2008年9月29日 (月)

F-4 わたしの「貝輪=楽器」論

 先日、馬場小室山遺跡研究会のワークショップで縄文人が好んで?身につけたという「貝輪」の製作をみんなで試してみました。⇒2008夏のワークショップ〔貝輪製作実験工房〕

080810_023_2  貝輪を、ベンケイガイを使って実際に作ってみると、いくつかの疑問点とともにいろいろなことがわかってきました。
 まずは、子供でもコツがわかれば、敲き石と砥石で上手に作ることは可能ですが、運・不運による失敗例がとても多いこと。特に、「細く・丸く」を追及するほど割れやすく失敗するということです。

 精巧な土製耳飾りや漆塗りの木製装身具に比べ、貝輪は、ベンケイガイでも他の貝でも装身具としては特に美しいわけではないのに、こんなに多大な労力をかけて縄文早期から弥生時代まで連綿と作られ続け、また北海道まで運ばれて愛用されたのはなぜなのでしょう。 

 ベンケイガイやゴホウラのサトウガイの貝輪の形の特徴を他の素材に移した腕輪として、縄文時代から土製腕輪が、さらに、弥生時代から古墳時代には銅釧や鍬形石、車輪石などが作られ、威信財・宝器へと発展していきますが、ただのリングではなく、ちょっといびつな貝輪の形へのこだわりが根強いことに不思議な気がします。

 縄文人の腕輪である「貝輪」は、福岡県の山鹿貝塚で、女性が貝輪を十数個も装着して葬られていたという発掘事例があります。大珠や鹿角製の杖なども伴っているので、この女性は「特別な地位」にいたといわれていますが、本当なのでしょうか。
 また、千葉県の古作(こさく)貝塚では、蓋つきの壺型土器に大小20個の貝輪が大事にしまわれた状態で見つかっています。
 祭りや特別なイベントの際に少女たちが身につけるための共同体の財産だったのでしょうか。

 080915_052_3 製作実験で、失敗作の山の中から、無事4個の貝輪が完成しました。
 この完成品を実際に腕にはめてみようをしましたが、私の手が通ったのは、4個のうち1個のみ。 でも、10歳の女の子の腕には4個とも入りました。
 このとき気づいたことは、2個目を装着したとき、チャリンと2個の貝輪が触れ合うきれいな澄んだ音が響いたことです。
 4個とも腕に通し、リズムをとって腕を上げ下げしてもらうと、シャカシャカシャカシャカシャン、シャカシャカシャンと、よい音色が実に心地よく、これはきっと踊りの際に身につける一種の楽器だったのではと思いました。

 音としては、風鈴、または短冊の形に切った竹や木の一端をひもで縛り合わせた民俗楽器の「びんざさら」に似ています。

 「ささら」は中世の田楽踊りになどで盛んに使われ、近世には、笛や太鼓の派手な楽器にとって代わられて衰退していきますが、踊り手が慣らす楽器として「ささら踊り」や盆踊りなどに根深く残っています。
 そして「ささら」の木片が隣の木片へと次々に衝撃を伝えるとき発する「シャ」という擦過音に近い打音は、きっと貝輪をたくさん着けた腕を振りながら踊る音と共通するように感じます。
 
 ただし、「ささら」は手に持って鳴らすもの。身に着けて踊って音を出す楽器の民俗事例はそう多くはありません。
 古墳から出土する鈴釧(すずくしろ)が最後でしょうか。
 石川県和田山古墳出土の鈴釧は、貝輪の形の腕輪に9個の鈴が銅で一体に鋳造されたもの。 大陸からもたらされた金属工芸のわざが、伝統的な貝輪に融合しています。
 鈴釧にしても、銅環の複数装着にしても、そしてそのルーツの貝輪にしても、それらを身につけて踊りながら鳴らされる音は、まさに神を呼び、魔を払う神秘的な響きであったことでしょう。

 貝輪は、アクセサリーとしてだけでなく、縄文の初めから、装着して踊る際の宗教的な楽器として機能したがゆえに、楽器・装身具から宝器へとその姿を他の素材に移しながら、その形は古墳時代にいたるまで珍重されてきました。
 貝輪のもつ「楽器」=魔力の記憶は、いつしか音を失っても貝輪の形にひそかに受け継がれてきたのだと思います。

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2008年9月11日 (木)

I-13 「栗谷古墳」ってどこ? 見つかった半世紀前の調査記録

 この夏は、八千代市教育委員会が発掘していた「平戸台8号墳」調査のおっかけで、実に充実した時を過ごさせていただきました。(「追っかけられた」調査担当者のT松さんには、はなはだご迷惑をおかけしまし、ごめんなさい。)
調査過程の内容は「=姿を現した八千代市平戸台8号墳=その発掘調査と見学ルポ」をご覧ください。
 

 さて、この秋発刊する予定の八千代市郷土歴史研究会の研究機関誌『史談八千代』の原稿でこの調査速報をレポートするに当たり、平戸台8号墳の特徴である「後期群集墳・板石組合せ箱式石棺・追葬」、そして市毛勲氏の言ういわゆる「変則的古墳」(主体部が墳丘裾部にある)に関してその類例を文献で調べていくうち、「阿蘇村栗谷古墳」という文字が目に飛び込んできました。

 図書館で借りた中村恵次氏の追悼遺稿集『房総古墳論攻』に載っていた「千葉県における後期古墳―とくに群集墳の分布・内部施設被葬者について―」という1961年の論文の中に、「類例を若干あげるならば、印旛郡印旛村油作一号墳・同阿蘇村栗谷古墳・香取郡昭栄村地蔵原一号墳・・・・」と古墳名が列挙されています。

 ひとつひとつの古墳名に出典文献の註が付いていて、大川清1954「千葉縣印旛郡阿蘇村栗谷古墳」『古代』第11号とあります。そうか、そのころ八千代市は印旛郡阿蘇村だったんだ!

 実は、「保品栗谷古墳」という古墳名が、八千代市の遺跡一覧と、1979年刊『八千代市の歴史』にあり、そこには次のように書かれています。
  名称:保品栗谷古墳
  所在地:保品栗谷
  立地:台地先東北端
  形式:不明2基
  大きさ:不明
  内容:明治・大正時代に破壊され、人骨や直刀などが出土したという。その後昭和47年土取りのために消滅した。周辺は土師器の散布が多い。

 その後、八千代市史編さん委員会が編集した1991年の『八千代の歴史 資料編 原始・古代・中世』と、今年出た『八千代市の歴史 通史編 上』にも記述がなく、公式の記録から姿を消し、幻の古墳となっていました。

 『房総古墳論攻』のコピーをT松さんに渡し、「栗谷古墳の出典が載っている」とお話しすると、さっそく、この『古代』第11号のコピーを届けてくださいました。

 内容は、栗谷古墳は戦時中の開墾により封土が削られて開棺されてしまった古墳で、戦後間もなくのころの調査では、棺は蓋石3枚、左右各3枚と前後1枚の側壁、底石4枚の緑泥雲母片岩で築造した長さ約180㎝幅約65㎝の組合式石棺で、内部には長刀3口刀子3口、鉄鏃若干、玉類のほか、人骨が2人分以上検出されていました。
 また棺の位置が地表下にあることから、「封土の裾近くに位置する類例に所属するもの」と推察しています。また北西50mの位置にもう1基、封土が削られ破壊された石棺が土中にあるそうです。

 活字は旧字体で、遺物の絵もとてもレトロですが、2段組み5ページにわたる詳細な報告で、断片的にしかわからなかった栗谷古墳の姿が、平戸台8号墳の姿とともに鮮明によみがえってきました。

 また、先日『八千代市の歴史』のこの項を書かれた村田一男先生から滝口宏編『印旛手賀』復刻版の昭和26年のページのコピーをいただいていたことも思い出し、読み直してみると、11行ほどの記述ですが、栗谷で行われた石棺調査の遺物などが要領良くまとめられてあり、末尾に「本調査は、この地域としては学術調査の非常に少ない場合の一例として貴重な資料を提供するものであった」と書かれています。

 さて問題は、古墳の場所です。
 「阿蘇郵便前を約弐粁ほど北進すると、道は印旛沼の岸に出るため䑓地上から下り坂になる。坂を下りおわると、道は東へと折れて保品の部落に通じる。
 この坂を下りきったところの西側に、道路から水田をへだてて標高二〇米の䑓地の端近く二基の古墳があり、その一基が本墳である。」

 大川清氏の論文には地図がなく、上記のように行き方が丁寧に記述されています。開発で道も地形も大きく変わってしまった地域ですが、10年前に八千代市郷土歴史研究会で行った古道調査のフィールドワークの経験で、たぶん東京成徳大学の前の坂を下りきった神野入口の左手台地だとわかりました。

 現在そこには老人ホーム「八千代城」がそびえ建っていて、その手前下には、偶然にも上谷・栗谷遺跡調査を行っていた八千代市遺跡調査会のプレハブが空き家のままになっています。

080910_001_3
 「八千代城」の旧地権者の方の家を、知人の八千代市郷土歴史研究会のメンバーのご紹介でお訪ねすると、「確かに八千代城敷地のやや左寄りの場所です」とお答えくださり、また「先代が調査の記念にと仏壇の下にしまってあった資料があるから」と見せてくださったのは、まさしく『古代』第11号の大川清氏の論文でした。

 ところで、現在遺跡の場所とデータを調べるためには、インターネット、特に千葉県の場合「ふさの国文化財ナビゲーション」を使っていますが、最近、奈良文化財研究所の遺跡データを非公式に利用している「遺跡ウォーカー」というすぐれものがあります。

 Googleの航空写真が出るので便利ですが、その位置は若干アバウト。(中には海の中のとんでもない場所を指す遺跡もありますので、要注意)
でも「栗谷古墳」でキーワード検索すると、詳細データとだいたいのこの場所が出ます。(でもちょっと北西に寄りすぎかな?) 重要な遺物データは入っていませんが、県文化財地図データにはちゃんと遺構だけはリストアップされていたのですね。

74s_3    1974年の航空写真と比べてみて地形の変化が大きいことに、今更ながらびっくりしてしまいます。

 平戸8号墳のおっかけで、偶然巡り合えた「阿蘇村栗谷古墳」。
 地域の小さな調査データでは、市町村合併や文化財担当係の世代交代で散逸してしまうことも多々あると思います。
 特に戦後間もなくの報告は、アブナイですね。

 今回、中村恵次氏の追悼遺稿集がきっかけで見つかった大川清氏の論文、旧家の仏壇に大切にしまわれていたことと合わせ、また滝口宏編『印旛手賀』の記事とともに、五十年近くたって今、また陽の目を見たことを喜びたいと思います。

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2008年5月19日 (月)

F-3 「おちゃわん」考

080427_009s_2 「ご飯を食べるため左手に持つものが、おちゃわん」と子供のころから言われてきた「茶碗」。
 ご飯を食べる器がなぜ「茶碗」といわれるのか、それがわかったのは、茶道(裏千家)の先生から茶器に関するうんちくを傾聴した中学のころだったでしょうか。
 人のなせる技と自然の力が微妙にミックスしたやきものの不思議な美の世界には、今も関心があります。

 先日、東京国立博物館の薬師寺展を見に行った際、「特集陳列・高麗茶碗」の展示(~2008年7月27日)をついでにのぞいてみました。

 080427_016s_2これは、「魚屋茶碗 銘さわらび」。(「さわらび通信」の名にこじつけたて撮ったわけではありませんが、)小堀政峯(1689~1761)が、箱の蓋裏に「さわらびのもえいづる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけり」 (源実朝『金槐和歌集』)と記した名品だそうで、春霞のような釉薬の淡い景色が素敵です。

 

 ところで、「おちゃわん」といううつわの世界に話を戻します。

 「白粥の 茶碗くまなし 初日影」 (内藤丈草・1662~1704・尾張犬山藩士であったが病弱のため致仕し僧侶になる)

 茶器の「茶碗」がご飯を食べる器として転用されて、陶磁器の「お茶碗」でご飯を食べるようになったのは、江戸ではいつ頃のことでしょうか。

 高原町(台東区寿町二丁目)の地名のいわれに「此地承応二年(1653)旧幕府茶碗用達人高原平兵衛ト云者ノ賜地トナリ高原屋敷ト唱ヘ来タリヲ明治二年町名トス」 (東京府志料)
 随見屋鋪(中央区新川一丁目)のいわれに「同所新川一の橋の北詰、塩町の辺、その旧地なりといへり。このところに瀬戸物屋多く住せり。ゆゑに、茶碗鉢店とも号く。あるいは、随見長屋ともよべり。」 (河村瑞賢、1617~1699。『江戸名所図会』)
とあり、そのころ江戸では陶磁器が流通しはじめていたと思われます。

 それまでは、弥生時代以来、飯椀、つまり木のお椀でご飯を食べていたのでしょう。
 (Wordの漢字変換もよくできていて、「飯」と「茶」のわんの字はちゃんと書き分けている!)

