I-4 「国史跡」真福寺貝塚を歩いてみて
昨年(1904)夏の馬場小室山遺跡32次調査で出土した遺物が巡回中の「さいたま市最新出土品展」(⇒写真)が見られるラストチャンスということで、展示中の岩槻郷土資料館を馬場小室山遺跡研究会の市民メンバーで見学に行くことになり、せっかく岩槻まで行くのだから、真福寺貝塚の踏査も、ということになりました。
一応、研究会の第17回ワークショップということで、岩槻市在住のN氏が調査報告書などから立派な資料集を作ってくださり、さらに参加できない鈴木正博氏がワークショップレジメを作成、見学の要点と「広義の『遺丘集落』としての後晩期貝塚集落遺跡として、往時の地形を読み取れるか」という課題を提示されての見学会です。
ところでこの真福寺貝塚は、インターネットの「郷土文化財コレクション」では「見学不向」と厳しい評価。
たしかに、「国史跡」としての期待をもって、「貝塚」としての史跡を見る観点から、歴史的景観を味わうのは厳しいかもしれません。
かつて貝殻が散乱していたという「国史跡」の石碑のあるあたりも埋め戻されているし、レジメでも「宅地としての改変が著しいので、現状からどの程度往時の地形を読み取れるか、が腕の見せどころ」とのこと、でも一応調査報告書の実測図を見ながら、地形の微妙な高低差に注目して現地を歩きました。(⇒写真は、低湿地付近)
貝塚であっても、なくても(その場合「土塚」?)、馬場小室山 に学んだ成果として縄文集落の形態に注目して遺跡を見るとき、たとえばかつての浅い谷が、現在は葦の生える低湿地と細いコンクリート壁の水路であったり、環堤のたかまりの上に今も屋敷林に囲まれた旧家の屋敷があったりと、「改変されたすがた」に今はなってしまっていても、遺跡を丸ごと把握する面白さを体験できました。
率直に言って、「国史跡」であっても遺跡の保全と活用は、自治体の財政の面からも、また一目瞭然往古の姿が偲べる観光可能な遺跡でないかぎり、困難を極めている状況であることを痛感します。
特に、「貝塚」が貝の散乱している目に見える状態でマウンドや斜面にあっても、一般市民には貴重な遺跡とは捉えられづらく、まして、「国史跡」の石碑はりっぱでも、開発用地の様な粗末なフェンスで囲っただけの「空き地」は、雑草やゴミの不要投棄や痴漢対策などで近隣住民にストレスを与えるだけの、あるいは街の発展を阻害するだけの「お荷物」となっているのが現状です。
縄文遺跡が、特に「史跡」として生残る方策は、単なる「○○貝塚」ではなく、周溝(それが埋まっていても)を含めた古墳、あるいは惣構えとしての中世城郭跡のように、広義の「遺丘集落」、あるいは「中央窪地環堤集落」としての景観保護が大事だと思いますし、またその理解を助ける標示のあり方も検討していく必要を感じました。
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コメント
今回のワークショップの成果を、ご一緒したドン・パンチョさんが、わかりやすくホームページにまとめてくださいました。
文中「真福寺貝塚の踏査」にリンクしました。
ぜひ、ご覧になってください。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年10月30日 (日) 08:20