« J-3 メビウスの輪?五領ヶ台式土器の突起の不思議 | トップページ | I-1 考古学協会での「徳川大坂城東六甲採石丁場遺跡」の発表を聴いて »

2005年5月21日 (土)

S-1 間宮士信撰「山荘之碑」と「朝妻桜」

sansounohi 八千代市郷土歴史研究会では、昨年度から八千代市高津の総合研究を行っていて、その一環として、高津の観音寺の顕彰碑のある間宮士信を追っていました。間宮士信は昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」などの地誌編纂を行ったことで名高く、また、大阪夏の陣で戦死しその首が高津に葬られたという高津の領主・間宮正秀の二百遠忌を営んだ記録が古文書に残っています。間宮氏の調査を担当していらしたkagokaki氏より、間宮士信が撰文した「山荘之碑」という石碑が中野区のあったというお知らせを、八千代郷土史研の掲示板にいただきました。

士信は天保年間住んでいた江戸小日向には、寛永から寛政年間にかけて「山屋敷」とよばれたキリシタン屋敷があったのですが、士信は「小日向志」にこの屋敷内の略図をはじめ、収監され死亡したキリシタンのことなどを記録しているとのことです。

「山荘之碑」は、山屋敷の跡地を与えられた大江讃岐守の下屋敷内に建てられ、屋敷替えにより、関口台の蓮華寺へ移され、明治41年蓮華寺の中野区への移転と共に移されたものでした。

私が、上野の東京博物館の一室でこの碑の拓本に接したのは、2003年2月の寒い日でした。バテレン・シドッチの幽閉された「山屋敷」探して、2001年7月にシリーズ『日本史をみつめた「聖母」たち』『Ⅱ「親指のマリア」=鎖国下の白石との出会い』をUPした1年半後のことです。この拓本の碑も、茗荷谷のどこかあるのだろうと思いつつ探せないでいるうち、またいつか読もうと思っていたことも忘れていたのでしたが、高津の調査の中でkagokaki氏の丹念な調査のおかげで再会できたことは、奇遇でした。

2005年4月、郷土史研の総会時、kagokaki氏の「間宮士信の事績について」の研究発表の中で、氏が解読された釈文と現代語訳をいただきました。

「この碑にはここは寛永の頃、切支丹奉行井上政重の別邸であった。日本名を岡本三右衛門という南蛮バテレンを収容していたこともある。後に幕府の管轄地となって「山屋敷」とか「切支丹邸」といわれた。宝永中にローマのバテレン、ヨアンとその奴婢の長助夫妻もまたここに収容され、ここで歿している。その外あやしい教えを信奉する者や、さまざまな罪を犯した人たちの骨もここに埋められている。朝妻という遊女がこの獄舎にとらわれ、処刑される時に、牢獄のそばの桜の木を指差して、この桜の花を見ずに死ぬのは残念ですといったので、役人はこれを憐れみ、花の咲くのを待って処刑した。それで、その桜の木を「朝妻桜」と呼ぶようになった。今も近くにその遺種があると伝えられている。邪教が絶滅して、獄も廃止され、やがて文化十年十二月に大江政時の別邸になった。政時が、罪を犯したといってもそれらの人々の死はいたましいことであるから、碑を建てて慰めよといわれて、自分にその文を作るように命ぜられた。よって、その顛末を記録するかくの如くである。」

遠藤周作の「沈黙」のモデルになった岡本三右衛門、そしてヨアン・シドッチ。さらに士信は、そのシドッチの世話をした長助夫妻(シドッチとともに殉教)の名を、また、「朝妻桜」の伝承を記しています。殉教史にも名を残さず勇敢に死を遂げた人々。朝妻というのも遊女の別名であって、固有名詞ではないのでしょう。その、花の咲くのを待って処刑された遊女の朝妻の伝承を通して、士信が著わしたかったのは、伝説の中に残された無名の信仰者の姿だったということにあらためて感慨を覚えています。

|

« J-3 メビウスの輪?五領ヶ台式土器の突起の不思議 | トップページ | I-1 考古学協会での「徳川大坂城東六甲採石丁場遺跡」の発表を聴いて »

コメント

間宮士信の撰文碑を読んでいて、さわらびさんの聖母シリーズを思い出し掲示板に書込みした次第。こんな形で紹介できるとは私も意外でした。
士信はこの碑が建てられてから9年後に『小日向志』を著すのですが、切支丹屋敷に関する事柄を学者らしく丹念に記録しています。地誌なので主観は排除されてますが「士信が著わしたかったのは、伝説の中に残された無名の信仰者の姿」であるという見解には同感です。

投稿: kagokaki | 2005年5月25日 (水) 11:27

管理者様へ。新しく書いたブログの内容を告知させて頂くサイトを立ち上げました。宜しければ、ブログ更新の際に是非当サイトをご活用下さい。尚、ご興味無いようであれば、お手数ですがコメント削除の程、宜しくお願い致します。

投稿: BC7管理人 | 2005年8月14日 (日) 06:10

はじめまして。
トラックバックをさせていただきました。
「沈黙」を読んでから、小日向のキリシタン屋敷の存在を知りました。
私はカトリックの信者です。
キリシタンの受けた迫害や殉教に対して、もともと関心を持っていました。キリシタン屋敷について知っていたのは、主にカトリックの側からの情報でした。
 このブログでキリシタン屋敷についてわかったことが増えて良かったです。ありがとうございました。

投稿: jyakuzuregawa | 2005年8月19日 (金) 09:26

始めまして。鎌倉でカクレキリシタンの遺物を探している亀子と申します。キリシタン灯篭の記事を読みました。興味深かったです。
それから、下の方の記事で、慈恩寺への道標が「志おんじ」と、書かれている所に、ハッとしました。シオン寺ですか?気になりました。

投稿: 亀子 | 2011年10月16日 (日) 21:09

『S-3 小岩の「岩附志おんじ道」道標が示す慈恩寺とは』をごらんになってのご質問と思われますが、この記事にも書いた通り、「志おんじ」は「慈恩寺」のことで、坂東12番札所のお寺です。

この寺院の名前は、648年、唐の第三代高宗が亡母を追慕して建立した西安(長安)の大慈恩寺にちなみます。

「シオン寺」に関連はしないでしょう。

投稿: さわらびY(ゆみ) | 2011年10月16日 (日) 22:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: S-1 間宮士信撰「山荘之碑」と「朝妻桜」:

» 殉教者の跡 [たのしいことば?]
8月中に東京へ行く予定でした。 しかし都合がつかずに無理になりました。   上京したら訪れたかった殉教者の遺跡を2箇所紹介します。 ひとつめは、文京区小日向のキリシタン屋敷跡。 江戸時代の幕府による禁教令で、幕府に捕らえられた宣教師が屋敷に収容されました。  ふたつめは、調布市のサレジオ神学院の敷地内の、ジュゼッペ・キアラ神父のお墓です。 この神父は、小日向のキリシタン屋敷で毒殺された後、文京区のお寺に葬られました... [続きを読む]

受信: 2005年8月19日 (金) 08:56

« J-3 メビウスの輪?五領ヶ台式土器の突起の不思議 | トップページ | I-1 考古学協会での「徳川大坂城東六甲採石丁場遺跡」の発表を聴いて »