 縄文時代以来、漆器を含む木の器が日本の食文化を代表する食器であったはず。 現代も正式な本膳などは漆器に限っていますし、江戸時代の大奥でも陶磁器のお茶碗は、夜だけでの「お夜食茶碗」であったとか。
 「瀬戸物」(関西では「唐津もの」)が民間でも使用され始めたのは、さらに寛政以降のことらしいです。 (大河ドラマの関連で読んでいる『天璋院篤姫』徳永和喜著にそう書いてあった)

 080202_027s「晴れの日」用の椀は、壺・平・汁・飯の四つの蓋つき椀「八十椀」 (蓋付で8点だから「八重椀」というのは間違いか?)が基本で、民俗事例として20客揃いの八十椀を各講中で共有する「貸椀制度」がありました。 (『民具研究ハンドブック』S60・雄山閣出版)

 明治以降、山林が入会から国有になって伐採が不自由になり、木地師が定住して農家に転じてしまうと、木器の生産は急に減り、代わって陶磁器の生産がふえて日常生活にゆきわたります。 (『日本の生活文化財』S40・第一法規出版)
  どの家でも、お茶碗でご飯を食べるようになったのはそのころ。また木器にかわるちょっとぜいたくでプライベートなお茶碗は、また個人によって使い分ける銘々器の始まりでもあったと思います。

 080202_056s江戸の足軽屋敷などの発掘調査現場では、お茶碗を含む多量の陶磁器が考古資料として出土します。
 木器より残りやすいということもありますが、江戸では少々余裕のある家では、美しく衛生的な「せともの」が元禄時代から、食膳をにぎやかなものにしていたことでしょう。

⇒右のふたつの画像は、「御先手組」屋敷跡 東大追分学寮跡発掘調査見学会 で撮影(2008.2.2)した出土陶磁器です。

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2008年3月23日 (日)

I-12 国史跡・下総小金中野牧跡の今後に注目

080322_028s  昨日(2008.3.22)、鎌ヶ谷市での下総小金中野牧跡国史跡指定記念のシンポジウムと現地見学会のお知らせをいただいたので、八千代市郷土歴史研究会のメンバーと誘い合わせて参加してきました。
 天候にも恵まれ、午前中の現地見学会は90名近くの参加があり、フキノトウやヒガン桜も咲いている中野牧「捕込」跡を歩き、その遺跡の持つ歴史や植物観察の見方を解説していただきました。

 下総小金中野牧跡は、江戸幕府が軍馬供給をまかなうため慶長年間に設置した小金牧の一つの中野牧の遺跡です。
 080322_061s原野に放し飼いされた野馬を捕獲選別する施設である「捕込」(とっこめ)や、野馬が牧外に逃走するのを防ぐための「野馬土手」(のまどて)が、昨年、牧跡として全国でも初めて国指定史跡になりました。 詳しくは⇒Wikipedia -小金牧

 中野牧捕込跡は、高い土手で区切られた3つの区画からなり、その残された姿は一見、中世城郭跡に似ていました。

 午後からはその国指定一周年を記念して、『野馬のいた風景~地域に愛される史跡を目指して~』と題したシンポジウムが開かれました。

080322_088s  このシンポジウムを通して感じたことは、遺跡の保存と活用を考える上で、この中野牧跡の国史跡への過程に学ぶことが多いということです。
 まず第一に、都市計画道路の用地であったこの遺跡の文化的・歴史的価値を所有者の方々が理解し、道路計画を変更させ、1967年千葉県の文化財に指定、そして、開発ラッシュの時代をくぐりぬけ、ようやく保護の対象となった経過です。
 第二に、こうした現地説明会や展示会、シンポジウムを重ねて、積極的に遺跡の持つ価値や活用法をともに考え、文字通り「地域に愛される史跡を目指して」鎌ヶ谷市の職員と市民ボランティアが積極的に活動している姿です。

 八千代市にも下野牧の野馬土手があちこちにあったのですが、今は大和田新田と船橋市の境に低い土手がかろうじて残っているだけです。
 鎌ヶ谷市には初富小学校前に桜並木の土手が残っていて、こちらも捕込と一緒に国指定史跡になりましたが、住宅街と畑の混在する台地のあちこちにじゃまな?土手がなぜあるのか、住民にとってこの不思議な風景が、こうした活動を通じ、その謎が解き明かされ、残された貴重な自然と文化遺産に愛着を持つ存在となりつつある、そんな予感を感じました。

080322_037s 遺跡が保護されたからといって、ただのやぶ山の状態で放置することは、治安や生活環境の問題がおこりますし、第一にもったいない。残された捕込の跡を、「薬草の丘や、ポニー牧場 にしたら」という提案もシンポジウムでされましたが、遺跡の活用は自治体と 住民にとって大きな宿題でもあると思います。
 佐倉市の井野長割遺跡や柏市の松ヶ崎城跡、そしてさいたま市の馬場小室山遺跡。
 遺跡の活用という宿題は、みんなで考えることに意味があると思いませんか。

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2008年2月11日 (月)

Y13 弥生のお鍋と上手なご飯の炊き方

 さいたま市馬場小室山の縄文遺跡や八千代市栗谷の弥生遺跡に関わって3年半。
考古学のプロ方々に土器の見方、それもかなりマニアックな土器型式と編年を手ほどきいただき、土器を学ぶことの面白さにはまってしまった昨今ですが、素人の私の目から土器を見る時の関心は、まずは文様を含む「うつわ」としての見た目と機能とでしょう。
 大正のころの「民芸運動」、すなわち『日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出す』という視点に通じるかもしれませんが、やはり「使われてこそ!のうつわの美」を感じたいと思います。

 そう思っていた昨年5月、考古学協会のポスター発表での以下の3点の一連の展示が興味深く、発表者の小林正史さんにマンツーマンで詳しく説明していただきました。

080210t_013 「関東地方の弥生中・後期深鍋の作り分けと使い分け」 
「縄文深鍋のスス・コゲからみた調理方法-胴下部コゲの形成過程を中心に-」 
「スス・コゲからみた弥生深鍋による調理方法-側面加熱痕を中心に-」 

 「甕」といっている弥生土器は、やはりご飯やおかずを炊くお鍋だったのだというすごく当り前のシンプルな定義、そして、東南アジア民族の事例からこの土器でふっくらしたご飯を炊く方法を推定していることにちょっと感動し、いつかまたこの研究の続きをお聞きしたいと思っていたら、千葉県中央博物館でこのテーマの展示「弥生時代の鍋-その作り方と使い方-」と、庄田慎矢さん・小林正史さん・渡辺修一の講演会があり、やちくりけん(八千代栗谷遺跡研究会)のメンバーと誘い合わせ、行ってきました。

 弥生中期後期の深鍋の徹底した観察による黒斑や煤・焦げの付き方の分析や実験から、土器の焼き方、おかずを煮たのか、ご飯を炊いたのか、またどうやってご飯をおいしく炊いたのかという研究から、次のようなことが今わかってきたそうです。

1. 縄文土器は開放型野焼きで、西日本の弥生土器は弥生時代のはじめから覆い型野焼きで造られていますが、南関東の弥生土器は、中期は開放型野焼き。 やがて後期のころは覆い型野焼きが採用されますが、壷は覆い焼き、鍋は開放型というのもあるそう。

