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2005年8月10日 (水)

Y-4 栗谷遺跡の愛らしい壷と「弥生1号土器」連想

kuriyaA080-7 浦安郷土博物館の栗谷遺跡出土土器展示ケースのちょっと奥まったところに、ふっくらとした壷がひとつありました。
 下膨れでやや小ぶり、飾り壷を華麗に装飾する首から上が欠けていて、肩に羽状の刻み目と沈線が施されています。ひびが入っているものの、つややかに磨かれた無紋の肌はほのかに赤みかがっています。弥生後期の南関東系の飾り壷でしょう。

 いかにも、「弥生の土器」と感じられるのは、きっとその姿が「弥生1号土器」、そう文京区本郷の弥生町で発見されてあの「弥生式」の名のルーツとなった土器を連想させるからかもしれません。

 栗谷遺跡のこのお姫様のような壷は、仮称「栗谷式土器」というべき輪積痕と胴上半にS字状結節文が特徴の在地系の甕(前頁の画像の後真ん中)と一緒に、後期の大きめの住居址(A-80住居址)から出土しました。 (画像の図は『栗谷遺跡調査報告書第2分冊』より)
A80set  またこのA-80住居址からは、ほかにも南関東系の壷の口縁部や、蓋状の土器、さらになにであったか不明の鉄器なども出土していて、ちょっとステータスのおたかいおうちだったのかな、なんて思われます。

 南関東系の飾り壷を中心とした土器が、このように、印旛沼周辺の在地系土器や北関東系の土器とともに同じ住居址から出ることは、八千代市内の遺跡では珍しくないことですが、印旛沼を渡った北側の地域に行くとほとんど見られないとのこと。
 印旛沼が文化を運ぶ水路であると同時に、また、境界線でもあったことを思わせる現象です。

yayoitubo   ところで、この壷を見て連想した「弥生1号土器」の壷ですが、先週金曜日(8/5)国立科学博物館の「縄文V.S弥生」展でじっくりと見てきました。 (右画像は、同特別展チラシより)
 この壷は、その発見から120年たった現在、背景の時代区分、さらに土器型式をめぐって、研究者の熱い討論が繰り広げられているそうです。
 この1号土器は底部の台の縁が張り出しているので東海系という見方もあり、またこのころの南関東系の土器は、東海系と房総半島系の要素がともに見られるとのこと。(2004.9.25・26「南関東の弥生土器シンポジウム」、2005.4.26朝日新聞)

 栗谷遺跡では、この「弥生1号土器」に似た首に丸いボタン状の飾りのついた土器が、古墳時代の住居址(A109)からも出ています。

 型式では弥生町式という標式名すら危ういとも言われ、また弥生と古墳の時代区分の定義も揺れ動く中での「弥生1号土器」。なにやら難しそうな議論の渦中の飾壷ですが、私はこの下膨れのプロポーションの壷が好きです。そしてそれによく似た栗谷遺跡の愛らしい壷も。地域を越えて、時代を超えてこの壷の姿と形は愛され続けたのでしょう。きっと。

  (画像はクリックすると大サイズがホップアップします)

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コメント

カテゴリー「弥生のうつわin八千代 」でとり上げている「八千代市内栗谷遺跡出土の弥生後期土器群」について、八千代市郷土歴史研究会の連絡機関紙「郷土史研通信」51号*の空きスペースに、紹介記事を書いてみました。
*URLのPDFファイルのP6⇒http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/tuusinn51.pdf

栗谷遺跡も土器群のすばらしいのですが、発掘を担当された市の職員や編年研究をしておられるT花さんほか皆さんの情熱のも感動しています。

この土器群をめぐる企画展やまだ大学キャンパス内に保存されている遺跡の見学会、そして弥生土器編年をめぐる講演会などが、いつか八千代市内で開かれたら、うれしいなと思っています。


投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年8月21日 (日) 19:22

栗谷遺跡の出土遺物展が、12月10日から来年3月5日まで、八千代市郷土博物館で開催されています。

こちらのブログをお読みいただいて、興味を持った方は、会期中ぜひ見学してみてください。

入場は無料、ずっと先になりますが、来年2月19日午後2時から展示解説もあるそうです。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年12月12日 (月) 20:04

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