Y-8 未完の美を留め置く輪積みのうつわ
Y-3「仮称・栗谷式」の土器など八千代の土器の中で特に印象深いのは、上部分に粘土紐が何段か輪積みされた跡のある普段使いの甕です。
これらの輪積みの装飾のある甕は、同じ住まいから出土する精巧なつくりの壷、あるいは細かい縄文や櫛描きのある細長い甕などに比べて、いかにもフリーハンドで作られたような素朴な味わいがあります。
土器を作る際、粘土紐をぐるりと回しながら積み上げるというのは土器作りの基本的なプロセスですが、外側にだけ輪積みの技法をそのまま残しながら、内側はしっかり刷毛などできれいに仕上げるというのは、輪積みの粘土の上を手で捺すことも、なで直して修正することもできないのですから、とても難しいテクニックに思えます。
土器生成の途中の姿をデザインとして生かすというのは、どういう発想なのでしょう。
ふと連想するのが、関東で10~11世紀に作られた鉈彫りの仏像彫刻です。
横浜市弘明寺の十一面観音が有名ですが、房総では市原市蓮蔵院の聖観世音菩薩、長生郡睦沢町妙楽寺の毘沙門天など隠れた優品があります。
精巧で端正な定朝様式の仏像が流行する中で、丸鑿の跡を表面に残したそれらの彫像は、東国ならではの作品ですが、人の巧みの力が素材に加えられたその瞬間を未完の美として留め置いたという意味では、この輪積み痕の弥生土器にも相共通する美意識を感じます。
鉈彫り彫刻は、樹木に宿る精霊を意識したとも解釈されていますが、土器の世界でも、粘土の持つ霊力を意識していたのでしょうか。
この輪積み痕の系譜は、関東弥生土器の編年や型式の研究でも重要なポイントだそうで、特に南関東の弥生後期の土器型式で考古学研究史上有名な「久が原式」の特徴にもなっています。
大田区久が原の遺跡は、1925~1930年ごろ、中根君郎・徳富武雄らによって調査研究され、その出土土器は「久が原式」と名づけられた歴史ある遺跡で、私も以前にその土器群を大田区の郷土博物館で見たらしいのですが、もう一度ちゃんと見てみようと、2006年2月5日再度この博物館を訪ねてみました。
この写真は、中根君郎氏が発掘したという由緒ある甕。なんと11段もの粘土紐の輪がきれいに積まれた名品でした。
ところで、「久が原式」の輪積み痕の土器の本場は南房総で、ここから三浦半島経由で東京湾岸に広がっていったのだそうです。 考古学の黎明期、先進的な研究者のフィールドとなったのが、たまたま大田区久が原であったわけで、それがもし、市原や富津だったら、「宮ノ台式」と並んで千葉県の遺跡名が標式に採用されていたかもしれませんね。
この久が原式の輪積み痕の技法の応用は、東京湾岸の息吹が通う八千代の土器にもしっかり受け継がれて開花していました。
その中でも、この道地遺跡007号跡から出土した土器は、輪積み技法の素朴なフォークロア精神が遺憾なく発揮された(仮称)栗谷式の逸品といえましょう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント