2012年5月16日 (水)

Z-3  利根町大平神社の謎の「念仏供養塔」と「時念仏」

 千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を再掲

 120425_033_3我が家のある印旛沼周辺は、江戸時代前半の塔が、浮彫の如意輪観音像を刻む十九夜塔が数多く残されている地域ですが、千葉県で十九夜塔成立のルーツを追っていくと、利根川べりの承応元年(1652)石納結佐大明神の石塔(宝篋印塔か)、そして九十九里に沿った山武郡の2基、明暦元年(1655)の普賢院の六地蔵立像石幢、万治2年(1659)大正寺の宝篋印塔に至ることを、「Z-1 千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」に書きました。

おかげさまで、骨折した足も癒えた2012年4月25日、芝山町の普賢院 (⇒画像)と、山武市の大正寺(↓画像)に行くことができましたので、その時撮影した千葉県で2番目・3番目に古い十九夜塔の画像を改めて掲載します
   

 120425_017_2さらに山武市内には、他に戸田の金剛勝寺に万治元年(1660)銘、松ヶ谷の勝覚寺に寛文3年(1663)銘の如意輪観音像を刻んだ光背型の十九夜塔が2基あり、その後の寛文年間後半に北総全体に広がる如意輪観音像浮彫の十九夜塔全盛期を予告しているようですが、沖本博氏がご指摘(*4)の通り、山武郡における寛文年間までの初期十九夜塔は、この4基のみで終わっています。

 一方、利根川下流域の旧佐原市と旧印西市、その北岸の利根町に淵源を求めてみると、「Z-2 利根町の如意輪観音像を刻む最古の十九夜塔」で報告したように、利根町布川の万治元年(1658)万治2年(1659)銘の2基の如意輪観音像線彫りの板碑型十九夜塔にいきあたりました。

 さて問題はこの先です。
 如意輪観音が主尊として確立する以前の十九夜塔は、いかなる信仰形態をし、どのような姿をしているのか、先輩方の文献にでてくる石造物を同じ利根町で追ってみたいと思うのですが・・・

利根町大平神社の石塔群を訪ねて

 実は、布川の徳満寺を含め、利根町の十九夜塔や子安塔を訪ねたくても、利根町の石造物については、調査報告書が刊行されていません。

 『利根町史』(*1.)に、たとえば寺社の項目には「大平神社 大平/祭神 大国主命/(中略)/石塔 念仏供養塔 寛永十五年(1638)外10基 /宝篋印塔 寛永四年(1627)建立 村念仏衆次の通り。北方村43人(以下、9つの村名と人数 略)」、布川の徳満寺の記述も「十九夜念仏 寛文六年(1666)。外石塔類20余基」と記されているだけなのです。

 そのような状況で、大変役に立ったのは、「タヌポンの利根ぽんぽ行」というサイトです。
 

 利根町の寺社・史跡・民俗行事などが探訪地図付で丁寧に紹介され、石造物についても、画像と銘文、寸法をつけて見たままに掲載されています。
 

 このWebサイトに助けられ、十九夜念仏塔らしい「石塔 念仏供養塔 寛永十五年」を探して利根町大平神社を訪ねたのは、前日の雪が残る2012年2月初めでした。120202_032

 榎本正三氏の「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)によれば、初期の十九夜塔は、念仏信仰、特に「時念仏」と不可分な関係にあるらしいとのことです。

 中上敬一氏の「時念仏信仰」(*3.)によると、時念仏とは、二世安楽を祈念して食事を一日一食にして己が身を苦しめ、精進潔斎をして一日念仏勤行を行った逆修供養の一つです。

 120202_034供養の期間は三年あるいは三年三か月で、毎月の功徳日に村の寺堂に講員一同が集まり昼食を共にし、念仏と和讃を唱え、満願成就のあかつきには石造の供養塔を建てました。
 中世では西日本に、「時衆」や「斎講」などの銘がある時念仏供養の板碑や宝篋印塔が二十数基あるそうです。

 
 関東では寛永2年からの江戸初期の時念仏塔が、つくば市など茨城県南部に集中して多く、それらは塔の形態は大日如来や湯殿山を本尊とし、出羽三山信仰を背景としていること、また自然石に石仏を平面的に刻む素朴な姿が特徴です。

120202_069寛永四年の宝篋印塔

 さて、利根町大平神社の石塔群ですが、『利根町史』にある宝篋印塔は、2011年3月の大地震で相輪部分が倒れて脇に横たえてありました。

 中上氏の「時念仏信仰」(*3.)によれば、塔身に金剛界五仏と露盤に弥陀三尊を表す種子、基礎右側面に「寛永四年三月十四日時念仏結集敬白」、正面に「奉造石塔1基時念仏三年三月」のほか文間郷10ヵ村284人の村ごとの人数が記されていて、郷土史の資料としても貴重な時念仏塔とのことです。

寛永十五年の謎の石塔

 この宝篋印塔の右上に、謎の石塔(石祠・石龕)があります。

1638 「タヌポンの利根ぽんぽ行」の記事に、〈その背後の壁面をよく見ると、「寛永十五年」「念佛之」「九月十九日」という文字が断片的に見えます。(中略)町史にある「念仏供養塔」と推定しました。〉とあります。
                   
 私も中をのぞいて、文献を参考にデジカメの記録から銘を読むと、「(種子)寛永十五年(1638)戊刁/奉造立文間五ヶ村念仏之誦衆/九月十九日本願三海」とありました。
 種子はアーンク(=大日如来)、刁(チョウ)は「寅」字の異体字です。

 榎本氏が「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(*2.)に写真入りで紹介され、沖本博氏が「九月十九日造立ということから十九夜念仏とみられる」(*4.)と述べておられる石塔です。

 16386今は、中に五輪塔の空輪がありますが、建立当時は仏像や舎利など納められていたものと思われます。

 よく似た形態の石塔をWebで探すと、福島県に鎌倉時代の「須釜東福寺舎利石塔」がありました。

 

 中上氏は、近くの小文間にある「寛永八年」銘の同様な石祠があり、その関連から本願「三海」が時念仏の布教者で、湯殿山の修験者であったと推定され、この石塔は十九夜塔ではなく、時念仏塔であるとされています。(*5.)

 私は、十九夜塔について「十九夜」の銘がない場合でも、女人講が建てたか、建立日が十九日か、如意輪観音像かのうち、2つの条件が満たされれば十九夜塔とみなしてよいと思っています。


 この大平神社の石塔に関しては、大日如来を主尊とし、五か村をあげての時念仏の講が建てた石塔で、「念仏供養塔」の域をでないと思われますが、寛永年間で三十数基をかぞえる時念仏塔、そのほとんどが、「○月吉日」と記す時念仏塔(まれに1、6、9、12、14日銘などもあり)の中で、「九月十九日造立」という銘は、19の数にはそれなりの意味(功徳)を持たせていたと思います。
 その「19日」のもつ意味がなんであったかは、謎です。

 1703_2利根川下流域で、如意輪観音像を刻む十九夜塔が普及するのは、この石塔から、二十数年後の寛文年間になってからですが、一方、湯殿山信仰と不可分な関係があった時念仏も、大日如来を梵天塚に祀って八日に講を営む出羽三山講へと変わっていくのでしょう。

大平神社境内のさまざまな女人講関連の石造物

 さて、大平神社の境内には、このほか、次のような女人講に関わるさまざまな石造物が並んでいます。

・元禄16年(1703)の如意輪観音像浮彫の十九夜念仏塔(⇒画像)

・宝永5年(1708)の地蔵菩薩像浮彫の十六夜念仏供養塔

・宝暦8年(1758)の如意輪観音像浮彫の十七夜講の供養塔

・文化11年(1814)の如意輪観音像浮彫角柱型の十九夜供養塔

・文政9年(1826)「女人講中」銘の子安像塔(⇒画像)18269_2

・天保2年(1831)の「女講中」・「道祖神」文字銘の石祠

 ここでは、女人講の信仰形態が画一的ではなく、また時代とともに多様に変化する姿を、一目瞭然に見ることができます。

 次回はさらに、時念仏とも未分化であった十九夜塔の原初的な姿を追って、筑波山麓へと旅します。

参照文献

*1.『利根町史(5)-社寺編』利根川町教育委員会1993
*2.榎本正三「十九夜塔の銘文からみた女人信仰」(『房総の石仏』第5号1987)
*3. 中上敬一「時念仏信仰」(『日本の石仏』第49号1989)
*4. 沖本博「千葉県の十九夜塔-その性格と歴史的背景について」(『日本の石仏』第49号1989))
*5.中上敬一「十九夜念仏源流考」(『日本の石仏』第54号1990)

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2012年4月30日 (月)

Z-2 利根町の如意輪観音像を刻む最古の十九夜塔

 前回のZ-1で、千葉県で最古の銘の十九夜塔は承応元年(1652)の香取市石納の塔、次いで明暦元年(1655)の芝山町加茂普賢院の六地蔵立像石幢、そして万治2年(1659)山武市本須賀の大正寺の宝篋印塔と書きました。
 石幢や宝篋印塔はこの当時もっとも手の込んだ形態の石造物であり、また香取市石納の塔もまたそのような宝篋印塔であったと私は思います。

 寛文年間になると、十九夜塔がさかんに造られていきます。
 その数、榎本正三氏の『女人哀歓』によれば、旧印西町だけでも219基を数える十九夜塔のうち14基は寛文12年までに建てられています。

 また最新の資料(*1.*2)から、寛文10年(1670)までの初期十九夜塔造立数を、市町村別(2005年までの旧市町村名)に数えてみると、

120202_2 千葉県側では 旧印西市 12基
           旧佐原市 6基
           旧印旛村 6基
           我孫子市 5基
 茨城県側では、利根町  10基
           伊奈町   7基
           取手市   6基
           藤代町    3基
           鹿嶋市   3基
の建立が見られます。       (↑栄橋から利根川)

  *1.中上敬一「茨城県の十九夜念仏塔」『茨城の民俗』第44号2005
  *2.石田年子「血盆経と下総の十九夜念仏講」『房総石造文化財研究会 第17回石仏入門講座石仏入門講座 講演資料』2011.


 これらの多くは、如意輪観音像を浮き彫りにした舟型光背の石塔で、「十九夜念仏」あるいは「十九夜供養」の銘がある、あるいは建立日に「十九日」と明記されています。

 利根川とその支流の小貝川・手賀川・長門川・利根常陸川の流入地点が、早い段階から十九夜塔普及の地域となっているようですが、特に利根川をはさみ、現在の県道4号・千葉竜ケ崎線の栄橋、かつての布川の渡しのあたりは、その後急速に広がっていた十九夜塔の原点のひとつと考えられます。

布川の徳満寺の十九夜塔を訪ねて

 120202_130s江戸期、女人講の主流となる十九夜講の主尊がなぜ如意輪観音なのかはまだ私にはわかりませんが、『女人哀歓』ほか、さまざまな報告では、如意輪観音像を刻んだ十九夜塔の初出は、万治元年の茨城県利根町布川徳満寺の板碑型塔とされています。

 千葉県側から千葉竜ケ崎線の栄橋を渡ると、すぐ左手の高台の森が徳満寺です。
 この寺院の参道と山門は、利根川の河畔から台地へ直登する階段を上ったのでしょうが、河川改修により県道の栄橋北詰をすぐに左折します。

 今は、ここが正門で、左に「布川城跡」の碑が立っています。(↑)

111012_004s 布川城は南北朝時代に豊島左兵衛尉頼貞により築かれ、関ヶ原の戦い後に廃城なるまで、利根川水運の要衝として機能し、豊島氏が去った後には、徳満寺が今の門前の場所から本丸跡に移動してきたそうです。

 正門を入ってすぐ左、囲いの中に2基の石塔があり、解説板が設けられています。
 左が笠部を失い塔身のみが残された「時念仏塔」で、この塔の建立は元禄14年(1701)ですが、111012_0052s_2「当時の時念仏講の開始は寛永元年(1624)10月23日」と解説板に記されています。
 右が、一目見たかった万治元年(1658)銘の十九夜塔。 
 下部に蓮華の浮彫を配した江戸前期の板碑型の一般的石塔ですので、「日本最古の十九夜塔」と解説板になければ、見落としてしまうでしょう。 (⇒画像をクリック)
 碑面には、蓮華座の上に、右手に宝珠、左手に未敷蓮華を持つ観音坐像が線彫りされ、「十九夜念佛一結之施主(等)三十(余)人」「万治元戊戌年十月十九日」と銘が刻まれています。

 徳満寺は、元禄時代に第7世住職が身丈約2.2mの木造地蔵菩薩立像を京都の六派羅密寺より勧請、「子育延命地蔵」として参拝客を集めました。赤松宗旦の『利根川図誌』にも記されたように、年に1回の開帳の際門前に「地蔵市」が立つなど、庶民で賑わう寺院でした。

 また、本堂廊下に掲げられている「間引き絵馬」は、柳田國男が思春期にこれを見て衝撃を受け、農政学、後に民俗学を志したというものです。Photo_3
 子育て祈願でにぎわう寺院に「間引きを戒める」絵馬が奉納されているというのは、秩父札所の菊水寺のほか、沼南町弘誓院や長南町笠森寺にもあります。

 江戸後半期、子育て意識が家の存続繁栄と不可分な「家の子」重視であったことは、また同時に家計のためには「子返し」も辞さないという少子化社会の時代でもありました。(参考:太田素子『子宝と子返し 近世農村の家族生活と子育て』)
 時の施政者や宗教者の、農村社会のこの少子化志向に対する危機感が、『小供そだてつる教え草』などの「教諭書」や『子孫繁栄手引書』による間引き図の絵馬の掲示につながったと私は考えますが、殺生の罪を産婦に科すこの絵馬は恐ろしく、あまり気持ちのよいものではありません。

 


布川神社の十九夜塔を訪ねて

0 さて、『女人哀歓』によれば、徳満寺の万治元年の十九夜塔に連続して、すぐ近くの布川神社にも翌万治2年(1659)銘の如意輪観音の線彫りした板碑型「十九夜念仏」塔があるとのこと。

 こちらも4月下旬に訪ねてみると、社殿は利根川を見下ろす高い台地上にあり、急な石段の参道がついていて、その参道の右手、台地の裾の草むらの中に石塔が数基、120419_0122_2その中に徳満寺の十九夜塔によく似た板碑型の石塔がありました。1672s

  線彫りの如意輪観音像は六臂で、下に「十九夜念佛一結施主/五十六人為二世安楽也/干時万治二己亥稔/十月十九日敬白」の銘文があります 
 その左には、像容から寛文年間と思われる如意輪観音像塔と、寛文12年の「時念佛一結衆」銘の風格ある大日如来の石仏が草に埋まって並んでいます。

 急な階段を登り、社殿をのぞくと、利根町の指定文化財になっている慶応元年(1865)玉蛾作の神功皇后と武内宿祢」など奉納絵馬が掲げてありました。
S 江戸時代、神功皇后は安産子育ての守り神として信仰されていて、その像は、五月幟や絵馬などにもよく描かれています。

 布川神社は鎌倉時代に豊島摂津守が建立、祭神は、久々能智(クグヌチ)之命。イザナギ、イザナミ二神が生んだ木の精霊。
 関東では珍しい祭神で、 別当は徳満寺。その記録には享保19年(1734)正一位布川大明神とあり、明治維新の際、つまり明治元年(1868)布川神社と改称したとのことです。

 いずれにせよ、万治元年と2年銘の二つの板碑型石塔を持つ布川の地が、如意輪観音像をビジュアルに表現した十九夜塔の原点であることは確かでしょう。

 一方、「Z-1  千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」で千葉県の初期の十九夜塔を紹介しましたが、明暦元年(1655)銘の六地蔵立像石幢の地である芝山町と、その近接地、万治2年(1659)銘の宝篋印塔のある山武市の地域もまた、十九夜塔発祥地の一つとして注目されます。

 九十九里海岸沿いの山武市域では、万治3年(1660)銘の光背型の浮彫如意輪観音像塔に「奉唱十九夜念佛・・」の銘がある供養塔が建立。
 その後、常総各地では寛文年間から、この如意輪観音浮彫像の十九塔が一斉に建てつづけられ、庚申塔と並んで主要な石造物となりました。

 次回も利根町で、時念仏塔と関連する石塔を追ってみます。

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2012年3月27日 (火)

Z-1 千葉県最古の十九夜塔を訪ねて

十九夜塔とその分布

1677_2 女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音(多くは画像)の前で経や和讃を唱え、飲食する講を「十九夜講」、その講が建立する石塔を「十九夜塔」といい、主に如意輪観音像か「十九夜」の文字が刻まれています。 

                   (香取市八筋川甲・宝蔵寺の十九夜塔 延宝5年⇒)

 中上敬一氏の2005年の報告*では、
栃木県が2702基、茨城県が1672基、福島県が1449基、
千葉県が1175基、群馬県が142基、埼玉県が108基とのことです。(*『茨城の民俗』第44号2005)
 また、石田年子さんが昨年(2011)房総石造文化財研究会主催の第17回石仏入門講座で発表した最新の集計では、千葉県で1997基がリストアップされていて、各市町村の悉皆調査が進めば、もっと増えることが予想されます。

 私の調査エリアでは、特に利根川下流域を中心に、「香取の海」といわれる霞ヶ浦から印旛沼・手賀沼、そしてこの湖沼群から遡上する河川沿岸の村々に特に濃厚に広がっているようです。

 利根川流域の千葉県側の十九夜塔については、印西市を中心に調査研究された榎本正三先生の『女人哀歓 利根川べりの女人信仰』に詳しく述べられています。
 私もこの本をたよりに印西市域の古い十九夜塔と子安塔を何度も訪ねて回りました。

 まずは、千葉県で一番古いといわれる十九夜塔を訪ね、さらにその成立に関わる石塔を茨城県側にも広げて考えてみたいと思います。


大震災後の香取市利根川北岸を行く

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 今年(2012年)1月、十九夜塔研究では千葉県でNo.1の石田年子さんから「千葉県で一番古い十九夜塔は、香取市石納の結佐大明神境内の石塔」という最新の情報を画像付きでお教えいただいて、すぐに現地へ行ってみました。

 石納の結佐大明神は、茨城県内に飛び地になったような利根川北岸にあり、前年の東日本大震災の液状化被災の著しい地域で、波打つ農道は寸断され、田圃は重機による復旧工事の真最中でした。

 「土木の風景」 香取市石納地区の液状化対策現地調査

 明治初期の迅速測図に現在の水系のラインを重ねた地図を「歴史的農業景観閲覧システム」で見てみました。

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 120125_045_2県境であった利根川は、かつてこの神社の北側を屈曲して流れていて、現在大きく液状化しているところは、その利根川の旧河道を埋めた土地のようです。

 すぐそばに真言宗豊山派の観照院があり、明治9年にここに石納小学校が開校されていますので、かつては水郷の中核的な村落であったと思われますが、その後、村の東南半分は、直線化された利根川の流路になり、移転を余儀なくされたことでしょう。

 さて、訪ねた石納の結佐大明神は、水郷の小さな神社ですが、真新しい鳥居など、震災被災後の整備もされて、社殿の背後の石塔群もきれいに修復されていました。

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千葉県初出の十九夜塔=石納の結佐大明神の塔は「宝篋印塔」?

 石田さんから教えていただいた千葉県最古の十九夜塔は、石塔群の片隅にある不思議な石塔でした。

 120125_009_2 


1652 不釣り合いな破風付の石祠用の屋根が載っていますが、右手に積まれた部材にある宝篋印塔の笠部が載ると思われることから、江戸初期の宝篋印塔が元の形だったのでしょう。
 基礎部には「承応元年(1652)壬辰年/十九夜侍之供養/十二月十九日」、中段の塔身部に梵字「キリーク」が刻まれています。
 キリークは阿弥陀如来・千手観音も表しますが、この場合はおそらく如意輪観音だと思われます。

 その他、
  承応4年(1655) 「大日念仏」板碑型文字塔
  寛文11年(1671) 「廿日待」 宝篋印塔
  120125_014貞享3年(1686) 「二十三夜」 板碑型文字塔
  元禄5年(1692) 「二十六夜」 勢至菩薩像塔
  宝永4 年(1707) 「二十一夜」 如意輪観音像塔
  延享3年(1746) 「十七夜」 如意輪観音像塔
   寛政11年(1799) 「淡嶋・十九夜」 虚空蔵像塔(⇒)
など全部で16基あります。

 

 うち十九夜塔と思われるのは、この承応元年銘の石塔と、虚空蔵像塔のほか、板碑型文字塔と如意輪像塔が各1基の計4基です。
 


 さらに、隣接する観照院には文化7年(1810)の「十五夜」子安像塔(↓)がありました。1810_15_2

 江戸前期からの念仏塔・月待塔・子安塔が、こんなに幅広くバラエティ豊かに並んでいるのは、興味深いことです。

 このように供養の対象も主尊の像容も石塔の形もさまざまな形態を試行する姿は、十九夜塔成立の揺籃(物事が発展する初めの時期や場所)を示すものなのでしょう。

 その他、香取市の利根川北岸では、八筋川甲・宝蔵寺の延宝5年(1677)如意輪観音像の十九夜塔、野間谷原・水神社の元禄16年(1703)板碑型の「十九夜・二十三夜」塔を見ることができました。

 香取市の旧佐原市域の子安像塔については、『佐原市石造物目録』2002を参考にかなり丁寧に見に行ったつもりでしたが、同じ千葉県内でも利根川の北側については意外に盲点であったと感じました。

千葉県で次に古い十九夜塔は

 1655ところで、この石納の塔に次ぐ十九夜塔については、明暦元年(1655)8月造立の芝山町加茂普賢院の六地蔵立像石幢(⇒)と、万治2年(1659)山武市本須賀の大正寺の宝篋印塔が、以前から報告されています。

 実は、この記事を書く前に芝山町と山武市へ行く予定でしたが、3月9日、左足甲の骨を折る怪我をしてしまい、現地調査をずっと先延ばしせざるをえなくなりました。

 沖本博氏の 「千葉県の十九夜塔」 『日本の石仏』No.49(1989)と、千葉県山武市公式ホームページから借用した画像でご紹介することをどうかお許しください。

 芝山町加茂の石幢には「奉新造立石地蔵十九夜待」の銘があり、中上氏の表「千葉県の十九夜念仏塔年表」*では千葉県内初出の十九夜塔になっていました。

 1659

 三番目の山武市本須賀の宝篋印塔(⇒)には、「上総国山辺庄武射郡南郷本須賀村 奉唱満十九夜念佛二世安隠之所 萬治二年己亥三月十九日 結衆七十五人敬白」と銘が刻まれて、山武市ホームページにあるように、かつては県内初出とされていました。

 香取市石納の承応元年の十九夜塔も、このような形の宝篋印塔だった想像できます。

 さて、これより古い十九夜塔は、というと、やはり利根川流域から北側に広がるようです。 

 続きの「十九夜塔の源流-2」は、県境を超えて茨城県の石塔を訪ねてみたいと思います。

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2012年3月13日 (火)

K-29 船橋市域の女人講の石仏・石塔に出会って

 ご縁があって、昨月2月3日、西船橋を中心に活動している「かつしか歴史と民話の会」の皆様に、「利根川流域の十九夜塔」と題する講演してきました。
 この会は、「京成西船駅」もかつては「葛飾駅」と称していたように、由緒ある地名だったこの「葛飾」の地域で、歴史と民話を学び町の文化を再発見して親しむこと目的にして活動しておられます。

 テーマにある「十九夜塔」とは、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、十九夜講を開き、如意輪観音の前で経文、真言や和讃を唱える行事を「十九夜講」と呼び、十九夜講が祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」です。
 関東北東部に多く分布し、右手を右ほほに当て首をかしげ、右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻されています。

090915_009_2

 1749さて京成西船駅を降り踏切を渡ると、右手の正延寺境内には如意輪観音像の見事な像容の如意輪観音像の十九夜塔が4基(↑)あります。

 そして通りの反対側には、通称「成瀬地蔵」の祠の前にも寛延2年(1749)の如意輪観音像の十九夜塔が1基(⇒)があります。

 他にも近くの西船7丁目の路傍には、宝永8年の「講中六十八人」銘如意輪観音座像もあり、地元で活動される会の皆様には、このような身近な美しい如意輪観音の姿に惹かれ十九夜塔にご興味を持ったのでしょう。

