Y-1 八千代の弥生ー栗谷遺跡の土器に出会って
このブログのはじめての5月15日の記事に「八千代市遺跡調査会・東部事務所におじゃまして、八千代カルチャータウン(上谷遺跡・栗谷遺跡など)の昭和63年から平成10年度まで調査の出土品を見てきました。・・・臼井南に良く似た弥生の土器類は圧巻、実にもったいない展示会です。」と書きました。
弥生式土器については、教科書に載っていたあの特徴的なプロポーションを思い浮かべ、今に至るまで、単純な理解しかしていなかったように思います。
そんな中で、壱岐へ行ったとき、お土産に買った「原の辻」という焼酎の容器が赤く艶のある須玖式土器複製品だったことと、(実家のある)佐倉市王子台の開発で、「臼井南式」という輪積み痕があったり、細かい縄文をいっぱい施してあったりする弥生式土器群がたくさん出土し、地元の公民館に展示してあったことなどが、ちょっとだけ印象的で、地方によってこんな個性もありかしらと、ばくぜんと思っていました。
さて、5月に何の知識のなく偶然出会った八千代市栗谷遺跡の弥生の土器たち。その感動は単純に「アート」としての魅力でした。
そのひとつ(栗谷A057)は、胴部を繊細な附加条縄文で埋め尽くされ、頚部は、縦に区分した中に、さらさらと波状の紋様が櫛描きされていました。弥生後期初頭の大崎台式(佐倉駅南側の環濠集落遺跡に由来)の在地色の強い土器と、あとで知ることになるのですが、印旛沼周辺の弥生土器についての考古学的な分析と編年は、とても難解な研究のようです。
「さわらびさんは、なんでも興味持つのですね」と、また言われそうですが、出会ったときが旬。
幸い(というか、ちょっと大変というか、)身近に、T花さんや鈴木M氏、八千代市の教育委員会のいつもお世話になっている先生方が、その最先端の研究のお仕事をされておられるようで、私の机の上は、その「難解な」論文の抜刷りや調査報告書のコピーであっという間にいっぱいになってしまいました。
今日は、とりあえず、南西関東の弥生土器文化の基礎知識を学びに、昭和女子大の文化史学会に出かけてみようと思います。
(この画像は、クリックすると大きくなります)
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コメント
柏市にお住まいで、霞ヶ浦周辺の南部域から印旛沼・東葛周辺の弥生中期後半・後期の土器に、関心を持ってお調べになっている方から、メールでコメントをいただきました。
「栗谷遺跡の土器と似ている土器が、柏市中馬場遺跡からも出土しておりまして、おそらく浦安で展示されていると思います。」とのこと。
またこの二つの土器の写真を並べた画像もいただきました。
中馬場遺跡の土器も頸部に縦スリットを入れ、波状の櫛描きをしてあるこの栗谷のとよく似ていますが、私の印象では、どこかで見た栗谷の土器を思い出して造ったような感じがしています。
大崎台(縦・横・縦の櫛描文)⇒栗谷(縦・横波・縦)⇒柏(あれっ、波がジグザグに崩れちゃった)
第4回千葉県北西部地区文化財発表会が浦安市郷土博物館で開催中です。
7月18日には「温故知食-たべものと人々-」と題して発表会も開かれます。
八千代市の栗谷遺跡のこの土器ももちろん展示されるでしょう。柏市中馬場遺跡の弥生土器のツーショット。楽しみですね。
投稿: さわらびY(ゆみ) | 2005年7月12日 (火) 20:10
千葉県北部における弥生時代後期の土器は、「臼井南に良く似た弥生の土器類」や「栗谷遺跡の土器と似ている土器」という表現からも明らかなように、縄文土器とは違って一見全く同じに見えるものがない(又は非常に少ない)のが特徴です。
そして、その微妙に異なる文様が地域差(例:大崎台から柏へ伝達される間で構成が崩れる)であるのか、時期差(例:大崎台の土器の影響を受けて新しく作られたが、波状が雑に施文されるようになった)であるのかの判断は非常に難しいと言えます。私は個人的には地域差であると考えたいのですが…。
さて、難しいことは一旦置き、兄弟のような土器が浦安で展示されるようですので、細かな違いを実際に感じてみましょう。
投稿: T花 | 2005年7月13日 (水) 23:10