2. 深鍋は、3~4リットルを境に小さ目はおかず用、大き目は炊飯用の作り分けがなされたらしい。

3. 弥生時代中期末より側面加熱痕をもつ深鍋が出現、現代東南アジアの民族調査事例から、炊飯の終わりに蒸らし調理した痕と考えられることから、おかゆやおこわではなく、今私たちや炊飯釜で炊くようなふっくらした御飯を炊いて食べていたらしいとのこと。

 なるほどね~。
 ところで、ご飯の炊き方。私は所帯を持った時から電気炊飯器に頼りっぱなしで、はずかしいことにお鍋で炊いたことがないのですが、母は、「電気じゃおいしくない」と、ガスコンロと厚手の文化鍋で炊いています。

 あらためて、「ご飯の炊き方」をネット検索してみると、それぞれノウハウがあるのですが、やはり通は、深めの土鍋に限るらしい。→ 「土鍋奉行」 
 吹きこぼれとコゲができるのが長所であり、欠点らしく、また土鍋の底は釉薬を施していないので、最初はおかゆや野菜を煮て、目止めをすることがコツとか。
 また、ご飯を炊くために必須なのは「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じわじわ時に火を引いて、赤子泣いても蓋取るな」の蓋!
 そして、多少は吹きこぼれてもよいらいしいけど、できれば、首のくびれた文化鍋のあの形がベター。

 そう、煤で真っ黒になっているけれど、おらが村の栗谷遺跡のA080-5の栗谷式のお鍋 、これこそまさしくご飯を炊くために最適のお鍋でしょう。(画像の真ん中の土器)

 それに蓋だってちゃんとこのおうちから出土しています。
 一度、このお鍋で炊いたご飯が食べてみたいですね。

Kuriyadoki

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2007年12月29日 (土)

F-2 中の山古墳(さきたま古墳群)出土の須恵質埴輪壺について

071202_129  12月8日のさきたま古墳群の奥の山古墳現地見学会の際、解説くださった若松良一先生に、歩きながら隣接する中の山古墳から出土した「埴輪壺」について興味深いお話を耳にしました。
 それは、通常の円筒埴輪ではなく、長い胴をした須恵器の壷で、さきたま史跡の博物館に常設展示されているとのこと。
 最近、弥生時代の生活用の壷が古墳の埴輪へと姿を変えることに興味を持っていましたので、耳をダンボのようにしてお聴きし、現地説明会が終わってから展示室で、じっくり拝見、さらに学習室で調査報告書の解説のページをコピーしていただきました。

 中の山古墳は墳丘長79m、剣菱形の二重の周濠を持ち、かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから別名、唐櫃山(かろうとやま)古墳と呼ばれている前方後円墳です。071208t_041

 若松先生の考察によれば、この古墳から出土した須恵質の壺は底部を焼成前に穴を開けてあり、最低21個体、また須恵質の朝顔形円筒埴輪7個体が、周堀に転落した状態で確認され、本来は円筒埴輪のように墳丘上や中堤に廻らされていたと推定されています。
 ただし、この灰色をした長胴壷は、古墳前期の埴輪壺や底部を穿孔した土師器とは時間的な隔たりが大きく、平底を持つことから別系統で、須恵器の技法によって造られ埴輪的な性格を持っていて「須恵質埴輪壺」の名を与えたそうです。
 系譜としては、百済系の平底壺を大型に製作し、底部を穿孔して仮器化したものという見方を示されておられます。

 その後、エックス線解析した結果、約30キロ離れた寄居町の末野遺跡第3号窯で焼いたものであることが判明。中の山古墳は埴輪が一般に置かれなくなる6世紀末から7世紀初めの築造と推定されることから、時代的にこの埴輪壺は最後の埴輪といえるでしょう。
 この日、口頭では、埴輪の風習が朝鮮半島に伝播し当地で須恵質に変容し、それが百済滅亡など半島情勢の急変による人の移動にともなって、逆輸入された可能性も示唆されておられました。
 壺型&器台型埴輪から形象埴輪へ、そして時代の変遷でいったん廃れ、またその終末期に埼玉の地で、姿を変えて埴輪壺として一時的に復活する現象は面白いですね。

 なお、桃崎祐輔氏の「笊内37号横穴墓出土馬具から復元される馬装について」という報告で、大分県日田市の天満天満2号墳では、埼玉中の山古墳のものと類似する須恵器埴輪壺も出土していると追記されています。

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2007年11月20日 (火)

J-4 ヲサル山遺跡の注口舟形土器の不思議

S  今年も、八千代市郷土歴史研究会の「ふるさとの歴史展」と『史談八千代』32号刊行が近づいてきました。
 テーマは、昨年度に続き「大和田新田の総合研究・Ⅱ」で、私は、例年担当の民俗分野の研究に加え、今年度は「埋蔵文化財調査からみた原始・古代の大和田新田の姿」を発表します。
 実を言うと、大和田新田地区は、東葉高速鉄道の開通により八千代市でも近年の開発が一番激しいエリアで、大規模は発掘調査にともなって山積みの調査報告書が刊行されてはいるのですが、その調査成果は一般市民にもあまり知られていないようなのです。
 S_2 私にとって、考古学分野のレポートは初めてなのですが、貴重な調査報告に対し、市民自らが学ぶということを実践する良い機会だと思って、千葉県文化財センターの図書室に通い、報告書の山に挑戦してみました。
 出土遺物については実物を見たくても、ほとんどかなわなかったのですが、その中で、ヲサル山遺跡出土の注口舟形土器だけは、八千代市郷土博物館に展示されているので、許可を得て撮影することができました。
この注口舟形土器は縄文中期の阿玉台式ということですが、とても不思議な形をしています。注口土器といっても、土瓶のルーツのような後期晩期の注口土器とは違って、浅く広口で、どっしりしています。
 果実酒の上澄みを取り分けたのかしら、などとその機能を勝手に想像してみたのですが、他に類例が見いだせない珍しい形らしく、その筋の専門家にお聞きしても、文献をあさってみても、どういう土器なのかわからずに、『史談八千代』の原稿提出の締切は過ぎてしまいました。

 Photo その後、10月20日刊行されたばかりの『日本の美術』497号(縄文土器中期 土肥孝)をぺらぺらめくっていたところ、福島県只見町の水差形土器の写真が載っていて、中期の「この形態は『急須形・土瓶形』として(後晩期へと)継続していく」と書いてありました。注口舟形土器はもちろん載っていませんし、また水差形も系譜がたどれるほどの事例がなさそうなのですが、やはり筆者も「中身は麻酔作用をもたらす薬液や酒の類であったと考えている」ようです。

 さて、この水差形土器と注口舟形土器、その側面の形は水鳥に似ているとは思いませんか。
先日(10月14日)、早稲田大学での「縄紋社会をめぐるシンポジウムⅤ-縄紋社会の変動を読み解く」で、高橋龍三郎が「イノシシ形土製品と並んで、獣形(美々貝塚で出土)とか亀形土製品があるが、それは『トリ』の形をデフォルメしたのではないかと、設楽先生などが提案されている。 日本列島には、イノシシ族とトリ族という半族があって、そのシンボルとしてのイノシシとトリの土製品が残された」という、面白いお話をおうかがいしました。
 S 酒を酌み交わすような儀式や祭りで使ったとしたら、そこには「半族」のシンボルがあってもよさそうと思うのですが、いかがでしょう。