 私もこのブログの「K-4 女人名の刻まれた船橋市不動院の六面石幢」でも書いたように、船橋市内の女人講の石仏との出会いは、興味深いものがありました。

 
 「利根川流域の十九夜塔」というテーマは、榎本正三氏の『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』ほか、千葉県側では石田年子氏・沖本博氏、茨城県側では中上敬一氏・近江礼子氏の先行研究があります。
 また十九夜塔の成立についても諸説あるようで、ひたすら子安像塔を追いかけている私の手には余るテーマと思いましたが、八千代市とその西に接する船橋市域の石仏との出会ったこれまでのフィールドワークの成果をから始めて、つくば市と利根町など茨城県の取材を入れて、まとめてみることにしました。

 

 (というわけで、講演は無事終わり、その内容を載せていきたいと思いますが、八千代市域は前に書いているので、このページでは船橋市の女人講に石造物について、簡単に紹介し、次回に十九夜塔の成立についての現地ルポと考察を載せたいと思います。)16581

 船橋市葛飾の石仏散歩 
(↑これは、数年前に会員の白石氏のご案内で石仏散歩をした時のアルバムです。 )

 
海辺の街道筋の地蔵像

 船橋市域は、南部の海辺の街道筋と、印旛沼の支流につながる北東部の下総台地、北西部の中山法華経寺に縁の深い地域という特徴ある地域からなります。

 

 海辺の街道筋には、元禄14年銘の本町不動院の六面石幢のほか、関東でも早い年代のしかも像容の優れた石仏が複数あり、その中でも、萌芽期の女人講石塔としたい二つの延命地蔵像があります。1684_2

 一つは本町2丁目の「西向き地蔵」(↑)、もう一つは京成西船駅近くの「成瀬地蔵」(⇒)で、それぞれの地域で信仰されているだけでなく、興味深い伝説も付会されて、人気のあるお地蔵様です。
 本町2丁目路傍「西向き地蔵」は、「万治元年(1658)」「念仏講中間 拾弐人 同女人十六人 さんや村」の銘があり、印内1丁目木戸内地蔵堂 の「成瀬地蔵」には、貞享4年((1868)「念仏講連衆」の銘と「お岩」など女人名19名が刻まれています。

 東船橋日枝神社には、寛文9年(1669)「善女人念仏講」銘の光背型如意輪観音像が建立されていますが、元禄時代までの海辺の街道筋の女人講が建てる石塔は、地蔵像も多く、海神6丁目大覚院の元禄11年(1698)銘の光背型地蔵像にも「奉造立念仏講二世安楽之所 海神村同行女人三十六人」と刻まれています。
 1677地蔵菩薩、特に「延命地蔵菩薩経」で説かれる地蔵は、「十種の幸福=女性なら出産できる、健康で丈夫になれる、人々の病を悉く取り除く、寿命を長くする、賢くなる、財産に溢れるほど恵まれる、他の人々から敬愛してもらえる」などのご利益があるとされたので、女人講では特に厚い信仰を受けたのでしょう。

 

下総台地の十九夜塔

 船橋市内で十九夜塔の初出とされる石塔は、海辺ではなく北東部の田喜野井3丁目正法寺にある光背型如意輪観音の珍しい立像(⇒)で、延宝5年(1677)の銘、「十九夜講 如意輪観世音菩薩 現未来願成就為菩提也」と刻まれています。
 そして貞享(1684~)から元禄(~1704)には、鈴見町や三山・飯山満など北東部はもとより、夏見や宮本など東側の海寄りの地域にも典型的な光背型如意輪観音坐像の十九夜塔が広がっていきますが、地蔵信仰の念仏講が女人講の基盤となっていた西部の海神や西船の村では、遅れて宝永(1704~)以降に造立されていきます

 西船3丁目の正延寺にも、享保3年(1718)から文化6年(1809)にかけての優れた像容の如意輪観音像の十九夜塔が並んでいますが、船橋市内全体では、88基もの十九夜塔が建てられました。

17855

 船橋市域での子安像塔の出現

 多くの十九夜塔が建てられていく中、夏見に近い米ヶ崎無量寺では、安永8年(1779)「奉造立十九夜講中」と刻んだ光背型子安像塔 が出現します。

 続いて、金堀町 竜蔵院に天明5年(1785)「子安講中」という銘の子安像塔(⇒)が、如意輪観音像の十九夜塔群の中に現れます。

 どちらも思惟相の如意輪観音に赤子を抱かせた像容ですが、市内の他の地域に普及することはなく、船橋市域の江戸時代中期までの女人講の石塔は、十九夜塔が中心でした。

 一方、隣接する八千代市域と同様に、江戸中期から、薬円台や飯山満町など船橋市域の北西部では、「子安大明神」銘の女人講石祠が神社境内に多く祀られています。1841_12s 

 
 そして江戸後期の文化文政~天保の時代になると、主に印旛沼につながる下総台地の村では、高根町神明社の石祠(1824)のように石祠の中に子安像を、あるいは車方町神明神社の塔(1810)のように光背型の浮彫で子安像を現すようになり、このような子安塔は、十九夜塔の数をしのぐようになります。
 ⇒東船橋1丁目日枝神社の子安塔 天保12年(1841)

 そして子安像塔は、八千代市隣接の北東部では、幕末から近代には女人講の石塔の主流になりますが、船橋市全体としては、その数は西側の八千代市・印西市のように多くはありません。

18622_s その中で、前貝塚町行伝寺の文久2年の「鬼子母神」として信仰される子安像塔(⇒)は、「知其初懐妊成就 不成就安楽産福子」の銘があり、如意輪観音像を祀ることがない日蓮宗系地域の子安講の主尊像として注目されます。


 

 

北総最西端の子安像塔

 西部地域では、中山競馬場に接した古作町熊野神社境内に明治20年(1887)の子安像塔(↓)が祀られていますが、千葉県ではこの像が最西端に位置する子安像塔だと思われます。1887s_2

 中山競馬場の西側は市川市の中山法華経寺の領域、さらにその西は、江戸川流域の民俗文化圏になり、子安塔はもちろんなく、十九夜塔も少ない地域となります。

 石仏研究上貴重でもあるこのふくよかな子安塔に出会えたことに、「かつしか歴史と民話の会」の白石さま、ほか皆様に感謝します。

参考資料:
『西船橋地区石造物調査報告(前篇)』船橋市史談会1978
『船橋市の石造文化財(市史資料)』船橋市 1984

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2012年2月14日 (火)

S-14 つくば市宝篋山頂の宝篋印塔の姿とその信仰背景

念願の宝篋山に登る

120211_006_2 2012年2月11日、早春の日差しとはいえ、まだ冬枯れの筑波路を夫と旅し、筑波連峰の東南に位置する宝篋山( 461m)に登りました。

 三村山また小田山とも言われたこの宝篋山(宝鏡山)の名前は、山頂に中世の雄大な宝篋印塔が建っていることに由来し、この宝篋印塔をこの目で見ることは、私の十年来の念願でした。

 十年前の2002年ごろ私は、八千代市正覚院の清凉寺式釈迦像の関連で、鎌倉時代の律宗の僧忍性の足跡を追い、つくば市小田を探訪し、「1.筑波路の風景 まぼろしの大寺・「三村山極楽寺」跡を探して」をアップしました。

(⇒シリーズ目次ページ-「おしどり寺」村上正覚院の来た道-

 

 そのとき、小田城跡から見た宝篋山の美しい姿に感動して、忍性の発意でこの山頂に建立されたであろう宝篋印塔を見てみたいと思いましたが、土地の人にお聞きすると、登山道が完備されていないので登頂は困難といわれ、また、冬の狩猟シーズンはハンターも多く危険なので、断念した思い出があります。

 建長4年(1252)関東に下向した忍性が、10年にわたって滞在し布教の足掛かりにした宝篋山山麓。 (↓小田休憩所の野外展示)

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 ここに広がっていた三村山清冷院極楽寺の跡は荒れ野となり、伽藍がそびえたっていたという往時の光景を、荒涼とした山麓の風景の中に思い浮かべるのは困難でしたが、小字「尼寺入」の路傍に立つ正応2年(1289)銘の石造地蔵菩薩立像(⇒)と、総高3.2mの五輪塔(↓)が、七百年前の優しく力強い信仰を物語っていました。

 それから十年、2012年1月25日、近世十九夜塔のルーツを調べに、筑波山麓の平沢八幡神社に行き、帰路、平沢官衙遺跡に寄ったところ、その案内所に「宝篋山ハイキングマップ」が置いてありました。
 

