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2005年12月 6日 (火)

I-6 鎌倉の永福寺遺跡に学ぶ視点

廃墟となったそのままの姿が美しいと感じられる遺跡のひとつに、鎌倉の永福寺跡があります。
鎌倉宮から水仙で有名な瑞泉寺へいく途中の、鎌倉青年會による大正九年建立の永福寺跡の記念碑、その奥にある草原が、今も「二階堂」の地名にその由来を残す永福寺の跡でした。

昨夏、発掘を担当された方のご案内で遺跡を見る機会があり、夏草が茂るままの戦場ヶ原のような遺跡と、経塚が発見された東の山などまわりの環境も含めて、鎌倉の世をしのぶにふさわしい景観に感動しました。 →史跡歳時記2005.9.4
この遺跡は1983~1996年に発掘調査がされ、西の山を背にして、中央には二階堂が、左(南)に阿弥陀堂、右(北)に薬師堂を脇堂として並び建ち、前面(東側)には大池が配され、橋が架けられていたとのことなどがわかったそうです。

05 今年も12月3日に、永福寺をめぐるシンポジウムが鎌倉で開催され、その午前中、再び永福寺の見学会も行われて、現在設置工事が進んでいる遊歩道を歩き、大伽藍のあったであろう場所の背後の西の山に登る機会がありました。 →史跡歳時記2005.12.3
調査後、埋め戻された庭園跡は、その十数次の調査の過程を物語るように、草紅葉が曼荼羅のような不思議な彩りを見せています。その色彩の変化が埋め戻しの土質の微妙な差によるものなのかわかりませんが、人々の歴史や思いの上を覆うように、生命の営みがまた新しい自然と調和の世界を作り出しつつあるようです。

午後からのシンポジウムでは、考古、文献、建築史などの分野から新しい視点での報告がありました。
特に文献データを詳細に検討された秋山哲雄氏は、頼朝が一連の戦いの敵方供養のため平泉の「二階大堂」を模して建立した永福寺が、その後、花見や歌会の場ともなり、またその後の2度の再建に際しては、勝者としての象徴と源氏の氏寺の性格を付与されていったことが明らかにされました。

また、鎌倉市の世界遺産登録推進担当の玉林氏は、永福寺から始まった「敵方供養」が、「敵味方供養」へと発展し、また鶴岡八幡宮での殺生を悔いる「放生会」の贖罪の思想を融和して、日本人の来世観・平等思想の特徴となったことを述べています。
古都・鎌倉が「世界的に価値ある人類共通の遺産」のひとつとしてこの遺跡にも目を向けていることは、「靖国」に対するアンチテーゼとして、この「敵味方供養」の心を読み取り世界へ平和を発信していくことにあるのかもしれません。

遺跡の保全と活用=遺跡に学ぶということは、単に整備やハコモノに予算をかけることではなく、遺跡をめぐる人の歴史と営みに思いをめぐらすことであり、また、力あるものの栄華が永遠でないことを、遺跡を通して知ることでもあると感じます。
鎌倉幕府、そしてその後も足利政権の鎌倉府の栄華の象徴でもあった永福寺は、十五世紀の火災後再建されることもなく、ひっそりと長い眠りにつき、それは、結果として中世の遺構がそのまま貴重な遺跡として現代に伝えられることにもなりました。
その廃墟としての姿は、芭蕉が平泉(毛越寺?の跡)で泪したように、人が殺しあうことへ悔悟の念と人の歴史の栄枯盛衰の無常を訴えているのだと思います。
今後おこなわれるであろう遺跡整備の過程でも、その視点が失われないようにと祈りたいと思います。

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