2011年10月28日 (金)

S-13  瞽女さん奉納の手水石と、その銘を語る2基の石碑

 印西市別所地蔵寺の手水石と石碑

 111025_0022昨年(2010年)の早春、子安塔群を調べに、印西市別所の金龍山地蔵寺へ行く機会がありました。
 「別所の獅子舞」で有名な地蔵寺は、JR成田線木下駅と北総鉄道の印西牧の原駅の間の中ほど、古いムラのたたずまいの中にあり、仁王門奥に県指定文化財の木造地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂、その右のやや奥に熊野神社の社殿が並び建っています。
 子安像塔は安政4年から大正5年まで5基、如意輪観音像の十九夜塔は寛文9年(1668)と元禄7年(1694)の2基あり、女人講が盛んであったことがしのばれます。

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 さてこれらの石仏を見てから、仁王門を出てところで、手水舎の傍らの2基の新しい石碑が目を引きました。

 「御寶前」と大きく記された手水石、その右側の石碑には「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」というメッセージと旅姿の瞽女さんの絵が刻まれています。
 2000年7月7日に個人(女性名)が建立されたものです。

 左側の石碑は「瞽女奉納手水石・御寶前」と題して、手水石とこれを奉納した瞽女についての解説と、手水石刻まれた銘文が、わかりやすい文章と文字で記されて、裏にはこの石碑を奉納した住職と檀家総代の4名の名前と2000年5月の建立日があります。
 

 111025_0142そして、覆い屋の中の手水石は、今も使用できるようきちんと整備されていました。

手水石の銘文
(正面) 御寶前 

(右面) 草深村 香取平左エ門
     発作村 越川 五平治
     木下宿 吉岡七良左エ門
    
100209_0682_2 常州鹿島 瞽女 ヒテ
     布鎌押付 瞽女 キヰ

 

(左面) 布鎌惣村々 世話人 與兵衛
         同   弥兵衛
         同   六兵衛
     龍腹寺村
     宝田村

(裏面) 願以此功徳 普及於一切 
     我等與衆生 皆共成佛道
     享和三癸亥歳
    
111025_0182 仲秋吉日 
     当村願主 瞽女キヨ 
          若者中 

「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑の銘文
(解説文章部分)
 この手水石は、享和三年(一八〇三)、別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、惣深村、発作村、木下宿、布鎌惣村中、龍腹寺村、宝田村など近隣村々、有力者等の賛同を得て奉納されたものである。
 瞽女とは、室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女のことで、三人くらいが一組になり、祝儀歌、門付歌などをうたって歩き、夜は宿に入り「よせ」を行って人々を楽しませた。
 111025_0122_2右側面に刻まれている三人は、いずれも村名主や河岸問屋で、瞽女の遊芸に援助の手を差し伸べ、自分の家を瞽女宿として提供したものと思われる。
  
瞽女を迎えると「福が来る」として歓迎したりする地方もあったといわれ、瞽女宿では、娯楽の少なかった農山村の村人が集まって歌曲を聞いて楽しんだ。
当時の農民娯楽の風習があったことを示唆する貴重な史料である。
 

 この新しい石碑が示すように、この手水石は、享和3年(1803)別所村の瞽女キヨと若者中が願主になり、近隣の村々の有力者や2人の瞽女の賛同を得て造立した銘が入っていて、このことは、榎本正三氏が『女たちと利根川水運』(1992刊)で詳しく述べられています。
 この本によれば、キヨは寛政7年(1795)の別所村の高反別明細帳にある「瞽女壱人」であり、賛同者の2人の瞽女の常州鹿島のヒテと布鎌押付のキヰも実在したことは間違いなく、別所のキヨを頂点として瞽女仲間を形成していたと、榎本氏は推測しています。
 また、世話人筆頭の布鎌村與兵衛は栄町長門屋O家の先祖で、その証言から当家は瞽女宿で、当村出身のキヰとの関連もあったと考えられるそうです。 

 

 江戸川区内名主屋敷を訪れた瞽女

 私は近年、江戸川区の一之江名主屋敷を会場に行われる秋の夜の瞽女唄ライブに魅了され、毎年その公演を楽しみにしています。
 081005_0822_2今も文化財として残された東葛西領一之江新田の名主屋敷には、膨大な古文書が伝えられ、その中には、この屋敷が瞽女の宿となったことやその経費などが記されています。