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 なんと、登山道が立派に整備され、駐車場完備の「宝篋山小田休憩所」もできているのです。
 さっそく半月後の2月11日、ハイキングマップと現地の案内板や道しるべに導かれ、往復約4時間のハイキングを楽しみながら、 念願の山頂の宝篋印塔を拝観することができました。

 

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山頂の宝篋印塔の姿 

 宝篋山山頂の茨城県指定文化財「宝篋印塔」は花崗岩製で、一部欠けている相輪を補って復元すると2.5m以上の高さになります。

 建立年を記す銘はありませんが、忍性の故郷の奈良県額安寺の宝篋印塔(文応元年 1260年)と、奈良観音院宝篋印塔(弘長三年 1263年)と、プロポーションや要素にそれぞれ相通じるもの*があり、私はこの間(1261~1262年)に、額安寺宝篋印塔に銘のある大蔵派の石工の手により作られた塔と考えます。
 (*塔身に二重円相光形を彫りくぼめ四仏を浮彫りする点、塔身下に反花座を置く点は観音院塔に類似し、基礎を2区に分かつ点と笠下を3段に造りだす点は、額安寺塔と共通します。)

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 ちょうど忍性がこの地を去り、鎌倉に向かおうとしていた時期ごろでしょう。

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 2011年3月11日の地震による一部損壊した相輪も九輪に復元され、笠は7段、隅飾の突起がわずかに外を開いて直立しています。
 この隅飾りと基礎には、装飾がなく、意外にシンプルです。
 そして、塔身の四方仏(東面:薬師、南面:釈迦、西面:阿弥陀、北面:弥勒)が、優しい姿で穏やかに微笑み、笠の底面四隅に径2㎝程の穴が確認されます。
 この穴は風鐸をつるした跡といわれ、建立当時は、山を渡る風に吹かれ、光り輝きながらはるかかなたまでその鐸の音が鳴り響いていたことでしょう。

 基壇に比べ笠が大きく、頭でっかちでバランスを欠くといわれていますが、基礎の下に大きめの基壇を置いていること、またこの塔は正面からではなく下から見上げて拝する位置にあることから、むしろどっしりした安定感があるように私には感じられました。

 1979年の解体修理では、基壇の下から常滑系の壺と蓋とした皿が出土。すでに盗掘されていて、他の遺物は青銅製の箱飾り金具のわずかな断片と、後代に報賽された銭貨だけであったそうです。
 壺の中には、おそらく宝篋印陀羅尼経が納められていたのでしょう。

 宝篋山の頂からの眺めは、関東平野を一望し、東に霞ヶ浦、北西に日光男体山と筑波山、そして南西に向く鳥居の向こうには富士山が遥拝できます。
 この塔の背後には、関東一円をカバーする各機関の電波塔がそびえ立っていますが、中世においても北関東をまさにすべて見渡す位置にあったと思われます。

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              日光男体山を望む

「高山峰上」の塔の意義

 近世以後の宝篋印塔は、寺院境内の本堂前に築かれた裾広がりの供養塔と、身分の高い故人のための背の高い墓塔によく見られますが、多くはその建塔の意義は忘れられ、寺院や墓地を荘厳する石塔になっています。

 しかし、鎌倉時代の初期宝篋印塔の意味、特に東国において、箱根山の塔信濃の仏岩など、運び上げるのに困難な山上になぜ宝篋印塔を建立したのか、そしてこれらの高い峰にそびえ立つ塔をどのように理解したらよいのか、私にとってとても深い謎でした。
 その理由を、「最も厳しい峠道で、峠を越える人々を慰め励まし、旅に倒れた者の魂を救うため、極めて困難な場所であっても峠道から仰ぎ見られる場所に立てられたのだと思う。」と書いたこともありました。
 「9.箱根路の地蔵霊場・峠の石仏石塔群」 、 「12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎」 )

 今回、宝篋山を実際に見てみると、険しい峠道というより、戦国時代に山城が築かれたように、北関東一帯を見渡す交通の要衝、そして神々しい山々や香取の内海と鹿島灘を遥拝するに位置しています。

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 登山の後、小田休憩所に立ち寄ると、管理人の東郷氏がお客と雑談している話の中で、「山上に塔を建てた意味は、見渡す限りにあるすべての生きものに救済の功徳が及ぶということ」と述べておられました。(⇒)
 なるほどと思い、帰ってから宝篋印陀羅尼経について調べてみました。

 宝篋印陀羅尼経すなわち「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」は、壊れた塔を世尊(仏)が供養したところ、その塔は「大全身舎利の積集した如来の宝塔」で、仏身そのものであったと弟子に説いた経です。
 この経文の中には、「若人往在高山峰上至心誦咒・・・」という文言があり、「もし高山の峰上に登り、心をつくして咒(宝篋印陀羅尼)を唱えるなら、眼下に見える遠近世界、山谷林野江湖河海の一切の生きとし生けるものすべて、諸々の罪障が消滅し、災難から免れ成仏できる」というようなことが書かれています。

 寺院の中ではなく、高山峰上に建立するということの意義は、殺生禁断と貧しい民衆の救済を教え説いたまさに、忍性の信仰そのものであり、箱根山中の塔も、信濃仏岩の塔も同じ意味を持ったのだと改めて思いました。

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 そして、この三つの山上の塔を地図上にプロットしてみると、信濃仏岩と宝篋山は約190㎞離れた同緯度にあり、両地点から南方向へ等距離のほぼ正三角形の頂点の位置に箱根山が位置しているのです。
 これは偶然ではなく、まさに忍性教団の東国布教の志を表しているのではないかと深く感動しました。

 最後に、念願の宝篋山登山が無事できたことについて、宝篋山や小田城跡の環境整備と文化財保護に尽力されているNPO小田地域振興協議会の東郷重夫事務局長ほかボランティアの皆様の活動に、拍手と感謝の念を送りたいと思います。

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  山麓の「ザル池」

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2011年10月28日 (金)

S-13  瞽女さん奉納の手水石と、その銘を語る2基の石碑

 印西市別所地蔵寺の手水石と石碑

 111025_0022昨年(2010年)の早春、子安塔群を調べに、印西市別所の金龍山地蔵寺へ行く機会がありました。
 「別所の獅子舞」で有名な地蔵寺は、JR成田線木下駅と北総鉄道の印西牧の原駅の間の中ほど、古いムラのたたずまいの中にあり、仁王門奥に県指定文化財の木造地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂、その右のやや奥に熊野神社の社殿が並び建っています。
 子安像塔は安政4年から大正5年まで5基、如意輪観音像の十九夜塔は寛文9年(1668)と元禄7年(1694)の2基あり、女人講が盛んであったことがしのばれます。

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 さてこれらの石仏を見てから、仁王門を出てところで、手水舎の傍らの2基の新しい石碑が目を引きました。

 「御寶前」と大きく記された手水石、その右側の石碑には「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」というメッセージと旅姿の瞽女さんの絵が刻まれています。
 2000年7月7日に個人(女性名)が建立されたものです。

 左側の石碑は「瞽女奉納手水石・御寶前」と題して、手水石とこれを奉納した瞽女についての解説と、手水石刻まれた銘文が、わかりやすい文章と文字で記されて、裏にはこの石碑を奉納した住職と檀家総代の4名の名前と2000年5月の建立日があります。
 

 111025_0142そして、覆い屋の中の手水石は、今も使用できるようきちんと整備されていました。

手水石の銘文
(正面) 御寶前 

(右面) 草深村 香取平左エ門
     発作村 越川 五平治
     木下宿 吉岡七良左エ門
    
100209_0682_2 常州鹿島 瞽女 ヒテ
     布鎌押付 瞽女 キヰ

 

(左面) 布鎌惣村々 世話人 與兵衛
         同   弥兵衛
         同   六兵衛
     龍腹寺村
     宝田村

(裏面) 願以此功徳 普及於一切 
     我等與衆生 皆共成佛道
     享和三癸亥歳
    
111025_0182 仲秋吉日 
     当村願主 瞽女キヨ 
          若者中 

「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑の銘文
(解説文章部分)
 この手水石は、享和三年(一八〇三)、別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、惣深村、発作村、木下宿、布鎌惣村中、龍腹寺村、宝田村など近隣村々、有力者等の賛同を得て奉納されたものである。
 瞽女とは、室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女のことで、三人くらいが一組になり、祝儀歌、門付歌などをうたって歩き、夜は宿に入り「よせ」を行って人々を楽しませた。
 111025_0122_2右側面に刻まれている三人は、いずれも村名主や河岸問屋で、瞽女の遊芸に援助の手を差し伸べ、自分の家を瞽女宿として提供したものと思われる。
  
