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2006年1月22日 (日)

Y-6 台付甕形土器は弥生の「文化鍋」

 2005~2006年の冬は、例年になく寒く、1月21日はとうとう八千代も大雪になってしまいました。
 寒い夜の帰宅時に思いつく夕食は、やはり鍋料理です。(馬場小室山遺跡研の懇親会もなぜか夏もちゃんこ鍋!)

 先史時代の住居跡は炉跡で決まるそうですが、その鍋が縄文の深鉢から弥生の甕へ、また中世の内耳鍋から近世の鉄鍋に、そしてわが家の鍋が土鍋から今の電気鍋へと変わっても、囲炉裏やコンロの上でふつふつと煮えるひとつ鍋を囲む家族の風景は、不変のように感じます。

 kuriya04 ところで、弥生後期の住居から出る土器に、脚台の付いたへんな形の甕があります。これ(→)は、栗谷遺跡に隣接する八千代市内境堀遺跡から出た「台付甕形土器」です。
 初めてこの「台付甕」という大きな土器を見せていただいたとき、高杯を連想して祭りのお供え用にでも使うのかとも思いましたが、黒く煤けていて、もっぱら煮炊きに使ったとか。
 報告書などを丹念にみると、この脚台の部分だけが検出される場合も多く、けっこう普及していたようです。

 この台付甕の特徴は、煮炊きする時の熱効率がよいこと。縄文の深鉢や弥生の平底甕に比べ、高さがありますから、火が土器の底に当たって中で対流がおこり、全体に熱が伝わる構造になっています。
 もしかしたら、多少水分が少なくても下が生煮えで中はおこげということもなく、上手にご飯(ちょっと固めのおかゆ?)が炊けたかもしれません。
 この土器のおかげで、スープたっぷりの中に具をいれて食べるしかなかったそれまでの食生活が変わるきっかけになり、さらに五穀飯のおにぎりでも作れれば、お弁当持参で遠くに行けるそんな生活までもう一歩の調理法になったかもしれません。
 この台付甕のルーツは東海西部から関東南部に至る地域で、弥生中期後半から古墳時代前期にかけて汎用された便利なグッズでした。
 母は、炊飯器が普及するまで、「文化鍋」というご飯が吹きこぼれずにうまく炊ける昭和の新型鍋を重宝していましたが、台付甕は「弥生の文化鍋」であったと思います。

 074-5_2 ところで先日、やはり八千代市内の道地遺跡(島田台から白井へ抜ける新道の遺跡)の住居跡から出土したちょっと変わった特徴の台付甕(→)を見る機会がありました。
 脚台が欠けていますが、全体に縄文が細かく施され、頚と胴の一部は水平に摺り消しています。特に下のほうは、スリムに長く、また附加条縄文をつけていて、縄文大好きの北総・茨城の土器の特徴が、実用本位の新型土器にも遺憾なく発揮されています。
 このお家からは、輪積み痕が特徴の甕や、羽状縄文帯が廻る装飾壺など、南関東の土器が一緒に出土していました。
 弥生の八千代の人々のおうちには、東海から、南関東から、北関東からのそれぞれ特徴あるデザインの土器があふれ、伝統と新感覚の間で、それらのウェアを楽しんでいたことでしょう。
 
 ところで、時代とともに台付甕から甑になり、おこわが食べられるようになっても、やはり東日本主流の冬の夕食の定番は、今も昔も鍋料理。
 千年万年たっても、私たちの祖先から染み付いた食生活の好みは不変のようですね。

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コメント

おぉ すごい。
はっきり火にかけた跡がわかります。

この写真上の甕は、脚台の部分はあまり煤けてなくて、胴の部分(しかも特定部位)がよく煤けているように見えます。

こういう痕跡から、甕の火のかけかたや、ふきこぼれの跡がある甕とそうでない甕との共通点・異なる点を考えることに興味があります。

また、南関東系と北関東系の土器が共伴する出土例も、その遺跡で活動した人々と土器の関係を考えるうえで興味深いです。

リンクをさせていただきました。よろしかったでしょうか?

投稿: やまひろ | 2006年1月23日 (月) 14:58

初めまして。やまひろ様

>おぉ すごい。

素直に感動いただき、台付甕形土器の画像をUPした甲斐がありました。

こんな土器を作っちゃう東海地方って、案外昔から発明好きだったのかも。

かつて、陜西省歴史博物館を訪ねた時、重厚すぎる中国文明に圧倒されて(というか辟易して?)、私は煮炊きのための鍋の変遷という単純なテーマを自分で決めて見学してみました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/23seian/seian23.htm

底部を上にあげて、熱効率を良くするというのは、台付甕と同じ発想ですが、龍山文化の土製の炊器(鬲=レキ)では、脚が3本。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/23seian/23hakubutukan2.jpg

レキは、実は蒸し器だったそうで、これが青銅器になると、帝位の象徴として「軽重を問う」ほどにやたらりっぱな「鼎」に進化していきますが、わが「台付甕」のほうはその後、どうなってしまったのでしょう。

土器でご飯を炊くというのは、意外と難しい調理法で、古代はきっと甑で蒸すほうが、手っ取り早いお米の調理方法だったのでしょうか。

やまひろさんのブログ拝見しました。
福島城跡の調査もされたのですね。
青森の十三湊遺跡へは、一昨年の11月に千田先生のご案内で訪ねました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/aomori/aomori1.htm
遠い地ですが、地道な発掘調査の成果が注目されていますね。

>リンクをさせていただきました。よろしかったでしょうか?

当方もリンクしました。
携帯ですばやくアップされている若い方のブログ、楽しいですね。これからもよろしく。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2006年1月23日 (月) 22:46

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