S-3 小岩の「岩附志おんじ道」道標が示す慈恩寺とは
京成江戸川駅を降りて毎朝、私は小岩の一里塚の職場まで通勤していますが、その道は「さくら道」といわれた下総と江戸を結ぶ重要な古街道でした。
今でも、その界隈は小岩・市川関所に関連した「御番所町」の風情と常燈明などの史跡が残っています。
そのひとつに、角屋旅館のあるT字路正面の民家の東向きの塀にくい込んで建っている「道しるべ」があります。
銘文
右面(実際は、ブロック塀で読めない)
「左リ いち川ミち
小岩御番所町世話人忠兵衛」
正面「右 せんじゅ岩附志おんじ道
左リ江戸本所ミち」
左面「右 いち川みち
安永四乙未年八月吉日
北八丁堀 石工 かつさや加右衛門」
三十年間通いなれた道に立つ変体仮名の道しるべでしたが、なんと書いてあるのか、銘文を読んでみようと思ったのは、15年前、八千代市郷土歴史研究会で古道調査のノウハウを学んでからのことでした。
今は江戸川区教育委員会の説明板もできていて、書体が良いので拓本を採っているという書家の方や、古街道調査の方、また、歴博の山本光正先生にお会いしたこともあります。
元は、もっと銘文が鮮明でしたが、近年の多雨の気候のためか、カビのような苔が繁殖して読みづらくなっています。(最近そういう石碑や石仏が多いようですね。)
市川の渡しから、小岩の関所を抜けてまっすぐ来るとこの道標が正面にあったわけで、右の道は千住から「岩附志おんじ」へ行くらしい。この「志おんじ」とは、岩槻の慈恩寺のことらしいが、ずいぶん遠いお寺を指していると、当時はとても不思議に思いました。
実は、この「慈恩寺」は坂東観音霊場の12番札所で、関東の村々や町の主に女性たちの巡礼が遠くから参詣にきて、とてもにぎわったお寺でした。
その慈恩寺ですが、10月22日に、馬場小室山遺跡研究会で岩槻に行くことになり、急遽ご案内くださる方にお願いして、コースの最後に入れていただき、念願の「志おんじ」にお参りすることができました。
この慈恩寺参拝のルポは、ドンパンチョさんの橿原日記「平成17年10月22日玄奘三蔵の霊骨を奉安している慈恩寺を訪れる」に詳しく書かれていますので省略しますが、留学僧円仁が遊学した長安の大慈恩寺にちなんで寺名を慈恩寺としたとされています。
長安の大慈恩寺は玄奘三蔵のゆかりの寺で、巡礼の唱える般若心経は、その玄奘の翻訳のひとつでもありました。
岩槻の慈恩寺は、盛時には、三万五千坪の境内を有し、六十六の宿坊があったそうですが、今は天保14年(1843)再興の本堂と、そこから800mはなれた丘に玄奘三蔵の霊骨を安置した十三重塔(昭和25年建立)が建っています。
御詠歌は「のりの花 匂ふ林の寺の池 しづめる身さへうかぶ七島」。
(石仏の写真は、慈恩寺境内の寛政八年女人講の建立の如意輪観音像)
この古刹を訪ねる直前、近くの春日部市の花積貝塚を巡見しました。
「花積下層式土器」の標識遺跡で、「新編武蔵国風土記稿」にも「貝殻多くいづれば貝殻坂とよべるなり」と書かれたエリアの縄文遺跡らしいのですが、「花積」の地名として「古へ慈恩寺の観音へ、此地より多く花を積みて供えし故起れり」とあるのもゆかしく感じました。
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コメント
こんばんは。
そういえば、金町=戸ヶ崎間のバスが走っている道のことを、「岩槻道路」とか「岩槻街道」と言ってました(今でもそう呼ばれているかな? また、国道6号線の部分は対象外だったはず)が、関係ありますかね?
投稿: 柏・HOK | 2005年10月28日 (金) 00:12
柏のHOKさん、こんばんは。
金町から北へ行ったことはほとんどないのですが、葛飾区教育資料館への行き方に「金町駅より岩槻街道経由7分」なんて案内がでているし、水元公園入口近くの「岩槻橋」もあり、今も「岩槻街道」の名は活きているようですね。
本郷の東大前の道や、赤羽にも「岩槻街道」は現存のよう。
中世城郭・近世城下町・宿場・巡礼地として、交通の要衝でもあったのでしょう。
ところで、大宮台地の縄文遺跡の地形図では、岩槻支台・慈恩寺支台という台地が荒川をはさんでひろがって、貝塚が点在しています。
特に荒川と古利根川に挟まれた慈恩寺のある岬状の台地は、さいたま市の女体神社のように、海に浮かぶ台地として、太古からの水上交通の ランドマーク的な存在だったのでしょうか。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年10月28日 (金) 22:41
「花積貝塚」にドン・パンチョさんのホームページへのリンクをはりました。
今回のワークショップの成果を形あるものにしていただいたことに、感謝します。
投稿: | 2005年10月30日 (日) 08:23
南を篠崎街道というのはなぜ
投稿: | 2006年4月30日 (日) 09:28