瞽女を迎えると「福が来る」として歓迎したりする地方もあったといわれ、瞽女宿では、娯楽の少なかった農山村の村人が集まって歌曲を聞いて楽しんだ。
当時の農民娯楽の風習があったことを示唆する貴重な史料である。
 

 この新しい石碑が示すように、この手水石は、享和3年(1803)別所村の瞽女キヨと若者中が願主になり、近隣の村々の有力者や2人の瞽女の賛同を得て造立した銘が入っていて、このことは、榎本正三氏が『女たちと利根川水運』(1992刊)で詳しく述べられています。
 この本によれば、キヨは寛政7年(1795)の別所村の高反別明細帳にある「瞽女壱人」であり、賛同者の2人の瞽女の常州鹿島のヒテと布鎌押付のキヰも実在したことは間違いなく、別所のキヨを頂点として瞽女仲間を形成していたと、榎本氏は推測しています。
 また、世話人筆頭の布鎌村與兵衛は栄町長門屋O家の先祖で、その証言から当家は瞽女宿で、当村出身のキヰとの関連もあったと考えられるそうです。 

 

 江戸川区内名主屋敷を訪れた瞽女

 私は近年、江戸川区の一之江名主屋敷を会場に行われる秋の夜の瞽女唄ライブに魅了され、毎年その公演を楽しみにしています。
 081005_0822_2今も文化財として残された東葛西領一之江新田の名主屋敷には、膨大な古文書が伝えられ、その中には、この屋敷が瞽女の宿となったことやその経費などが記されています。

 この屋敷を舞台に瞽女唄を演じるのは若く美しい月岡祐紀子さんで、最後に残った越州高田の瞽女さんたちとの交流を縁に、瞽女唄の伝承・発掘に取り組んでいる邦楽家です。(↑2008年10月5日名主屋敷での瞽女唄ライブの月岡さん)
 3年前初めてその唄声と三味の音に接し、特に祭文松阪という長い物語の演目には、中世的な世界に引き込まれていく力強い魅力を感じました。
 瞽女についての月岡さんのわかりやすい語りも好評で、かつての旅する瞽女の姿や門付けの様子、そしてまさに村人を前にした「夜の座」の臨場感を味あわせてくださいます。

 江戸川区を訪れた瞽女についての調査報告は、内田定夫氏の『瞽女の記録』(1983年)があり、その後2007年にジェラルド・グローマー氏による全国の瞽女唄の史料を集大成した『瞽女と瞽女唄の研究』が発刊され、もちろん江戸川区や下総の史料も掲載されています。
 ただしどの史料も、来訪した瞽女の人数とその経費を記すだけの断片的なもので、江戸川区の名主屋敷を定期的に宿にした瞽女の名や出身地は不明です。

 私は、かつてみた映像や絵のせいでしょうか、瞽女さんたちは遠く雪国の町で、親方と疑似の親子となって集団で生活し、峠を越えて列になって来訪する姿をイメージしていました。
 しかし、印西市別所の手水石の銘は、関東の村や町には、単独または少人数の瞽女がいて、自村はもとより、近隣の瞽女でネットワークを組み、徒歩よりも内海や河川の舟運を利用しての巡業が多かったのではないかと、語っています。


船橋市藤原新田を訪れた「葛西新川」の瞽女

 
そのような、近隣のフィールドで活動していたのではという視点で、もう一度グローマー氏の史料集にあたってみると、『船橋市史』史料編所収の藤原新田の「御用留」の弘化4年(1847)に「十月廿四日 一、瞽女弐人泊り 葛西新川組」と、 また嘉永7年(1854)にも「四月九日夜 一、こぜ三人 泊り 葛西組之由」とありました。

 101124_098「葛西新川組」の「新川」とは、江戸時代の初め、船堀川の流路を直線化した運河で「行徳船」が就航、農産物のほか、成田参詣の客なども運ばれるようになって、その川岸には酒を売る店や料理屋が並び賑わったといいます。
 ここにも瞽女がいたということですから、そう遠くない一之江新田の名主屋敷で座を開いたということもあったのではないかと思います。 (↑江戸川区新川の景観)

 上州と武州では遠く雪国から山越えで来訪する瞽女の姿が多かったといいますが、一方江戸湾岸や利根川沿いの村々では、船で行きかう近隣の瞽女や地元の瞽女の活動も多かったのではないでしょうか。
 印西市別所の手水石や、船橋市藤原新田の史料から、村や津、河岸のにぎわいの中に住み、地域の中でその芸を披露する瞽女の姿もイメージできるかと思います。

 「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑には、歴史資料としてこの石造物を大事する別所村の方々の温かい心、そして「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」と記された石碑には、瞽女さんに注がれる優しいまなざしを感じます。
 そしてこの2基の石塔に瞽女さんの姿を留め伝えてくださった別所村のみなさんにも、心から「ありがとう」と言いたいと思います。

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2011年8月24日 (水)

K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽

 八千代市内での女人信仰に関連する石造物を調べているうち、下総に多い子安像塔についてトータルな先行研究がないことに気づき、最近は、千葉県北部をひろく回って、子安さまばかり追いかけていました。
 おかげで、近世~近代のさまざまな石造物についても浅く広くその姿が見えてきましたが、また一方で、旧村単位の一地域にスポットを当てたミクロな視点での調査も、石造物と民俗の関連を知るうえで、やはり欠かせないものです。

 一昨年から始めた八千代市萱田の女人信仰に関連する石造物の調査は、平成18年に刊行された『八千代市の歴史 近代・現代Ⅲ 石造文化財』の市内石造物一覧表の悉皆データに負うところが多いのですが、今回は、この表で省略された連名や長文の文字銘なども拓本を採ったりして、詳しくみることから始めました。
 その中で、特に興味を持ったのは、多くの村人が名を連ねている石塔のうち、男性名だけではなく、多くの女性たちが面を別にしてその名を連ねている萱田の長福寺の三層塔飯綱神社下の庚申塔でした。

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長福寺女人講石仏群 左手前:嘉永5年(1852)子安像塔、左奥:宝暦13年(1763)宝篋印塔(十九夜塔)、
                   中央:寛文9年(1669)三層塔、右手前:元禄2年(1689)十九夜塔


八千代市内の女人講が建てた石造物は、村上の正覚院にある丸彫りの如意輪観音像の十九夜塔が寛文11年(1671)銘で最古で、その背面の衣に「像立十九夜女人 念仏講衆」と刻まれていることから、寛文年間には念仏主体の十九夜講が成立していたと推定されています。
 次いで高津の観音寺の延宝2年(1674)造立の六臂の荘厳な姿の光背型如意輪観音像の十九夜塔ですが、この石塔の衣の裾と台座には「おつる おみや おまめ」など結願した女性の俗名が多数刻まれていました。 (⇒K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から)
 またその他の八千代市内の女性名連記の女人講の石塔は、前にも書きました。 (⇒K-24 女性名の石造物あれこれ(香取市吉原の子安塔ほか))

 
 1701_14_2萱田の長福寺には、米本の善福寺裏墓地の天和4年(1684)十九夜塔に次いで八千代市内で4番目に古い元禄2年(1689)の光背型の如意輪観音坐像(⇒上の画像の右)があります。
 そのほか長福寺に建てられた萱田村の十九夜塔と子安像塔には、K-24に載せたデータに加え、下記の石塔にも、女性名の連記がありました。

 ・元禄14年(1701)如意輪観音 光背型 十九夜塔 「おさわ おせん おせん おみの おたけ おたつ おたま・・・」女性計42名 (⇒右画像、右下は銘文の拓本)

 ・正徳3年(1713)如意輪観音 光背型 十九夜塔「おくめ おい□ おくめ お□せ おひ□ お古や おせん おくた おまん お志□ お□ヤ ・・・」女性計35名

 ・嘉永5年(1852)子安像 光背型 子安塔 「願主 さだ ひで かつ うめ あと せん たみ さわ もん・・・」女性計86人、および「世ハ人 金五右ヱ門 市良兵ヱ 甚右ヱ門 次良兵ヱ」

1701_3
 以上のように、八千代市内の中世から続く古い村の村上や高津では、延宝以前の1670年ごろから、十九夜講が組織されていたと推測されますが、萱田では、十九夜講成立は、元禄の1690年ごろからということになるのでしょうか。

