台付甕も地域によっては採用しません。 
ということで、土器は人類史としての観方が先ずベースとして必要に思います。

というメールでした。

1999 そういえば、1999年姶良町の「鹿児島県埋蔵文化財センター」で見た福山城ケ尾遺跡の縄文早期の壺は、びっくりでした。
当の本人はほとんど忘れてかけていたのですが、「さわらび通信」第1号記事「縄文への旅-鹿児島と種子島の先史時代文化を訪ねて」は、このルポでしたね。

約7,400年前に作られた壷形土器。縄文時代に壺はないとされていたところが、九州南部では、縄文時代の早期、約8,000年前に突如として出現し、7,400年前頃に忽然と消えてしまったとか。
深鉢1個と壺3個がほぼ完全な形で出土したのは、丁寧に埋めてあったためで、すぐ近くに円形の浅い大型土坑が2基。土坑からは耳栓状の土製品3点と異形石器・石鏃等が出土したそうです。
土器の外側には煤が付着しているものの、内側に焦げなどの痕跡は認められず、食物の煮炊きに使ったのではなさそう。何か大事なものを入れたのでしょうか。
この塞ノ神式・平栫式の土器文化は、その後どうなったでしょう。一説に、鬼界カルデラの噴火が原因で、南九州の早期縄文文化が衰退したというお話もありましたけれど・・・

2004 縄文の壺が再度現れるのは、縄文時代の終わりごろ?
そういえば、一昨年(2004年)秋に青森の遺跡探訪旅行で訪ねた市浦村資料館で見た「縄文の壺」。不思議に思ってなにげなくカメラに納めていたことを思い出しました。
実にきれいですよね。(詳しいことをご存知の方、どうかコメントをつけてください)。

2004 この旅では、亀ヶ岡の遮光式土偶の本場・木造町へも行きました。
そこで撮った土器は、土偶でなく「台付鉢」。(何でこんなもの撮っていたのだろう?)
鈴木M先生のおっしゃるとおり、「縄文時代も台付鉢があった!」

いっぱい見聞きしていても具体的な問題意識がないと、本当は「見逃している」ということに、気づきました。

日本列島も、先史時代も、広くてながーい。
オセアニアで有袋類が旧大陸の哺乳類と同様に、「独自に進化」していったように、人の文化史は、お互いに影響しながら、あるいはそれぞれの地域で全く独自に「進化」していったのでしょうか。
謎はつきませんね。

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