 (写真は真脇遺跡の鳥形突起付土器 『日本の美術』497号

 このブログを見てくださっている方で、中期の浅い注口土器の事例などをご存知でしたら、ぜひご教示いただきたく思います。
 そして、11月24-25日、ふるさとの歴史展にも足をお運びいただければ幸いです。

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2007年10月28日 (日)

F-1 長い頸の「壺G」の謎

071027_084_5   先日、国立歴史民俗博物館で企画展「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」を見てきました。
 その中で、注目したのは、最後のほうに展示されていた「壺G」という地味な須恵器です。
 壺Gは8世紀末から9世紀初頭に静岡県の花坂島橋窯と助宗窯で生産された長頸壺のことで、企画の主旨としては、「特異な形式をもつ壺Gの移動に代表される物流の進展」を示し、長岡京とそのころの東北支配の拠点地と東日本で多く出土していることを強調していました。
 私がとても興味をもったのは、武蔵国府などのほか、佐倉市や酒々井町と並んで、八千代市の村上込の内遺跡など身近な古代集落からも出土した壺Gの展示、そして「壺G」と呼ばれる不思議な名前と、展示プロジェクトの一員の山中章氏の図録解説にあった「堅魚煮汁容器説・水筒説・徳利説・花瓶(ケビョウ)説など諸説あって定まらない」というその用途の謎でした。
 私は花瓶説が一番しっくりするように感じられましたが、山中氏の解説では「自立しにくい製品が多く、ぶら下げて使用したと考えられる」とのこと。(実際に見てみるとそんなことはないと思うけど・・)

 そして、壺Gの本場、静岡県に行くことでもあったら気にとめて見てみようと思っていた矢先、偶然にも壺Gの研究をされている佐野五十三氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所)に実物を見せていただきながらお話を聞く機会に巡りあいました。

071027_083  まず「壺G」という名は、奈良文化財研究所が壺Aからアルファベット順につけたちょっと珍しい須恵器壺の一つだということ。(なあ~だ。そうだったのか)
 形は太型から中細~細型まで、ちょっとだけ型式変化するようですが、いずれも高さ20㎝位の細長い形で頸が長く、堅牢で優雅な形だが作りは雑のようです。
 分布は、平城・長岡・平安京の旧都から東海・関東に多く分布し、東北の数か所の城や柵でも見つかっています。
 わが八千代市では、村上込の内遺跡のほか、井戸向、北海道遺跡など萱田の集落から出土しています。

 さてその用途ですが、佐野五十三氏の説は仏教用具としての花瓶説。
 そういえば、私は2004年9月、古代の十一面観音像に惹かれて、滋賀県や若狭の観音霊場を巡りたずねました。その時拝観した渡岸寺十一面観音羽賀寺の十一面観音の持つ花瓶が印象的でしたので、仏像の持つ花瓶に着目した佐野さんの説にはとても納得しています。

 佐野さんは千葉県袖ヶ浦市の遠寺原遺跡、群馬県十三宝遺跡のなどの仏教施設遺構からの出土例から、「行基などによる仏教の東国布教」にも関連付けておられます。
 そういえば、八千代市の萱田遺跡群では瓦塔や奈良三彩の小壷や小金銅仏、そして「寺」「仏」の墨書土器など仏教関連の遺物も多く出土しています。
 壺Gに花一輪添えて仏前に供えていた村の人々。寺といってもささやかなお堂だったかもしれませんが、少しばかり古代の村の姿を豊かに想像させてくれる一品ですね。

 さらに壺Gについては、なぜ産地限定で短命だったのか、東日本に分布が偏るのかなど、謎が残るようですが、今後の検討に期待しましょう。

写真は、静岡県の寺家前遺跡(上)と川合遺跡(下)出土の壺G (筆者撮影)
十一面観音像は、秘仏のため撮影禁止ですので、各自治体のHP画像に許可を得てリンクしています。

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2007年9月28日 (金)

I-11 幻?の環濠集落・田原窪遺跡

 11月24~25日の八千代市郷土歴史研究会の市民文化祭での展示発表が今年も近づいてきました。
 今年度は、ふるさとの歴史展「旧村のいま・大和田新田のすがたⅡ」として、たぶん私はその時刊行される『史談八千代』32号に書いた「民俗行事にみる旧村の伝統と新しい街・大和田新田」と「埋蔵文化財調査から見た大和田新田の原始・古代の姿」の二つのテーマを担当しそう?です。
 9410801s_2 後者は、郷土史展としてまれな考古学分野のテーマですが、過去の展示ポスターを整理していて、実は13年前、市内の遺跡の現地説明会のルポを展示したことを思い出しました。

  それは1994年10月8日に行われた田原窪遺跡の現説と、10月22日の間見穴遺跡の現説の速報ルポでした。
 いずれも佐山貝塚のある舌状台地にあるのですが、八千代市遺跡調査会で調査された田原窪遺跡は弥生中期の遺構、千葉県文化財センターで行われた間見穴遺跡は、帆立貝形や円墳からなる古墳群で、両者ともに興味深い遺構でした。
 特に、そのきれいな円弧を描く見事な環濠遺構が眼前に出現していた田原窪遺跡は、私にとっては八千代市の先史時代の遺跡に興味を持ったきっかけになった遺跡です。
 西日本で盛んに築かれた(=掘られた)環濠集落遺構ですが、関東では横浜市の大塚・歳勝土遺跡が一部保存されていて有名です。9410812s

  その環濠が八千代市市域でもみられるということは、当時の私にとって「重大事件」でした。
 その時の写真を探していたら、やっと資料と一緒に出てきました。
 まだデジカメなんて考えられない頃で、性能の悪いカメラで撮った写真は色あせていましたが、環濠も宮ノ台式の土器もその時の感動そのままに残っています。
 さっそくスキャナーで保存しておきました。

9410803s3_2 ところで、この田原窪遺跡ですが、発掘調査後埋め戻され、「大学町」という住宅街になってしまいました。
 緊急発掘ですからやむおえないことですが、問題は「その後」です。
 なかなか調査報告書が発行されないのでどうしたのかしらと、埋文行政にたずさわっている方にお聞きしたところ、住宅開発を行った業者が倒産してしまい、整理に必要な費用が宙に浮いてしまっているのだそうです。

 今も整理に精を出されておられる担当の方もいらっしゃるし、いくらお金がないといっても県下でも貴重な遺跡ですから、市民に情報を明らかにし、その声を市政に反映させれば善処の余地はあると思います。
  ともかく一日も早く調査の中身を見たいですね。

