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2005年6月 3日 (金)

S-2 中世の石塔雑感-駿河の旅から

5月の28-29日、八千代市郷土歴史研究会の見学旅行で、旧東海道の駿河路を訪ねました。DSCF0130
今回の見学のポイントは、主に近世~近代の旧街道の交通史的な観点だったのですが、2002年年末に忍性と中世石塔の関東伝播の跡を追って、箱根沼津藤枝の駿河路を探索した思い出の地でもあり、目はつい寺院墓地の石塔群に向いてしまいました。

これは、「蘿径記」碑のある蔦の細道坂下の鼻取地蔵堂の石塔残欠群。 
境内の傍らに中世の石塔の残欠があるのですが、なんとも情けないコンビネーション。
五輪塔の丸い水輪の代わりに宝篋印塔の笠石が。その宝篋印塔の相輪は、ほぞを上にして横に立ててあります。実にもったいない!

これは、丸子の誓願寺墓地にあった由来も名もない宝篋印塔。
でもあれっ、上が宝篋印塔で、下が五輪塔?DSCF0119
この手の不思議な組み合わせは、山川出版の『静岡県の歴史散歩』を紐解くと、裾野市定輪寺の宗祇の墓や静岡市宝台院西郷の局の墓でも見られるようです。
宝篋印塔と五輪塔の儀軌の区別も、忘れ去られて久しいのですから、近年になってからの残欠同士のミックスは無理もないこと。

でも、塔身が球体の水輪というのは、沼津市霊山寺変形宝筺印塔もそうでした。といってもこちらは、塔身(水輪?)に四方仏を刻むという宝篋印塔本来の儀軌に叶う宝筺印塔で、箱根の宝篋印塔や五輪塔(通称、虎御前の墓)との系譜とも関連してくる形を伝えています。

これとは似て非なる誓願寺墓地の混合宝篋印塔ですが、でももしかしたら、霊山寺の事例から、塔身=水輪という暗黙の了解がこの地方では許されているのでは、なんてふと思ってしまいました。

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コメント

おひさしぶりです。
駿河には私も以前、二年ほど住んでいました。
しかし、こういう場所があったのですね。
当時何も分からなかった私は、チャンスを空費してしまいました。
灯台下暗し、とはよく言ったものです。(苦笑)

投稿: むらじ | 2005年6月 6日 (月) 20:47

こういう混交の塔は、徳川家の墓所にもたくさんありますよ^^
伝通院の伝通院、興安院、天樹院・・・以下略。
これはやはり五輪塔なのでしょうかねぇ?。。

投稿: prille | 2008年5月26日 (月) 23:24

prilleさま

コメントありがとうございました。

たしかに伝通院の於大の方様や千姫など江戸初期からずらっとこの形の石塔が並んでいるようですね。

五輪塔というより、宝篋印塔のバリエーションとして「塔身輪式宝篋印塔」か「変形宝篋印塔」といったほうがよいかも知れません。

お教えいただき感謝します。


投稿: さわらびY(ゆみ) | 2008年5月28日 (水) 00:36

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