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2005年7月17日 (日)

K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から

 S1674 八千代市郷土歴史研究会の旧高津村の研究調査も今年で2年目。私は高津の女人信仰について、子安講の民俗事例と十九夜塔・子安塔を中心に調べまとめたいなあ、と思っています。
 幸い、高津では主婦たちの子安講がまだ続いていますし、高津観音寺の境内には十九夜塔・子安塔がずらっと並んでいて、まずはこの石造物の記録が資料となります。
 昨年は、その中で2番目に古い正徳三年(1713)の如意輪観音像のもっぱら容姿に魅せられて、郷土史展のポスターや「史談八千代」の表紙作品用に撮影しましたが、今年は、女人信仰がテーマですから、半跏思惟像の如意輪観音から、子供を抱いた子安観音に像容が変化する信仰の変遷とその造立の主体を知るため、造立年と寄進者名の銘文をまじめに読んで記録してみようと思いたちました。name1
 なかでも延宝2年(1674)造立の如意輪観音像は、市内十九夜講の石仏として最古であり、高津の十九夜塔でも最大、しかも六臂の姿は荘厳です。
 さて、この像の丸みがかった衣の裾と台座の部分に模様のようなものが彫られています。よく見ると、「おつる・おみや・おまめ」などひらがなの女性名がびっしり。結願した方々のお名前ですが、女性の俗名というのは、珍しいですよね。(⇒画像をクリックして読んでみてください)

 2005デジカメ画像と目視で読めるところは何とか読みましたが、両脇は隣の石塔とくっつきすぎていて、判読は難しい。拓本をとってみたらという助言もあり、今日の午後から郷土歴史研究会の会員に応援してもらい、チャレンジしてみました。
 場所は、崖の上のようなところで、後ずさりもできない。結局拓本での判読も難しく、最後は、歯医者さんのようにミラーを当てて、目のよい若い会員に見ていただきました。
 全部で50名のうち41名の判読が成功、ちなみに「おまつ・おなつ・おまめ」は2名ずつ、尼さんらしい「春香」という漢字名も1名ありました。
 郷土歴史研究会の皆様、ありがとうございました。

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コメント

昨日コメントで、次のように書きました。
>17日に皆様のご協力で判読できた寄進者銘は、今のところ次のとおりです。
>現地へ調べに行って下さった方からメールで「わかる範囲をお知らせください」とのこと。
>やはり、両端は難しそうですが、判読にご協力いただけたら幸いです。

17日の調査で「わかる範囲」で判読した銘を載せましたが、18日に現地へ行って独自にトライしてくださった銘文をメールでいただき、もう一度デジカメ画像と見比べたりしてみました。
一応、昨日のコメントを削除し、修正した本日の「わかる範囲」の銘文を載せてみました。
ご協力に感謝します。皆さんで楽しく検討してみましょう。

 妙桂        お□
 春香        お於く(おみや?)
 おまち       おくに
 おいぬ       おす江 
 こ志まる(およね?)おなつ
 おさい       おこそ
 おまん       おくら
 おまち       おふく
 お吉(谷?)    おまつ
 おい祢       お宮
 おつる       おなつ
 おみや       おたつ
 おまめ       おくた(おえよ?)
想女子
 お長        おミや
 おくら       おかつ
 おまめ       お長
 おせん       お松
 おたけ       まんよ(まん寿?)
 およせ       おまめ
 おせん       おませ
 お祢        おさ□
 おかま       お□□
 おはる       お□□
 おま□       お□□
 おなや       おた□□
 おかめ

7月20日20:00修正

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年7月19日 (火) 22:28

今晩は。船橋のmoriといいます。
船橋に不動院という、文政7年(1824)の船橋浦での猫実村との漁場争いで入牢し、なくなった漁師惣代2名の追善供養のための大仏で有名な寺がありますが、実はその境内にやはり女性名ばかり書かれている観音をレリーフにした六角柱の石塔があります。
猟師町云々と書かれていますので、やはり漁師のおかみさんたちが漁の無事を祈ってたてたのではと思います。
これも、細かい字で判読しにくいものが多いですが。
ご参考まで。

投稿: mori_chan | 2005年11月14日 (月) 20:14

船橋のmoriさま
初めまして!(もしかしたら、どこかの講演会でお会いしているかもしれませんが・・)

貴重な情報をありがとうございました。
3年前不動院の大仏など船橋の史跡を撮りにいき、2基の庚申塔の間にあった六面石幢に魅せられて、何枚か撮影してあったのですが、寄進者名までには気づかず、残念ながら銘文の鮮明にわかる画像はありませんでした。(そのころは記憶媒体の容量は小さく、画像も480×640程度でしたから)

船橋は、通勤電車で毎日通るところですので、また、撮影に行ってみようと思います。

>やはり漁師のおかみさんたちが漁の無事を祈ってたてたのでは

当時の漁師のおかみさんたちは、きっと社会的にも存在感があったのですね。そして祈りも切実なものだったのでしょう。

ところで、貴兄のHPをリンクさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年11月15日 (火) 00:18

船橋のmoriです。
例の石塔ですが、元禄14年の銘がありました。ちょうど赤穂浪士の討ち入りのころですね。また女念仏講と書かれておりました。
私もデジカメで撮ったのですが、「およし」という名ははっきり判ったものの、あとは良くわかりませんでした。
実は私は「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の会員でして、講演会には時々行っていますから、会っているかもしれません。

HPの件は、私どものようなものでよければ、歓迎いたします。なお、HPの「古城の丘にたちて」というのは「満州の丘にたちて」をもじったものです。

「さわらび通信」も、私もときどき見ています。素晴らしい記事が多く、興味深く拝見しております。私の方も、リンクを張らせてもらっても良いでしょうか。

投稿: mori-chan | 2005年11月15日 (火) 13:07

>例の石塔ですが、元禄14年の銘がありました。
>また女念仏講と書かれておりました。

やはり江戸初期(1701)でしたか。
村の女性たちひとりひとりが現世と来世の安楽を祈願していたというそのころの時代背景が、石造物から推察できます。

延宝2年(1674)造立の如意輪観音に先立つこれによく似た像容の十九夜塔として、佐倉市臼井台実蔵院の寛文9年(1669)の十九夜塔がありますが、なん人か男の方の名前も見られ、まだ念仏講が女性だけの講になる前の様子が伺えます。

十九夜塔の寄進者銘を調べていくと、江戸中期になると、個人名が消え、江戸後期は子安講とその世話人として村の代表者(名主など)の名前が添えられるようになり、個人個人の信仰心での造立から、地域組織の慣習になっていくように思えます。

>実は私は「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の会員でして・・・

私が地域の中世城郭址に興味を持ったのは、貴兄のHP「古城の丘にたちて」でも紹介されている臼井城宿内砦(佐倉市臼井田)の遺構のもつ歴史的な意味と保存運動について、11年前「史談八千代」第19号に書き、郷土史展でも紹介した事からでした。
そういう意味でも、千葉歴史学会で松ヶ崎城址の保存運動を知った時から興味を持ち、昨年のシンポジウムを聴講させていただきました。

これからも、松ヶ崎城の会に活動については関心を寄せていきたいと思います。

「さわらび通信」のリンクの件、ありがとうございます。
これからもどうかよろしく。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年11月16日 (水) 19:33

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