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2007年8月15日 (水)

R-1 浦上の「被爆マリア」によせて=戦争責任の「主語」

Dscf01042001年11月、まだ始めて間もないころの「さわらび通信」に『平和への使節=浦上の「被爆マリア」』をアップしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/5hibakuseibo.htm

1999年に長崎のキリシタン史跡を探訪した際、そしてその翌年の2000年原水爆禁止世界大会のため長崎を訪れた際に、浦上天主堂で拝見した被爆したマリア像についての思いをつづったページです。
その中で私は浦上教会の信徒さんからお聞きした言葉を、次のように書きました。

『被爆したあの日のことを浦上では、「五番崩れ」という。
「浦上四番崩れ」は明治新政府により、浦上のキリシタン信徒が村ぐるみ流罪に処せられた事件。 「四番崩れ」で壊滅し復興した町は、再び「五番崩れ」の原爆で廃墟となった。
「ここに原爆が落とされたのは、雲の切れ間にこの町が見えたというその日の天候だけが理由で、本当は他の軍都や大都会が目的だったらしいのです。 山の谷間のような地形のここでなく、広い平野の町だったら、このなん百倍もの被害が出たかもしれない。浦上は、人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町だったと思います。」と問わず語りにおっしゃられた。』

その後、「主語」と題して、わたしの記事を引用し、あえて疑問と批判を記した「Journal Hababam」というブログ見つけました。2003年の長崎原爆忌の日に書かれた記事です。
http://fikrimce.sharqi.net/journal/2003/08/0922.html

Dscf0123_2 「原爆使用については、戦争を終わらせるためだったとかなんとかもっともらしいことが言われてるんだろう。わたしはそれが正当な話かどうかは知らない。(中略)
アメリカはやっちゃいけないことをした。許されないことをした。犠牲者はほとんど一般市民だった。(中略)こんな無差別大量殺戮をやらかした国は他にない。(中略)
反米感情を煽ろうと思って言うわけじゃない。でも、この行為の主語やその意味は決してあやふやにしてはいけないと強く思う。」

この率直なご意見に私は「もっともなこと」と思いましたが、その時はあえてネットにその記事に対してのコメントを発信することは控えました。

「世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町=浦上」という言葉は、「長崎の鐘」の著者永井隆博士が被爆直後の合同葬で読まれた弔辞の趣旨でもあります。
浦上はキリスト教徒の町であり、江戸時代そして明治になっても厳しい宗教弾圧とそれゆえの理不尽な差別を負ってきたという歴史がありました。
追撃ちのように浴びせられた「キリシタン=浦上=悪者=天罰」という差別と偏見は、被爆した信徒に、立ち上がれないほどの心の痛みをさらに与えました。
博士があえて「平和のための尊い犠牲」と表現された言葉は、この絶望のふち にある被爆信徒に励ましと希望を与えるものであり、当時の過酷な社会背景をふまえることなしに、安易に語れなかったからです。

とはいえ、「Journal Hababam」で書かれているように、けっして、「主語」をあやふやにしてはならないことです。
今年6月30日の久間章生防衛相の「しょうがない」発言(「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」)は、「Journal Hababam」氏の懸念そのものでした。

私のHPの文章は、たしかに大事な「主語」を欠いていました。
2007年8月15日のこの日に、やはり言っておかなければなりません。
広島と長崎に原爆を投下したのはアメリカ軍であり、「国体護持」にこだわって終戦の判断を遅らせ、沖縄・広島・長崎の被害を拡大したのは、天皇と軍部の責任です。
まさに「戦争は人間のしわざ」(ヨハネ・パウロ2世)なのですから・・

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2007年5月26日 (土)

M-2 西アジアの遺丘(テル)の風景と最古の女神像

070526_016s

  今日(5/26)午前中は、五月祭でにぎわう東京大学へ出かけ、東大総合研究博物館で今日から開催の企画展「遺丘と女神-メソポタミア原始農村の黎明」を見てきました。 (残念ながら、会場は撮影禁止ですので、会場内の画像はありません。館の公式HPも図録もまだできていません)
 展示の主人公はシリアのテル・セクル・アル・アヘイマル遺跡から出土した約9000年前の女神の土偶。「メソポタミア地域最古の写実女性土偶。初期農耕民の信仰が分かる」のだそうです。
  070526_002s高さ約15cmぐらいで未焼成ですが、泥をクリーニングして現われた顔は、ポスターの未整備な姿とは違い、目鼻立ちくっきりの艶やかな面差し、後姿は長野県棚畑のヴィーナスさながらの丸くぷっくりしたお尻が印象的です。(6月10日まで実物を展示、以後はレプリカ)

 もうひとつこの展示で、印象深かったのは、「遺丘(テル)」の姿。
 会場のプロローグを飾るは、1956年のテル・サラサートの写真と江上波夫先生の詩でした。

 070526_004sテル・サラサートの丘に立ちて
               江上波夫

  この遺丘(テル)は村落(むら)の亡骸
 村落(むら)に生まれ 村落(むら)死し
 代代(よよ)の村落(むらむら) その亡骸を
 ここに埋め 積み重なりて
 風悲しき丘となれり

 黄泉(とこつよ)のこの村落(むら)むらの
 070526_011s萱ぶきの屋根は崩れ
 泥土の壁も空しく
 土台(つちくれ)のみ積み重なりて
 家々の骨格(ほねぐみ)を露わす

 住み人は 老いも若きも
 冷たき床に永遠(とこしえ)の沈黙(しじま)にたえ
 壁際のパン焼竃に
 火は消えて六千有年
 ティグリスの曠野に
 人知れず横たわる
 
この村落(むら)むらの亡骸

 われらいま 科学の魔杖もて
 この村落(むら)むらの亡骸に
 光と 動きと 言葉を与え
 この遺丘(テル)をして 
 現世(このよ)に 鳴動せしめんとす

 会場の真ん中にも大きな遺丘(テル)モデルと遺丘断面パネルが立体的に表現されています。
 この風景はどこかで見たはず!
 そう! 発掘調査直後の馬場小室山遺跡、そして栃木県の寺野東遺跡のジオラマ模型の姿そっくり。
 2005年10月1日馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」で、明大の阿部芳郎先生が『「環状盛土遺構」より、「遺丘集落遺跡群」』と定義したほうが良いと提起された遺丘(テル)の実像に少しでも触れることができたように感じました。
 070526_058s(ただ、遺丘モデルの裾に置かれたらくだの模型の小ささで推し量ると、その規模は十何倍も違いますが・・・)

 そのほか「メソポタミアの最古の土器」、線刻や黒と赤で彩色された紋様があざやかな「メディアとしての土器」なども、日本列島の縄文紋様の土器に思いを馳せながら、興味深く観てきました。

