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2005年12月26日 (月)

Y-5 弥生の壺は魂のうつわ?

 弥生の土器で甕というのは、縄文の深鉢にあたる器ということですが、弥生の壺に当たる縄文の土器というのはあるのでしょうか。
 05おそらく、内容量に比して、あの頚が細い器は弥生時代独特の土器のように思えます。 頻繁に出し入れすることはあまりないだろうと思われる首の細さ。決して煮炊きには使われることなく、据えられる器。いったいその中には何を入れたのでしょう。
 8月10日の記事で紹介した弥生1号土器を連想させる丸い飾壺には、きっと種籾を保存したのだろうというのが、一般的な説のようで、あの頚の細さは、私には、稲の精霊を封じ込めるためなのかとも思えます。

 ⇒は、栗谷遺跡の方形周溝墓(C006)から出土した弥生中期の細頚壺です。
 佐倉市の環濠集落大崎台遺跡からも類似した壷が出土しており、ともに出土した土器から「宮ノ台式」の壺とされました。
 棺のまわりに溝が四角形にめぐる方形周溝墓は、西日本から伝わった埋葬方法だそうです。
 栗谷遺跡から方形周溝墓は、中期住居5軒とはやや離れた場所に11基見つかっており、どちらからも同時期の土器が出土し、墓域が集落の展開と密接な関係の中で形成され、またこの方形周溝墓がこの集落の住民の家族墓ではないかと思われています。

IMGP0369   この細頚の壺から連想されるのが、佐倉市岩名天神前遺跡の人骨片とともに出土した十数個の華麗な文様の壺型土器類群です。
 1963年明治大学の杉原荘介により調査され、弥生中期中葉の再葬用壺棺とされ、現在、明治大学博物館に展示されていました。⇒

 遺体が白骨化してから、骨だけを集めてあらためて壺に入れ埋納することは、縄文時代から見られる東北地方南部から下総地域に特徴的な葬法だそうですが、現代でも沖縄では「洗骨祭」が行われており、沖縄県石垣島出身の職場の同僚から、その儀式の次第を詳しく聞いていましたので、祖先の霊をこのような形で祀ることを違和感なく身近に感じます。

 PICT8227 この細頚壺のほか、栗谷遺跡では、再葬用の径の大きな壺もお墓から出土しています。⇒ (05.5.11八千代市遺跡調査会にて、頚のリボンは担当者のご愛嬌?)
 最近では、成田市南羽鳥の遺跡群からも出土していますが、北関東系の壺に南関東系の甕型土器を蓋のように組み合わせてあったとのこと。
 方形周溝墓というあたらしいお墓に、伝統的な再葬の壺。やはり下総は、「何でもあり」の南北の文化のミックスするところだったのでしょう。

 これらのような再葬用の壺が、群馬県岩櫃山では聖地というべき見晴らしのよい山の岩陰に納められていたり、また神奈川県の中屋敷遺跡では土偶型の壺を、茨城県女方(おざかた)遺跡では人面の付いた壺を使用したりしています。
 これらの再葬用壺の出土事例から、弥生時代の一時期、遺骨を丁寧に祀る信仰儀礼が確立していたことに、祖先の霊として遺骨を崇拝するという現代まで通じる基層信仰のあり方を感じます。

 さて、栗谷の装飾された細頚壺ですが、小ぶりな点から、私は子供の骨を収めたのではないかと思います。
細頚壺は、魂を入れる容器であり、その細い首は再生への精霊のかすかな通り道。そして、カミ(祖霊)の宿るこの器はヒトの体(=胎内)の象徴であったと、素人の私は想像しています。
 「壺は魂のうつわ」とすると、住居に残されたパレス型の飾壺は、やはり稲魂の入れ物だったのでしょうか。

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コメント

 縄文時代晩期終末の土器と弥生時代初頭の土器を区分する際、当時使用されていたセットに大型の壺が含まれるかどうか、ということを指標とすることもあるように、壺は弥生時代を特徴付ける器種といってよいでしょう。
 しかしながら、その中に入れたものはいったいどんなものだったのかというと、遺跡から出土する例が殆どないことから、本を読んでもあまり深く触れられていないのが現状ではないでしょうか。私も中身について真剣に考えたことはありません。すみません。

 さて、大型の細頸壺は、関東地方では弥生時代前期から中期前半にかけて、壺棺再葬墓の骨壺(蔵骨容器)として用いられるようになります。壺棺再葬墓はムラから離れた場所に営まれ、一つの墓坑内には複数の壺が埋置されることから、個人墓ではなく家族墓であったと考えられます。
 こうした伝統的な関東地方の社会に、突然、東海地方から宮ノ台文化(一部はその1段階前の中里式期)が伝来します。環濠集落や方形周溝墓、鉄器といった西日本からの新しい文化が波及したことにより、南関東地方の生活様式はそれまでと比較して大きく変化したものと考えられます。
 方形周溝墓は、墓坑に木棺を用い、その中に被葬者が埋葬されます。墓坑の周りを1辺の長さが10m前後の溝で外界との境界を設けます。そして、埋葬の際には墓坑のそばで小型の壺等を使用した葬送祭祀(儀礼)が行なわれたと考えられます。また、中央部に埋葬された人物と関係のある人物(一般に中央の被葬者よりも下位の人物とされています)が、溝の中に埋葬されることもありました。