 さてここで、それ以前の萱田の女人信仰の姿として、長福寺にある寛文9年(1669)三層塔や、延宝元年(1673)の飯綱神社下の庚申塔に刻まれた男女別の連名に注目したいと思います。

 寛文9年銘三層塔は、勢至菩薩を第2層に浮彫りした2mを超す石塔で、第1層は龕室となっています。
 Photo右面(⇒右画像)には「廿三夜講」「一結施主 女中衆」として「おつる おこう おくま」など24名の女性が、左面には「日記念仏供養」のため「定宥 □左衛門 □兵衛 長十郎」など33名の男性、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか「加左衛門」など3名の村人が名を連ねています。 


 110503_096また、延宝元年銘庚申塔(⇒右画像)は、笠付角柱型で三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面(⇒右下画像)には「およし おきく」など女性33名、左面には男性15名、表面には「定宥」と3名の男性の名があります。 

 関東の近世庚申塔は、先日発表された「東京東部庚申塔データ集成」(『文化財の保護』第43号 ⇒入手法)によれば、元和9年(1623)東京都足立区の弥陀三尊来迎図像の板碑型を初出として旧荒川流域に広がります。
 そして17世紀後半に入ると、男性の連名に交じって女性名がみられるようになり、東京都江戸川区では、寛文13年(1673)女性のみ25名で板碑型庚申塔を建立していますが、これを女人講の萌芽とみなしてもよいかと思っています。
 ま110708_08た、女性複数名プラス僧1名(建立を指導した住職か)の連記でも女人講誕生の証拠とするなら、さらにさかのぼる寛文7年(1667)銘の板碑型庚申塔が、練馬区中村の良弁塚にあります。

 
 さて萱田の寛文9年銘三層塔と延宝元年銘庚申塔ですが、ここには面を違えて男女別に銘を刻んでいることから、私は、村にはすでに女人講が形成されていて、村の有力者3名と住職が建立発起人となり、男女別のそれぞれの講が共同でこれらの石塔を建てたと判断します。

 すなわち、今回調査した萱田の事例から、下総国でも武蔵国と同じ1670年ごろ、中世からの村落寺院を中心に、「二世安楽」などを祈願する念仏を主体とするさまざまな女人講が営まれ始めたと、推測できるのではないでしょうか。

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2011年7月12日 (火)

K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶

 いつも通る八千代市新川の村上橋、その橋の西北に角型の石柱が一つ、ぽつんと立っています。
 花火大会や花見時は、その前に露店も出て、大勢の人が行きかう場所です。

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 新川沿いの平戸橋詰には、2基の日蓮宗系の題目碑、対岸には逆水の方々が建てた「南無阿弥陀仏」の称名塔があり、宗派が異なっていても、いずれも水難横死者の霊の菩提を祈る銘文が記されています。(⇒「平戸の大川施餓鬼風景」)
 平戸と同じく、日蓮宗神保領千部講の「大川施餓鬼」が行われる島田台や佐山、真木野の村々の水辺にも、明治30年代から大正にかけての同様な水難供養塔が数基あり、洪水などによる災難が近代でも深刻であったことが伺えます。1920_3

 
 このような背景とそのたたずまいから、村上橋詰の石塔も水難供養塔の一つではないかと思っていたのですが、萱田の女人信仰の石造物を調べていくうち、実はこの塔はその銘文から八千代市萱田上区の女性たちが建てた産死者の供養塔で、他の水難者供養塔とは性格が異なることがわかりました。
 この塔の碑文は風化が激しくて断片的にしか読みとれませんが、かろうじて次のような銘文が残されています。

  前面(西面)「・・・□□波羅密大慈大悲(埋没)/・・・□□萱田上區産死者万□(埋没)」
  裏面(東面)「大正九年三月吉日/萱田上区/世話人/君塚□た/長岡□た/八木谷かつ/君塚□□/外女人一同

 実は、萱田下の子安講の調査で、飯綱神社下の文字塔が現在の子安講の信仰対象となっていることを、昨年春に地元のご婦人方から知りました。19181985
 萱田下の旧集落は菅地・北海道・原口の3つの庭に分かれて、子安講もそれぞれ別に行われていました。
 今も子安講を行っているのは菅地で、毎月1回夜に飯綱神社で行い、日取りは次回の当番の都合で決めるので不定期、世間話中心で宗教的な行事ではないそうです。

 萱田下の北海道の子安講は、萱田下の公会堂で昭和四十年代までやっていましたが、今は年1回年末に「かわせがけ」をおこなうだけとのことです。
 この行事は飯綱神社下の「子安さま」にお花とお米とお水をあげて拝むのだそうですが、 この「子安さま」とは、飯綱神社の外、庚申塔群がならぶ辺田道沿いの一角の左片隅の2基の角塔婆型の石塔(⇒画像)なのです。

 18621888_5飯綱神社境内には社殿後ろに、私が子安像塔調査でよく取材対象にした文久2年(1862)と明治21年(1888)の2基の子安像塔があります。(←画像)
 

 史跡巡りをする方々にも、かなり目立った存在になっているのですが、子安講の祭祀が続けられているのは、この子安像塔ではなく、飯綱神社下の石塔であるとは、まったく意外でした。
 さらにこの「子安さま」は、もとは須久茂谷津の弁天脇の川べりにあり、そこはお産で死んだ人の供養をするところにあったというのです。

 2基の石塔の銘文です。

 手前新しい石塔(右上の画像左側 1985年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈梵字10字〉/ 檀波羅蜜大慈大悲一切衆生」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/地蔵菩薩以大慈悲若聞名號不堕黒闇」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/昭和六十年三月吉日」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無礙常瑜伽 四種曼陀各不離 /三密加持速疾顯 重々帝網名即身」1918_7_2

 奥の古い石塔(右上の画像右側 1918年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈種字10字〉/檀波羅蜜大慈大悲(埋没)」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/ 地蔵菩薩以大慈悲若聞(埋没)」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/大正七年三月 萱田村下区 子安(埋没)」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無□常瑜伽四種(埋没) /三密加持速疾顯重々(埋没)」
 この碑の根元を掘ってみると裏面下部に「子安」の文字が現れ、やはり子安講が建立した石塔であることが判明しました。

 「かわせがけ」とは「川施餓鬼」のことでしょう。
 また川べりで、産死者の供養をする習俗は、民俗学では「流れ灌頂(かんじょう)」と呼ばれ、「産死者や水死者、無縁の死者を弔うために行なわれる儀礼」でした。
 「習俗として、主に産死者、あるいは女性死者全般のために広く行なわれ、小川に卒塔婆、四本竹を立てて赤い布をつけ、道行く人がそれに水を掛けるなどした。赤い色があせると、血の池地獄に堕ちた死者が救われるという。水を掛ける際に、『産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水せがき』などの唄を歌うこともあった」といいます。 (高達奈緒美氏の論文から)

 川施餓鬼の宗教儀礼が、ムラの宗派や習俗により、いつの時代から、水難横死者供養と区別して、女人講により産死者の供養が行われるようになったかは定かではありません。
 村上橋詰の石塔も、飯綱神社下の萱田村下区の大正七年碑に続いて、萱田上区の女性たちが建てた産死者供養塔であり、いわゆる水難供養碑ではないと判断しました。

Photo_2 子安像塔を追いかけて東総路を行くと、かつて流れ灌頂をしていたというところに、子安像塔が建てられ、木の塔婆が添えてある風景を目にします。(⇒旭市清滝にて)

 萱田や以前調査した高津などのお年寄りの話でよく出てきた「流れ灌頂」の習俗も、産科医療が進み、「血の池地獄」の差別的な迷信から解放された現在ではさすがに全く廃れてしまい、今は各市史や町史の民俗編や民俗辞典の記述により知識として知るだけになりました。
 その「流れ灌頂」の記憶が、萱田や吉橋花輪などに現存する百年前の石塔にも留められていることに、石造物調査の面白さを感じた次第です。

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2011年2月20日 (日)