  総合研究博物館を出て、息子のかかわっていた文芸サークルの五月祭展示会場にちょっと寄って、午後からは、お茶の水の明治大学へ赴き、日本考古学協会の公開講演会を聴き、駅への帰り道、お茶の水クリスチャンセンター4階の聖書考古学資料館に寄ってみました。

 この資料館の開館は月曜と土曜の午後1~6時までで、そのほかの日はいつも閉まっていますが、今日はちょうど開いていて、ラッキー!
 シリアからイスラエル~エジプト~ローマの古代遺跡と遺物(ブラック・オベリスク、粘土板文書、円筒印章、壷・碗などの土器、土偶など) が展示されていて、さらに膨大な旧約聖書の背景となる西アジアの考古学資料を身近に親しむことができました。 (ここも撮影禁止です)
 解き明かされる最古の人類の歴史、考古学協会の講演会も含め、その文化の源流を訪ねる一日でした。

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2007年4月22日 (日)

M-1 行ってきました!国立東京博物館の レオナルド・ダ・ヴィンチ展 

070421_041_2 昨日の土曜日(4/21)は、久しぶりに「遊んで」過ごしました。

行った所は国立東京博物館の 特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ-天才の実像」
今、街中も駅も、小さな博物館も教会も、レオナルドの《受胎告知》のポスターやチラシであふれているし、NHKも朝日新聞も特集報道で真っ盛り!
近頃は、ちょっと込みそうな特別展は金曜日の夜の延長開館など利用し、人ごみをかきわけてとか、行列を作って並ぶなんてめったにしないのですが、今回のダ・ヴィンチ展は、ダメモトで申し込んだ記念講演会(池上 英洋 氏「レオナルドで知るルネサンス―波乱の生涯と、激動の時代の魅力」)の入場券が抽選で当たったので、一番込みそうな土曜日の午前中から出かけることにしました。(→混雑状況

070421_022_1 有名な美術展は、駅を下りた時からなんとなく興奮するのですが 、桜の花から新緑へと景色の変わった上野の公園も、動物園を過ぎるとほとんど東博へ人が流れて行くよう。
門を入ると、本館から東洋館の端までずっと人の列、「ここが本館の「受胎告知」の40分待ちの最後尾」と案内しています。聞けば、第2会場の平成館の方は、まだそんなに並ばなくてもよいとのことなので、まずは、先にそちらの会場から見てまわりました。

フィレンツェのウフィツィ美術館で開催されていた企画展「The Mind of Leonardo 」をアレンジした特別展で、ダ・ヴィンチの「手稿」を元に、彼の創造世界を解き明かす試みが、実験模型の再現やCGによる映像などでふんだんに紹介されています。

070421_032その中でも興味深かったのは「《最後の晩餐》における心の動き」の映像。キリストへの裏切りが告げられると使徒たちがそれぞれ個性的な反応を示す、その反応を劇的なイメージでひとつの作品に描いていることをCGで表現しています。

もう一つは「調和のとれた動き、プログラムされた動き」の例として、3つの連続した動きを調和させた作品《聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ》の紹介。一枚の絵の中に、幼子イエスの身を投げかけるようなしぐさ(後の受難の予見)、母マリアの思わず抱き戻そうとする動き、そしてマリアの母アンナが天を指し示しイエスの犠牲が神の意思によるものとマリアに気づかせる動作が描かれています。

遠近法や光と影の使い方などの技術を駆使して三次元の立体像を二次元に表現することの難しさもさることながら、一瞬をとらえた絵の中に動きと物語性を持たせるなんて本当にすごいことだと、ただただ感心してしまいました。
時系列的な物語性の表現としては、「信貴山縁起」など何枚かの絵に描き分ける絵巻のような表現形態もあるのでしょうが、人の能力の限界を超越したレオナルド・ダ・ヴィンチの才能に敬服しました。

池上氏の記念講演では、ルネッサンス当時の戦国社会、ダ・ヴィンチ家の生活や系譜(男女の歳の差のある婚姻、婚外子レオナルドの処遇、産褥死の多さ)などの歴史考証も興味深かったのですが、レオナルドの科学の探求について、解剖などのあった当時は抵抗もあった試みもあえて行ったことの背景には、被造物に働く神の業の法則をその中に見出そうとした彼の信念があったと述べられたことが印象的でした。

さて、講演会も終わった3時過ぎ、30分待ちぐらいになった「受胎告知」の行列の後に並び、本館特別5室へ向かいました。
ポスターやカードで見慣れていた「名画」、やはり本物はさすがですね。
ニスの除去などの修復でよみがえったというこの絵の美しいこと! 
油絵とは思えないほどの精密さと、大胆で奥行きとひろがりのある構図。
でも、列の中で先へ進んで外に出なければならず、うっとりしている間もありません。

また、平成館に戻り、「伝」レオナルド・ダ・ヴィンチ作という《少年キリスト像》などを見たり、休んだりして、午後6時の閉館間際、また本館特別5室へ。このときは最後尾でゆっくり見ることができました。
マリアの美しい表情も、天使の羽も、衣の量感も、背景の山河もすばらしい!の一言ですが、間近で見た地面を覆う草花。緑色ではなく、漆のような黒褐色の地色に、薄い色の葉の線、そして白・青・紫色の可憐な花が描かれています。
この草花を見たとき、思い出したのは、一年前、東京国立近代美術館で開かれた「生誕120年 藤田嗣治展」でのある絵でした。
1枚は《アッツ島玉砕》、もう1枚は《十字架降下》、その暗い色彩の地面にもわずかに草花が描かれていました。また《優美神》の作品では、草花がテーマではないかと思えるほど、丹念に描いています。
晩年レオナードの洗礼名をつけた藤田嗣治は、この《受胎告知》の草花に思うところがあったのでしょうか。
その頃の修復前のこの絵では、地面の草花ももっと暗かったことでしょう。
藤田嗣治は、このめだたないこの草花になにか心引かれていたのではないかと、思い巡らしました。

ミーハーといわれればそのとおりですが、みんなが見たくなるものは見てみなきゃと、私も行列の一員になった話題の展覧会。
4月21日だけで来場者数が1万数千人だったようです。

そういえば、小学生の頃(1959年)、この東博で「正倉院展」を見ました。
高校教師だという友人の父親に、一般より優遇された高校生の団体の列に入れてもらったのですが、それでも一時間以上は並びました。
その時見た鳥毛立女屏風や螺鈿の五絃琵琶、白瑠璃碗などは、その時受けた国際的な古代日本の印象とともに、今でも鮮やかに覚えています。

070421_046並んだということでは、2002年春に行われた巨勢山古墳群の條ウル神古墳現地見学会がすごかったですね。
このときの人出は1万人とか。

楽しかったきのう一日、夕暮れの上野公園を歩きながら、今度はぜひ、ウフィツィ美術館でダヴィンチやラファエロの作品に接してみたいと思いました。

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2007年2月10日 (土)