 このとき(中期後半)、宮ノ台文化の伝来しなかった東関東地方や、宮ノ台文化の分布の境界であった下総地方の東部では、壺棺再葬墓に続く墓制である土器棺墓が展開します。土器棺墓は中期前半まで盛んだった壺棺再葬墓と一見似た墓制ですが、壺棺再葬墓が1つの墓坑の規模が大きく複数の蔵骨容器を埋納するのに対して、土器棺墓では埋設される土器が1個体か、2個体以上であっても組合されています。また、墓坑の大きさも埋納される土器の大きさよりも一回り大きい程度です。そして、茨城県にある足洗遺跡の土器棺から乳児の下顎骨が出土していること等から、土器棺墓に埋葬される被葬者は乳幼児であったと考えている方もいます。
 その後、土器棺墓は東関東地方を中心に後期においても展開しますが、土器棺墓への埋葬方法が再葬であったかどうかは、資料が少なく、現時点では断言できません。

 以上、長々と関東地方の弥生時代の墓制を概観的に見てしましましたが、このこのように考えますと大型の細頸壺の一部は、蔵骨容器として使用されたものと考えられます(また、一部は種籾等の貯蔵に用いられたと考えられます。)。
 ただし、同じ蔵骨容器とはいっても、時期や地域により埋葬方法が異なっていますので、全てが再葬なのか、といった点や被葬者の年齢については、一律には判断がつきかねるのではないでしょうか。

 そして、いよいよ栗谷遺跡C006出土の細頸壺ですが、報告書を読みますと、溝の覆土下層からの出土と記載されています。また、出土部分には溝の中の埋葬施設のような掘り込みも確認できません。そうしますと、私としては、蔵骨容器というよりは、埋葬に伴う祭祀(儀礼)で行なわれた壺である可能性を考えたいと思います。使用された後、月日が経過し、立てて置かれていた壺が転がって溝の中に転落したという、古くから指摘されている説ですが…。
 ただし、葬送に伴う祭祀に用いられた壺ですから、中身に何が入れられたかは大いに議論されるべきところでしょう。不勉強でこの点についてはわかりませんが、「魂」に関係するモノなのでしょうか。

下総地域で弥生時代に展開する「方形周溝墓」、「壺棺再葬墓」、「土器棺墓」については、用語も含め、その埋葬方法の違いや被葬者像ももっと検討がなされることを期待しています。
(壺棺再葬墓については、多古町の志摩城跡の報告書が刊行されれば、その後、かなり議論が活発化すると思います)

以上、長々とすみません。何かコメントをしようとは思ったのですが、重い内容でしたので、中々できず、また、詠みにくいもので申し訳ありません。

投稿: T花 | 2006年1月 1日 (日) 18:23

T花さま、貴重なコメントをありがとうございました。

房総の弥生時代の墓性としては大まかに次の流れになるのでしょうか。

~中期前半までの壺棺再葬墓
~南からの方形周溝墓の伝来
~後期に印旛沼周辺では土器棺墓を採用

関東地方の弥生時代の墓制についての概論のテキストが手近になかったので、すっかり頭の中が混乱していましたが、T花樣の解説で多少整理できました。

壺棺再葬墓の長頚壺(⇒http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/./notebook/images/IMGP0369_2.JPG
土器棺墓の大型壺(⇒http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/./notebook/images/PICT8227.JPG)

この間がヒトの世代だと、どのくらいの世代差があるのでしょう?

「壺棺再葬墓」も「土器棺墓」も、土器の壺に一部の遺骨を収納して埋納する点では、土器の形や時代区分が違っていても、墓制(葬り方)としての概念は同じだと思えます。たしかに「用語」としては、わかりづらいです。

>全てが再葬なのか、といった点や・・・

吉野ヶ里のような超大型甕棺ならいざ知らず、口の狭い「壺」の形である土器棺では、土葬・風葬・火葬にいずれかの「再葬」で、処理された骨しか入りませんよね?

本文では沖縄の洗骨祭の事例を書きましたが、東北では立石寺などの山岳宗教の寺院に遺骨や歯の一部を壺に入れて山中に納める習慣が今も続いています。

方形周溝墓から古墳へと発展していく流れと、遺骨の一部収納に執着する流れが、文化的にも交錯する時期と地域のなぞをもっと知りたいですね。

ぶあつい『千葉県の歴史 資料編 考古2』を図書館で借りてきて見ています。始めの方の概論「2 弥生時代のムラと墓」が事例が紹介されていて、多少わかりやすいようです。

>栗谷遺跡C006出土の細頸壺ですが、報告書を読みますと、溝の覆土下層からの出土と記載されています。また、出土部分には溝の中の埋葬施設のような掘り込みも確認できません。

なるほど、埋納ではないということですね。
とすると、供献用の容器。ということは、中身はきっと御酒でしょうか。
御酒も、「魂」に最も近い飲食物だと感じます。(今でも?)

一方で方形周溝墓に供献用壺とその台を並べる墓制から、やがて古墳とはにわの林立する墓制に代わっていく。とすると、
やはり「壺」はその形が意味するものが大きいように思えます。

T花様、どうか今後ともよろしくご教授ください。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2006年1月11日 (水) 00:41

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