 この屋敷を舞台に瞽女唄を演じるのは若く美しい月岡祐紀子さんで、最後に残った越州高田の瞽女さんたちとの交流を縁に、瞽女唄の伝承・発掘に取り組んでいる邦楽家です。(↑2008年10月5日名主屋敷での瞽女唄ライブの月岡さん)
 3年前初めてその唄声と三味の音に接し、特に祭文松阪という長い物語の演目には、中世的な世界に引き込まれていく力強い魅力を感じました。
 瞽女についての月岡さんのわかりやすい語りも好評で、かつての旅する瞽女の姿や門付けの様子、そしてまさに村人を前にした「夜の座」の臨場感を味あわせてくださいます。

 江戸川区を訪れた瞽女についての調査報告は、内田定夫氏の『瞽女の記録』(1983年)があり、その後2007年にジェラルド・グローマー氏による全国の瞽女唄の史料を集大成した『瞽女と瞽女唄の研究』が発刊され、もちろん江戸川区や下総の史料も掲載されています。
 ただしどの史料も、来訪した瞽女の人数とその経費を記すだけの断片的なもので、江戸川区の名主屋敷を定期的に宿にした瞽女の名や出身地は不明です。

 私は、かつてみた映像や絵のせいでしょうか、瞽女さんたちは遠く雪国の町で、親方と疑似の親子となって集団で生活し、峠を越えて列になって来訪する姿をイメージしていました。
 しかし、印西市別所の手水石の銘は、関東の村や町には、単独または少人数の瞽女がいて、自村はもとより、近隣の瞽女でネットワークを組み、徒歩よりも内海や河川の舟運を利用しての巡業が多かったのではないかと、語っています。


船橋市藤原新田を訪れた「葛西新川」の瞽女

 
そのような、近隣のフィールドで活動していたのではという視点で、もう一度グローマー氏の史料集にあたってみると、『船橋市史』史料編所収の藤原新田の「御用留」の弘化4年(1847)に「十月廿四日 一、瞽女弐人泊り 葛西新川組」と、 また嘉永7年(1854)にも「四月九日夜 一、こぜ三人 泊り 葛西組之由」とありました。

 101124_098「葛西新川組」の「新川」とは、江戸時代の初め、船堀川の流路を直線化した運河で「行徳船」が就航、農産物のほか、成田参詣の客なども運ばれるようになって、その川岸には酒を売る店や料理屋が並び賑わったといいます。
 ここにも瞽女がいたということですから、そう遠くない一之江新田の名主屋敷で座を開いたということもあったのではないかと思います。 (↑江戸川区新川の景観)

 上州と武州では遠く雪国から山越えで来訪する瞽女の姿が多かったといいますが、一方江戸湾岸や利根川沿いの村々では、船で行きかう近隣の瞽女や地元の瞽女の活動も多かったのではないでしょうか。
 印西市別所の手水石や、船橋市藤原新田の史料から、村や津、河岸のにぎわいの中に住み、地域の中でその芸を披露する瞽女の姿もイメージできるかと思います。

 「瞽女奉納手水石・御寶前」石碑には、歴史資料としてこの石造物を大事する別所村の方々の温かい心、そして「瞽女さん手水石の奉納ありがとう」と記された石碑には、瞽女さんに注がれる優しいまなざしを感じます。
 そしてこの2基の石塔に瞽女さんの姿を留め伝えてくださった別所村のみなさんにも、心から「ありがとう」と言いたいと思います。

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2011年8月24日 (水)

K-28 八千代市萱田の石造物にみる女人講成立の萌芽

 八千代市内での女人信仰に関連する石造物を調べているうち、下総に多い子安像塔についてトータルな先行研究がないことに気づき、最近は、千葉県北部をひろく回って、子安さまばかり追いかけていました。
 おかげで、近世~近代のさまざまな石造物についても浅く広くその姿が見えてきましたが、また一方で、旧村単位の一地域にスポットを当てたミクロな視点での調査も、石造物と民俗の関連を知るうえで、やはり欠かせないものです。

 一昨年から始めた八千代市萱田の女人信仰に関連する石造物の調査は、平成18年に刊行された『八千代市の歴史 近代・現代Ⅲ 石造文化財』の市内石造物一覧表の悉皆データに負うところが多いのですが、今回は、この表で省略された連名や長文の文字銘なども拓本を採ったりして、詳しくみることから始めました。
 その中で、特に興味を持ったのは、多くの村人が名を連ねている石塔のうち、男性名だけではなく、多くの女性たちが面を別にしてその名を連ねている萱田の長福寺の三層塔飯綱神社下の庚申塔でした。

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長福寺女人講石仏群 左手前:嘉永5年(1852)子安像塔、左奥:宝暦13年(1763)宝篋印塔(十九夜塔)、
                   中央:寛文9年(1669)三層塔、右手前:元禄2年(1689)十九夜塔