S-12 弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑、そして発見地点のなぞにせまる

弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑

 2月3日、八千代栗谷遺跡研究会の皆さんと、本郷から東大構内、そして弥生土器の発見ゆかりの遺跡を訪ねました。

 文京ふるさと歴史館と「発掘ゆかりの地」碑を訪ねるとともに、武蔵野台地の東縁で沖積低地との接点にある坂の町を足で歩き、弥生文化の背景となった文京区本郷の地形を体験しようという企画です。 (→やちくりけんブログ)

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたことは、日本先史時代研究史上、あまりにも有名なことです。

070203_111s  司馬遼太郎氏は「街道を行く」で、根津駅から弥生坂をのぼった向が岡近辺について次のように記述されています。

『 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治二年(1869)政府に収用され、それでも名無しだった。
 明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、弥生をとった。向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時代には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。』

 この碑の詞書の続きは
「やよひ十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ
 名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」。

 この歌碑がなかったら・・、この「向岡記」碑が弥生(3月)に建てられなかったら・・、碑文が誉めているのは桜の美しい向ヶ岡の地であって、「弥生」はただ記されたそのときでしかないのに、この碑文の建立月にこだわって町の名をつけなかったなら・・、稲作と金属器の「弥生時代」という時代区分は、いったいなんとよばれたのでしょう。
 「縄文」に対する無紋土器、略して「無文」(時代)なんていったらイメージが悪いので、単純に「向ヶ岡」、明治らしく漢文調では「向陵」(時代)だったのでしょうか。

 この見学会の企画に先立って年末に下見に行ったときは、日の暮れるのも早く、東大工学部浅野キャンパスをうろうろ歩き回っても、この碑は探せませんでしたので、2月3日、文京ふるさと歴史館の加藤学芸員にご案内していただき、この碑を校舎の狭い間に伐採した不用の刈り枝に覆われた状態で見つけたときは、感慨深いものがありました。Yayoi_1

   町の名となるほどですから、幕末から明治のころは、きっと拓本を採ったりする文人たちにもてはやされたことでしょう。
 自然石の風雅な石碑ですが、今は酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めません。でも、かろうじて「弥よひ」の文字(→画像)はわかります。

 加藤氏は、「文化財として覆い屋根をつけるなど、東大さんにも、もっと大事にしてほしいですね」と嘆息されていましたが、私も同感。近世・近代の文化を伝える文化財として、赤門並に扱ってしかるべきだと思いました。

弥生の壷の発見地点のなぞにせまる

 さて、有坂・坪井氏らによる弥生の壷の発見地点は、どこなのでしょう。
 坪井氏の報告や有坂氏の懐旧談にはあいまいな記載しかない上、その後の都市化が進む中で遺跡の位置は判然としなくなりました。

昭和 61年(1986)向ヶ丘弥生町会有志が、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という記念碑を建てましたが、「ゆかり」と刻まざるをえなかったのは、発掘地点が謎とされていたからです。

 070203_113s_1推定地としては挙げられてきたのは、
(1)東京大学農学部の東外側、
(2)東京大学農学部と工学部の境(「ゆかりの碑」付近)、
(3)根津小学校の校庭裏の崖上、そして
(4)東大工学部浅野キャンパス内の弥生 2丁目遺跡です。

 『古代学研究』15号-2001年6月で、上野武氏は『「最初の弥生土器」発見の真相-発見者有坂鉊蔵の嘘-』と題して、これまでの発掘成果や、有坂氏の回顧録の記述を詳しく分析し、最初に有坂少年が発見したのは(4)付近で、壷を見せた翌日に同行した東大理学部生坪井・白井両氏が(3)地点と間違えたことに話をあわせ、「正確な場所はわからない」と嘘を通したと結論づけています。

 また、2007年1月12日の読売新聞では、推定地は農学部内の生命科学総合研究棟付近とする原祐一氏の説を紹介しています。 工学部内は当時、射的場で警視庁用地なので気軽に発掘できない。現在の農学部内は、東京府の精神科病院用地で立ち入りは可というのが主な理由です。

 私は、上野氏の「有坂の嘘」説(本当は工学部内)と、原氏の新説(農学部内)の理由を読んで、次のように考えました。

 有坂氏が『「独占の宝庫」として秘密にしたかった(第一の嘘)。』『第一の嘘がばれることをおそれ「遺跡の正確な場所はわかりません」と嘘をついた(第二の嘘)』というのが上野氏の説ですが、私は、考古少年だった有坂氏は、本当は入場を禁じられた射的場の奥に入り、東側の崖際の(4)地点で壷を発掘し、坪井・白井氏に見せたところ、年長の両氏は、不法侵入の疑いをかけられるのをおそれ、「旧向が岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」(坪井・談)と射的場からの方向をごまかして話し、有坂氏は沈黙、晩年になって坪井氏と同様な見解を述べたというのが真相で、自然な流れだと思いました。
 ようするに、射的場不法侵入の証拠を隠すため、弥生二丁目遺跡付近である本当の発見地をあいまいにしたというのが私の仮説です。

参考HP :東京大学総合研究資料館 石器・土器・金属器(日本)5 壷形土器(重文指定)
東京大学埋蔵文化財調査室:本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

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2007年1月20日 (土)

T-5 緑なす公津原にのこる古墳は 人びとの生きた証

 1月13日の明治大学古代学研究所公開研究会「古代印波シンポジウム」は、220名という参加者で大変な盛況で、150部の予稿レジメはすぐになくなり、お手伝いの院生さんは一日中レジメの増刷作業に追われていたそうです。
 地域限定超ローカルなテーマを、東京のど真ん中で聞くというのも、私にとって不思議な感覚でしたが、私たちの地元の歴史が考古学と文献史学のコラボレーションで明らかにされていく醍醐味をたっぷりと味あわせてくださった関係者の皆様に感謝です。

 印旛沼の北東部は、『国造本紀』のいう「印波国造」の勢力下にあり、その印波の地域には、東部(成田市)の公津原古墳群と、西部(栄町)の竜角寺古墳群の二大古墳群があります。
 今回の「古代印波シンポジウム」での白井久美子さんのお話しでは、公津原古墳群は6世紀、竜角寺古墳群は7世紀が中心の古墳や集落遺跡が多く、川尻秋生さんなどの発表によれば、7世紀後半になると「丈部(はせつかべ)」と「大生部(壬生)」などの氏族が共存していた印波国造の支配領域は、もともとの印波国造の本拠の印波評(郡)と、大生部直が急速に勢力を拡大した埴生評(郡)との2つの評(郡)に分かれ、その後(8世紀)、この勢力は、八千代市や印西市方面の開発に向かっていったことが、この地域の墨書土器などからたどれるとのことです。

 ところで、このシンポジウムのテーマの舞台になったのは、主に竜角寺古墳群と公津原古墳群。どちらも道のすいている印旛村経由で行くと、勝田台のわが家から車