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2005年7月16日 (土)

Y-2 「おらがムラ」栗谷の縄文紋様の弥生土器

 ふくよかな曲線と肌の美しさが特徴という私の弥生土器に対する先入観が、所変われば違うのだと気づいたのは、胴の部分一面が縄文紋様でうずめ尽されている土器を、かつて臼井公民館で初めて見たときでした。
 均一ではない日本列島の姿は、若い頃(?)、函館に旅行した時、恵山式土器と続縄文の世界に触れて感じてはいましたが、弥生後期になっても、いまだ土器に縄文が根強く残っている北総地域の文化の特性については、この地に来て間もない私に、まだ考える素養がありませんでした。

kuriya2  この画像は、栗谷遺跡出土の弥生後期の土器です。
 口縁は押捺により小さく波打ち、胴と首の境目には、S(Z?)の字が連続する帯が2条廻り、その下は、縄文がゆるく回転する細い縞の地紋となって、うつわを包み込んでいます。
 細い縞模様は、細い線二本の間に小さな縄目の凹凸がある「附加条縄文」。普通の縄にもう1本細めの縄を巻きつけた縄を転がしてつけた縄文で、臼井南や近隣の遺跡から出土した弥生後期の土器に共通する紋様です。
 S(またはZ)の字が連続された帯を描くS字状結節文は、結んだ縄を転がしてつけています。
 これらの北総の土器に一番ベーシックな縄文紋様を、ただひたすらに施紋しただけの土器ですが、技の確かさと基本へのこだわりが伝わってきます。

 少し離れて観ると、この附加条縄文の繊細な紋様は、土器の肌にいぶし銀のような光沢となって、輝きを与えていることに気づきました。
 デコレーティブな縄文世界とはちがうのは、紋様が自己主張せず、うつわ自身の機能とそのシンプルなフォルムを優先していることです。

 弥生中期、縦横斜め、波状の櫛描きや羽状縄文など自由奔放な装飾を競い合うような宮ノ台式が、東京湾から印旛沼南岸まで渡って来たあと、後期になってその華やかな名残りを頸部の意匠にとどめる大崎台式がその佐倉を中心に近隣に広まっていった、あるいはそれぞれに造られていったのでしょうか。
 さらにそのあとの後期中葉、印旛沼の周辺ではムラごとの「おらがムラ」の土器をたくさん造っていた中のひとつに、臼井南の土器も、栗谷の土器もあったのでしょう。

 「7月9日 八千代の弥生-栗谷遺跡の土器に出会って」にいただいたT花さんのコメントで指摘されている「地域差」を語るように、それぞれ微妙に個性の違う「おらがムラ」の土器。この「臼井南式」の土器も、その典型にするには、形がちょっと長すぎる「個性」が見られます。
 とはいえ、そこに共通する一面の細かい附加条縄文と、S字状結節文は、南西から海を渡り来る風とやませのように北東から吹く風の交わる北総の地の、まさに基層的な文化を物語っているのかもしれません。

(この画像は、クリックすると大きくなります)

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コメント

> この画像は、栗谷遺跡出土の弥生後期の土器です。
と書きましたが、その後出された「境堀遺跡八 千代カルチャータウン報告書Ⅳ」で、正確には、栗谷遺跡に隣接した「境堀遺跡」の6-001住居址からの出土であると知りました。(「Y-6 台付甕形土器」も同じ住居址です。)
この土器のなだらかな曲線は、何度見ても魅力的ですね。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2006年3月24日 (金) 22:21

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