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2005年12月31日 (土)

K-5 子安鬼子母神像のルーツ

kariteibo  2005年暮れ、新しい年のカレンダーに替えようとして、2005年の古美術カレンダーの中のある写真が捨てがたく、しばし手にとって、スキャナーで画像保存しました。
その画像とは、訶梨帝母座像、鎌倉時代の滋賀県園城寺蔵の重要文化財彫刻の写真(⇒)です。

この神像は、、他人の子供を奪って食べてしまう鬼神だった訶梨帝母(ハーリティ)に対し、釈迦が彼女の末子を隠して子を失う母の悲しみを悟らせたことから、彼女は仏教に帰依して子供の守り神となったという鬼子母神説話(「雑宝蔵経」)に由来し、この説話は密教とともに日本に伝えられ、平安後期には安産祈願の修法が盛んに行われたといいます。
この訶梨帝母が天女の姿で右手に柘榴(吉祥果)をもち、子を抱いた像は、ルネッサンス時の聖母子像にも似た慈愛に満ちた母性を感じさせる刻像です。

IMG_0597 この夏、八千代市の女人信仰と子安観音像容成立の過程を追って、萱田町長妙寺の子安鬼子母神像を調べに行きました。
日蓮宗系では、鬼子母神説話に基づく子を抱いた訶梨帝母像を、子安観音像に似た子安神として祀るとのこと、その事例を萱田町長妙寺の子安鬼子母神像にも見ることができます。
「ぢの呪い」と八百屋お七の墓があることで有名な長妙寺境内に入ると、水子の霊を供養する現代の慈母観音像の横に子安像が3基ありました。
嘉永2年(1849)建立の像(⇒)は、懐に子を抱き左手にざくろの実(枝)を持つ子安型の鬼子母神座像で、台石に「女人講中」のほか講の女性の名も記されています。
鬼子母神像には合掌した鬼型もありますが、日蓮宗地域の女人講では子安型の訶梨帝母石像を祀ることもあるようで、船橋市内では前貝塚町行伝寺の文久二年(1862)造立の光背型の子を抱く立像があるそうです。

もっとも、近代の建立では、長妙寺の明治16年(1883)像、昭和39年(1964)の像のように「子安鬼子母神」と刻されていなければ、右手に蓮を持った如意輪系の子安観音とその像容の区別がつかないものになっていきます。

日蓮宗系に多いこの子安神像は、近世末期から近代にかけて、安産子育ての現世的祈願とともに子安講が子安像を祀る慣習が村々で一般化していくととともに、神保領だった船橋市や八千代市の一地域でも、宗旨にふさわしい像として造立されていったのでしょう。

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