八千代市内の女人講が建てた石造物は、村上の正覚院にある丸彫りの如意輪観音像の十九夜塔が寛文11年(1671)銘で最古で、その背面の衣に「像立十九夜女人 念仏講衆」と刻まれていることから、寛文年間には念仏主体の十九夜講が成立していたと推定されています。
 次いで高津の観音寺の延宝2年(1674)造立の六臂の荘厳な姿の光背型如意輪観音像の十九夜塔ですが、この石塔の衣の裾と台座には「おつる おみや おまめ」など結願した女性の俗名が多数刻まれていました。 (⇒K-1 女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から)
 またその他の八千代市内の女性名連記の女人講の石塔は、前にも書きました。 (⇒K-24 女性名の石造物あれこれ(香取市吉原の子安塔ほか))

 
 1701_14_2萱田の長福寺には、米本の善福寺裏墓地の天和4年(1684)十九夜塔に次いで八千代市内で4番目に古い元禄2年(1689)の光背型の如意輪観音坐像(⇒上の画像の右)があります。
 そのほか長福寺に建てられた萱田村の十九夜塔と子安像塔には、K-24に載せたデータに加え、下記の石塔にも、女性名の連記がありました。

 ・元禄14年(1701)如意輪観音 光背型 十九夜塔 「おさわ おせん おせん おみの おたけ おたつ おたま・・・」女性計42名 (⇒右画像、右下は銘文の拓本)

 ・正徳3年(1713)如意輪観音 光背型 十九夜塔「おくめ おい□ おくめ お□せ おひ□ お古や おせん おくた おまん お志□ お□ヤ ・・・」女性計35名

 ・嘉永5年(1852)子安像 光背型 子安塔 「願主 さだ ひで かつ うめ あと せん たみ さわ もん・・・」女性計86人、および「世ハ人 金五右ヱ門 市良兵ヱ 甚右ヱ門 次良兵ヱ」

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 以上のように、八千代市内の中世から続く古い村の村上や高津では、延宝以前の1670年ごろから、十九夜講が組織されていたと推測されますが、萱田では、十九夜講成立は、元禄の1690年ごろからということになるのでしょうか。

 さてここで、それ以前の萱田の女人信仰の姿として、長福寺にある寛文9年(1669)三層塔や、延宝元年(1673)の飯綱神社下の庚申塔に刻まれた男女別の連名に注目したいと思います。

 寛文9年銘三層塔は、勢至菩薩を第2層に浮彫りした2mを超す石塔で、第1層は龕室となっています。
 Photo右面(⇒右画像)には「廿三夜講」「一結施主 女中衆」として「おつる おこう おくま」など24名の女性が、左面には「日記念仏供養」のため「定宥 □左衛門 □兵衛 長十郎」など33名の男性、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか「加左衛門」など3名の村人が名を連ねています。 


 110503_096また、延宝元年銘庚申塔(⇒右画像)は、笠付角柱型で三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面(⇒右下画像)には「およし おきく」など女性33名、左面には男性15名、表面には「定宥」と3名の男性の名があります。 

 関東の近世庚申塔は、先日発表された「東京東部庚申塔データ集成」(『文化財の保護』第43号 ⇒入手法)によれば、元和9年(1623)東京都足立区の弥陀三尊来迎図像の板碑型を初出として旧荒川流域に広がります。
 そして17世紀後半に入ると、男性の連名に交じって女性名がみられるようになり、東京都江戸川区では、寛文13年(1673)女性のみ25名で板碑型庚申塔を建立していますが、これを女人講の萌芽とみなしてもよいかと思っています。
 ま110708_08た、女性複数名プラス僧1名(建立を指導した住職か)の連記でも女人講誕生の証拠とするなら、さらにさかのぼる寛文7年(1667)銘の板碑型庚申塔が、練馬区中村の良弁塚にあります。

 
 さて萱田の寛文9年銘三層塔と延宝元年銘庚申塔ですが、ここには面を違えて男女別に銘を刻んでいることから、私は、村にはすでに女人講が形成されていて、村の有力者3名と住職が建立発起人となり、男女別のそれぞれの講が共同でこれらの石塔を建てたと判断します。

 すなわち、今回調査した萱田の事例から、下総国でも武蔵国と同じ1670年ごろ、中世からの村落寺院を中心に、「二世安楽」などを祈願する念仏を主体とするさまざまな女人講が営まれ始めたと、推測できるのではないでしょうか。

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2011年7月12日 (火)

