K-2 子安観音像の像容成立の謎
高津の十九夜塔群の変遷の背景を探るため、市内の江戸時代の十九夜塔も調べ始めました。
特にその像容が如意輪観音から離れ、子供を抱いた「子安観音」像となる時期とそのプロセスが、以前からの私の個人的な課題でした。
調べてみて八千代市内では、江戸後期文化文政期に突如として市内に子安観音像が登場します。米本林照院境内の文化11年(1814)銘の子安観音像が初出で、その数は幕末になるに従い、市内北西部では徐々に増えて行きますが、高津や勝田などでは明治も半ばを過ぎて、また下高野では大正2年(1913)で初めて子安観音像を建立しているなど、その受容時期は地域によって異なっていることがわかりました。 この画像は、先週撮った米本林照院の子安観音像です。垢抜けたすばらしいデザインの子安観音像ですが、残念ながら石の質が悪く、表面が剥離してきており、「文化十一年」の文字の部分も剥落した断片をくっつけて撮影しました。
男性中心の世界観の仏教では、観世音菩薩は明らかに男性であり、江戸時代になるまで日本では赤子を抱く観音像はおそらくなかったでしょう。江戸中~後期における子安観音像の像容成立のプロセスは現在よくわかっていませんが、私が見聞きした範囲で、子安観音像の像容成立の背景を考察してみたいと思います。
二十六聖人記念館の結城了悟館長のご教示によれば、鎖国になる頃、長崎港に福建省から白磁の子供を抱いた白衣観音像がもたらされました。白衣観音は清浄菩提心を表し、諸観音を生み出す母と考えられ、その柔和な姿は、江戸初期西日本に多かった潜伏キリシタンにも聖母像の代用として受け容れられました。
今も長崎と大村藩の寺々にはそのような観音像がまつられて、またキリシタンの子孫の家から発見された「マリア観音」も多々あり、私も国立東京博物館でキリシタン取締りの際の幕府押収品としてみたことがあります。
やがて平戸焼きのより柔和な、慈愛満ちた母子像に近い観音像が造られ、日本中に普及したと思いますが、寛政4年(1792)、秩父四番札所の金昌寺では、「マリア観音」と後世俗称された美しくも大胆なあの有名な子安観音像が奉納され、近隣では佐倉城下の鏑木の子安観音(通称「子育地蔵」)が寛政6年(1794)に建立されています。
関東・南東北近辺の子安観音の石仏としては、小林剛三氏の「郡山地方の子安信仰塔」挿図に、左足を半伽にして首を傾け、あるいは片手に蓮華をもった「如意輪観音に子を抱かせた像」と、「如意輪観音像から変化したとは考えられない像」の絵が載っていますが、後者について、頭から布を被って肌を表さず子を抱くその像容は、おそらく江戸初期のこの子供を抱いた白衣観音像の系譜を引くのではないかと、私は思っています。
鎖国から百五十年程たって、関東・南東北各地に造られるようになった子安観音像。その像容の変化の秘密を探るために、事例を含め、皆様にご教示いただければ幸いです。
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コメント
子安観音像について、流山のuraraさまからFAXで資料をいただきました。『資料編松戸市史資料編(六)東漸寺史料』から、埼玉郡垳村の常然寺の末寺足立郡辰沼村の田中山龍岩寺の史料です。
この寺院の史料として、文政3年(1920)の「子安観音像来由」作者未詳には、明暦3年(1657)、明暦の大地震による江戸の大火の際、何か墜落したような大震動に驚いて住職(第二世)が弟子に見にいかせると、寺の南の田中に被災した1尺余の木造観音立像があり、台座の火を消しとめたという。この像は「常に異なり両児を抱いて乳を含ましめるに似た像」で、婦人の立願に霊験が多くあったので、その後、子安観音と号して、天和年間(1681~1683)にその弟子が第五世として住持してから、お堂を建てて祀ったところ、大いに盛んになったと内容です。
「其像常ニ異也」という観音像の明暦年代の不思議な発見談には、なにか秘密が隠されているように感じます。
流山のuraraさま、ありがとうございました。
ところで、昨日の馬場小室山遺跡研究会の会場が公民館の図書室兼倉庫のような会議室で、そこで平成8年浦和市教育委員会発行の『石の文化財‐浦和の石造物-』を見つけました。
この中に大間木字附島の吉田家墓地の明和4・5年(1767・8)の「子育観音像」の写真が載っていました。赤子を懐に抱いた丸彫りの像で、墓塔の上に安置されているようです。戒名は、大姉と信女で院号がついています。あいついでなくなった母子を供養する像なのか詳しいことは不明ですが、10月のフォーラム準備でその近くに行った際に実見してみたいと思います。