K-26 母子の命を支える医療スタッフの力と子安塔

助産婦さん奉納のモダンな子安像塔

 Photo    
 091210_108 2009年12月、香取市竜谷の円珠院を訪ねると、江戸後期の2基と並んで、美しくモダンな子安像塔が建っていました。
 乳を吸う子供の姿勢などやや稚拙な不自然さがありますが、青く彩色された長い髪が印象的です。
 現在でも奉納されることがあるのだと思いながら、側面の銘文を見ると、「小見川町竜谷 伊藤か祢 助産婦」と刻んであります。
 年号は彫られていませんが、地元の助産婦「伊藤か祢」さんによる近年の奉納と推測されます。

 日本の2005年周産期死亡率は出生1000あたり3.3人と世界的にも周産期医療はトップレベルで、母子ともにお産で命を失う危険は過去のものになりつつありますが、地元の助産婦さんは皆、命がけのお産を何度も介助されてきたことでしょう。
 その喜びと悲しみの歴史をかみしめながら、母体の安全と子の健やかな発育を願う深い祈りを込めて奉納されたに違いありません。


「お産婆さんのお墓」の子安塔


Photo_2 助産師がかつては助産婦さん、さらに古くはお産婆さんとよばれ、その経験と高い技術が、神仏の加護以上にムラの女性たちから頼られていた歴史資料を、ある寺院の墓地で見つけました。
 2010年1月、飯岡漁港に近い旭市下永井の花蔵院というお寺で、子安塔を探していると、お寺の方が「お産婆さんのお墓」というのを教えて下さいました。

 やわらかい石質の上、強い海風に風化していますが、今も襷が奉納されていて、ムラの女性たちに信仰されている子安観音です。
 右側面を見ると大正7年旧9月28日に日付と観音菩薩種子「サ」の梵字、「眞徳産王大姉?」という戒名らしき銘がありました。
 これは産婆さんの遺徳を顕彰、供養する墓塔であるとともに、お産が無事済み、子育ても順調であるように祈る子安塔でもあると思われます。

 村や町の寺子屋の師匠の遺徳を偲んで建てられる筆子塚はよく見ますが、お産婆さんに感謝する子安塔との出会いはこの時初めてでした。

 「子安婆々 分別過た名なりけり」
 江戸中期の『俳諧武玉川』五篇の句だそうです。
 神仏以上に頼られたお産婆さん、思わず「子安婆々」とお呼びしたくなる存在ですが、ちょっとそれはオーバーかな?というためらいを、ツイッター風に詠んでみたのでしょう。
 でも、「眞徳産王大姉」さんのように、慕われるお産婆さんは「子安婆々」とお呼びしてよいのかも・・・。


お産の名医を顕彰する子安観音碑


 1850_3_3 東庄町夏目の禅定院に、珍しい石碑があります。
 『東総の石仏』(服部重蔵、昭和61年)に写真が載っている子安観音碑で、上部には、蓮の花を持ち雲に乗って来迎する聖観音像が、下半分には、子供を抱いた婦人像が浮彫りされています。

 2010年12月、現地へ行ってみると、残念ながらカビやコケが増殖して、本の写真のように鮮明ではありませんが、細密な図柄が丁寧に彫られ、右側面には「嘉永三戌十月吉日」(1850)、「世話人」として「藤蔵」ほか3名の名前が銘記されていました。
     
 『東総の石仏』のキャプションによれば、「東庄町夏目には現在も和田医院があるが、この家は代々医家で、五代位前の医者は産科の名人であった。そのため数多くの女達が救われたという。その徳を称えて助けられた人達が子安観音として祀ったのがこの碑だといわれている。」とのことです。

 江戸時代の産科医療は、欧米以上に高度で、中期には賀川玄悦が活躍、後期には水原三折により嘉永2年(1849)に『醇生庵産育全書』全12巻を刊行されていますから、千葉県を含め各地にお産の名医が存在していてもおかしくないわけで、お産婆さんの手に負えない難産は、医師に頼ることもあったのでしょう。
 その名医の徳をたたえる碑が子安観音碑の姿をとることに、地域の生活実感と民俗信仰の深さが感じられます。

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1924_13 <蛇足>

 冒頭に紹介した香取市竜谷の円珠院の助産婦奉納の子安像が、たぶんモデルにしたと思われる大正期の子安観音像を見つけました。

 場所は小見川377の善光寺境内。
 最近の墓地整理によって、せまい覆い屋の中に「収容」された石仏十数体があります。
 その中に、大正13年(1924)8月銘のひときわ美しい子安観音像が・・。

 宝冠や子供のリアルな動きなど、円珠院像がこの像を模していることは明らかでしょう。
 前後左右、まったく隙間がないので、像全体を写すことができなくてとても残念です。

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2010年12月11日 (土)

K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は?

101104_005
 東関東自動車道を「佐原香取」で降りてすぐ、吉原の集落があります。
 吉原は古来より信仰を集めてきた香取神宮の玄関口の村で、中世は香取社領でした。
 この吉原村の善福寺は、香取社奉仕の寺院の新福寺末で、慶長3年創建と伝えられる曹洞宗寺院だったようですが、現在そのたたずまいは墓地の中にお堂が残されたさみしい風景でした。
 その門前に舟形光背に子を抱く子安像、右上に「奉待 子安観音菩薩」と彫られた子安塔があります。
  光背の左上に15名の女性の名前が彫られていることはK-24の通りで、房総石造文化財研究会『会誌』107号で報告している米谷博氏が残念がっているよう年号が刻まれていません。
 像容でその年代がわかれば、歴史資料として価値も増すことでしょうから、私の調べた子安塔データで考えていきたいと思います。

 さてこの像の特徴は、しっかりと両手で子を支えた母像が、凛とした毅然な姿勢で正面を向いていることと、後方の天衣が大きく広がっていること、そして何より、子が合掌して祈る敬虔な姿であることです。

 17822一般に子安塔で表現される子の像容は、ほとんどが乳飲み子ですが、利根川南岸では、天明2年(1782)香取市本矢作・知足院の子安塔のように、幼児が母にいだかれて正面を向き祈る姿をとる像が現れてきます。 (⇒画像)
  このような母子ともに尊厳ある姿というのは、キリスト教の聖母子像では子が神であるイエスなのですから、きわめて当たり前の表現(*)なのですが、子安塔ではむしろ珍しいといえるでしょう
 (*母子ともに正面を向く表現は、神の母として「上智の座」に着くものという古典的な聖母子の図像に近い)

 子が合掌する子安像は、旧香取郡域(神埼町・旧佐原市・旧小見川町)では、天明2年知足院の像に続き、神埼町大貫の興福寺の天明8年(1788)像が現れます。        (右下の画像↓)
 

 17888_2天明2年知足院像の正面を向く子の下肢は、母像の右手に収まるよう軽く膝で折れて横へ傾けています。
 天明8年大貫興福寺の像は、全身を斜めに傾かせ、下肢は無理に曲げずに母像が両手で抱き、造立年月は、光背正面ではなく、蓮華座の下の台石に天明8年2月と刻まれています。
 年不明の香取市吉原の善福寺の像は、大貫の興福寺天明8年像とうりふたつの像容で、蓮華座下の台石はあたらしい石に替わってますので、造立年月はたぶん元の古い台石に記されていたことと思われます。

 この二つの子安塔の違いをしいて探すと、子供の衣の裾からのぞく足先の表現でしょうか。
 吉原善福寺の子の像は、本矢作知足院の天明2年像に似て、衣の裾断面を楕円形に見せて中の足先がかろうじて見える表現ですが、大貫の天明8年像はしっかりと足を外向きに出しています。
 幼児の着物の裾と足を彫り出した子安像の事例が少なくてどちらの表現が先か、決めるのは難しいのですが、吉原善福寺の子安塔は、本矢作知足院の天明2年像の後、大貫の興福寺天明8年像の前とするのが妥当かと思います。
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 またほとんど同じ像容の子安塔が2基ある事例は、明和元年の2月と11月印旛沼平賀の隣り合った集落で、また安永3年栄町では9月に木塚、11月にで相次いで見られますが、これらはそれぞれ、おそらく同一の工房で、ほぼ同時期に造られたのでしょう。 (⇒K-8K-17の記事参照)
 吉原の善福寺の子安塔も、大貫の興福寺の子安塔と同じ天明8年か、その前年の天明7年(1787)と推定できると思います

 この時期の子安像塔の面白さは子供のさまざまな個性的な表現にあります。
 図像として技術的な処理が試行錯誤な点も見受けられますが、品格ある幼児像を志向していることは、他の時代にはない特徴点でしょう。

 ⇒香取市大戸川禅昌寺の子安塔 寛政9年(1797

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