K-27 川べりの石塔に残る「流れ灌頂」の記憶

 いつも通る八千代市新川の村上橋、その橋の西北に角型の石柱が一つ、ぽつんと立っています。
 花火大会や花見時は、その前に露店も出て、大勢の人が行きかう場所です。

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 新川沿いの平戸橋詰には、2基の日蓮宗系の題目碑、対岸には逆水の方々が建てた「南無阿弥陀仏」の称名塔があり、宗派が異なっていても、いずれも水難横死者の霊の菩提を祈る銘文が記されています。(⇒「平戸の大川施餓鬼風景」)
 平戸と同じく、日蓮宗神保領千部講の「大川施餓鬼」が行われる島田台や佐山、真木野の村々の水辺にも、明治30年代から大正にかけての同様な水難供養塔が数基あり、洪水などによる災難が近代でも深刻であったことが伺えます。1920_3

 
 このような背景とそのたたずまいから、村上橋詰の石塔も水難供養塔の一つではないかと思っていたのですが、萱田の女人信仰の石造物を調べていくうち、実はこの塔はその銘文から八千代市萱田上区の女性たちが建てた産死者の供養塔で、他の水難者供養塔とは性格が異なることがわかりました。
 この塔の碑文は風化が激しくて断片的にしか読みとれませんが、かろうじて次のような銘文が残されています。

  前面(西面)「・・・□□波羅密大慈大悲(埋没)/・・・□□萱田上區産死者万□(埋没)」
  裏面(東面)「大正九年三月吉日/萱田上区/世話人/君塚□た/長岡□た/八木谷かつ/君塚□□/外女人一同

 実は、萱田下の子安講の調査で、飯綱神社下の文字塔が現在の子安講の信仰対象となっていることを、昨年春に地元のご婦人方から知りました。19181985
 萱田下の旧集落は菅地・北海道・原口の3つの庭に分かれて、子安講もそれぞれ別に行われていました。
 今も子安講を行っているのは菅地で、毎月1回夜に飯綱神社で行い、日取りは次回の当番の都合で決めるので不定期、世間話中心で宗教的な行事ではないそうです。

 萱田下の北海道の子安講は、萱田下の公会堂で昭和四十年代までやっていましたが、今は年1回年末に「かわせがけ」をおこなうだけとのことです。
 この行事は飯綱神社下の「子安さま」にお花とお米とお水をあげて拝むのだそうですが、 この「子安さま」とは、飯綱神社の外、庚申塔群がならぶ辺田道沿いの一角の左片隅の2基の角塔婆型の石塔(⇒画像)なのです。

 18621888_5飯綱神社境内には社殿後ろに、私が子安像塔調査でよく取材対象にした文久2年(1862)と明治21年(1888)の2基の子安像塔があります。(←画像)
 

 史跡巡りをする方々にも、かなり目立った存在になっているのですが、子安講の祭祀が続けられているのは、この子安像塔ではなく、飯綱神社下の石塔であるとは、まったく意外でした。
 さらにこの「子安さま」は、もとは須久茂谷津の弁天脇の川べりにあり、そこはお産で死んだ人の供養をするところにあったというのです。

 2基の石塔の銘文です。

 手前新しい石塔(右上の画像左側 1985年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈梵字10字〉/ 檀波羅蜜大慈大悲一切衆生」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/地蔵菩薩以大慈悲若聞名號不堕黒闇」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/昭和六十年三月吉日」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無礙常瑜伽 四種曼陀各不離 /三密加持速疾顯 重々帝網名即身」1918_7_2

 奥の古い石塔(右上の画像右側 1918年銘)
  東・正面「〈キャ カ ラ バ ア〉/〈種字10字〉/檀波羅蜜大慈大悲(埋没)」
  南・左面「〈キャー カー ラー バー アー〉/ 地蔵菩薩以大慈悲若聞(埋没)」
  西・裏面「〈ケン カン ラン バン アン〉/大正七年三月 萱田村下区 子安(埋没)」
  北・右面「〈キャク カク ラク バク アク〉/ 六大無□常瑜伽四種(埋没) /三密加持速疾顯重々(埋没)」
 この碑の根元を掘ってみると裏面下部に「子安」の文字が現れ、やはり子安講が建立した石塔であることが判明しました。

 「かわせがけ」とは「川施餓鬼」のことでしょう。
 また川べりで、産死者の供養をする習俗は、民俗学では「流れ灌頂(かんじょう)」と呼ばれ、「産死者や水死者、無縁の死者を弔うために行なわれる儀礼」でした。
 「習俗として、主に産死者、あるいは女性死者全般のために広く行なわれ、小川に卒塔婆、四本竹を立てて赤い布をつけ、道行く人がそれに水を掛けるなどした。赤い色があせると、血の池地獄に堕ちた死者が救われるという。水を掛ける際に、『産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水せがき』などの唄を歌うこともあった」といいます。 (高達奈緒美氏の論文から)