石仏は、市町村で調査されているものは少なく、また報告書も入手しづらいので、江戸前期に遡る像容を調べるのはたいへんです。
皆様の情報をお待ちします。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年9月 4日 (日) 16:10
千葉県白井市では、石造物調査報告書によると子安観音像で一番古いものは文政13年(1830年)のものでした。場所は市内最北部の今井地区にある集会所(旧東海寺)の敷地内です。なお、今井の集会所には待道権現の石祠もあります。この待道権現とは我孫子市の岡発戸にある待道神社が発祥の地である待道講という女性による子安講に似た講が造立したものだそうですが、詳細は調べていません。また、平塚という地区にある鳥見神社(8月20日に行ったところです)境内には「子安大明神」と文字が刻まれた石祠があります。年代は寛政12年(1800年)です。
投稿: T花 | 2005年9月10日 (土) 21:47
白井の事例についてコメントありがとうございました。
待道権現については、『利根川べりの女人信仰「待道大権現」を追って』(近江礼子『常総の歴史』第25号)によれば、十七夜信仰を母体として女人成仏血盆経で有名な正泉寺の指導でその末寺白泉寺が安永4年に岡発戸に誕生させたようですね。
利根川べりに多いようが、八千代ではまだ見つかっていません。鎌ケ谷・白井市辺りが南限のようですが、いかがでしょうか。北総はどこでも十九夜講だと思っていたのですが、地域によって違いがあると知り、興味深く思いました。
鳥見神社の「子安大明神」は、8月20日に皆さんが本殿後に古墳石室を見ておられるとき、実はこっそり撮ってきました。寛政12年とのこと、貴重なデータをありがとうございました。
馬場小室山フォーラムでさいたま市緑区に行った際に、調べてみようと思った明和4・5年(1767・8)の「子育観音像」は、時間がなくて行けませんでしたが、次回にでも寄ってみたいと思っています。
お近くの子安観音像について、特に1760年ごろまで遡れる例がありましたら、皆様どうかご教示ください。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年9月11日 (日) 00:27
キリスト教とともに聖母子像が日本列島にもたらされる前、母子の観音像があったのだろうか、そういう疑問を持って、キリシタン史の本を再読してみました。
何冊か目に、岸野久著『ザビエルの同伴者アンジロー』の次のような記述が目につきました。
イタリア人ランチロットがアンジローからの聞き書きから作成された「日本情報」の引用です。
「カンノン
彼らはまた、私たちの処女マリアのような、子供を腕に抱き、彩色された婦人(像)を持っている。これはカンノンと呼ばれ、私たちの聖母を同じように、どのような不幸のさいにも、普く守護してくれるものとされている。しかしこの人(アンジロー)はこの聖なる婦人の歴史や生涯を説明できなかった」
鹿児島を出奔したアンジローが、来日準備のためゴアに滞在したザビエルやフロイス、ランチロットなどの宣教師を出会ったのは、史料に寄れば1548年のようです。
このランチロットの記述では、聖母子像がもたらされる前にすでに、日本の庶民(アンジローもその一人)は、そのいわれはともかく、彩色された母子観音像を目にしていたという事になります。
福建省からの白磁の母子観音以前に、どんな姿の観音像があったのかと、とても気にかかります。
どこかのお寺にまだ本尊として祀られているのでしょうか。
なぞはつきません。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年11月25日 (金) 23:58
子安観音の画像の事をもっと知りたいです
投稿: kurokami | 2007年2月17日 (土) 15:08
kurokamiさまへ
ご興味をもっていただき、ありがとうございます。
>子安観音の画像の事をもっと知りたい
米本林照院境内の文化11年(1814)銘の子安観音像についてのことでしょうか。
場所は↓のURLをコピペして、IEのアドレスに貼り付けてみてください。
http://www.nifty.com/cgi-bin/mapview.cgi?map_x=140.7.24.4&map_y=35.44.36.2&map_zoom=11&map_szx=520&map_szy=420&map_center=1&map_title=&channel=&x=114&y=117
投稿: | 2007年2月19日 (月) 23:01