 川施餓鬼の宗教儀礼が、ムラの宗派や習俗により、いつの時代から、水難横死者供養と区別して、女人講により産死者の供養が行われるようになったかは定かではありません。
 村上橋詰の石塔も、飯綱神社下の萱田村下区の大正七年碑に続いて、萱田上区の女性たちが建てた産死者供養塔であり、いわゆる水難供養碑ではないと判断しました。

Photo_2 子安像塔を追いかけて東総路を行くと、かつて流れ灌頂をしていたというところに、子安像塔が建てられ、木の塔婆が添えてある風景を目にします。(⇒旭市清滝にて)

 萱田や以前調査した高津などのお年寄りの話でよく出てきた「流れ灌頂」の習俗も、産科医療が進み、「血の池地獄」の差別的な迷信から解放された現在ではさすがに全く廃れてしまい、今は各市史や町史の民俗編や民俗辞典の記述により知識として知るだけになりました。
 その「流れ灌頂」の記憶が、萱田や吉橋花輪などに現存する百年前の石塔にも留められていることに、石造物調査の面白さを感じた次第です。

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2011年2月20日 (日)

K-26 母子の命を支える医療スタッフの力と子安塔

助産婦さん奉納のモダンな子安像塔

 Photo    
 091210_108 2009年12月、香取市竜谷の円珠院を訪ねると、江戸後期の2基と並んで、美しくモダンな子安像塔が建っていました。
 乳を吸う子供の姿勢などやや稚拙な不自然さがありますが、青く彩色された長い髪が印象的です。
 現在でも奉納されることがあるのだと思いながら、側面の銘文を見ると、「小見川町竜谷 伊藤か祢 助産婦」と刻んであります。
 年号は彫られていませんが、地元の助産婦「伊藤か祢」さんによる近年の奉納と推測されます。

 日本の2005年周産期死亡率は出生1000あたり3.3人と世界的にも周産期医療はトップレベルで、母子ともにお産で命を失う危険は過去のものになりつつありますが、地元の助産婦さんは皆、命がけのお産を何度も介助されてきたことでしょう。
 その喜びと悲しみの歴史をかみしめながら、母体の安全と子の健やかな発育を願う深い祈りを込めて奉納されたに違いありません。


「お産婆さんのお墓」の子安塔


Photo_2 助産師がかつては助産婦さん、さらに古くはお産婆さんとよばれ、その経験と高い技術が、神仏の加護以上にムラの女性たちから頼られていた歴史資料を、ある寺院の墓地で見つけました。
 2010年1月、飯岡漁港に近い旭市下永井の花蔵院というお寺で、子安塔を探していると、お寺の方が「お産婆さんのお墓」というのを教えて下さいました。

 やわらかい石質の上、強い海風に風化していますが、今も襷が奉納されていて、ムラの女性たちに信仰されている子安観音です。
 右側面を見ると大正7年旧9月28日に日付と観音菩薩種子「サ」の梵字、「眞徳産王大姉?」という戒名らしき銘がありました。
 これは産婆さんの遺徳を顕彰、供養する墓塔であるとともに、お産が無事済み、子育ても順調であるように祈る子安塔でもあると思われます。

 村や町の寺子屋の師匠の遺徳を偲んで建てられる筆子塚はよく見ますが、お産婆さんに感謝する子安塔との出会いはこの時初めてでした。

 「子安婆々 分別過た名なりけり」
 江戸中期の『俳諧武玉川』五篇の句だそうです。
 神仏以上に頼られたお産婆さん、思わず「子安婆々」とお呼びしたくなる存在ですが、ちょっとそれはオーバーかな?というためらいを、ツイッター風に詠んでみたのでしょう。
 でも、「眞徳産王大姉」さんのように、慕われるお産婆さんは「子安婆々」とお呼びしてよいのかも・・・。


お産の名医を顕彰する子安観音碑


 1850_3_3 東庄町夏目の禅定院に、珍しい石碑があります。
 『東総の石仏』(服部重蔵、昭和61年)に写真が載っている子安観音碑で、上部には、蓮の花を持ち雲に乗って来迎する聖観音像が、下半分には、子供を抱いた婦人像が浮彫りされています。

 2010年12月、現地へ行ってみると、残念ながらカビやコケが増殖して、本の写真のように鮮明ではありませんが、細密な図柄が丁寧に彫られ、右側面には「嘉永三戌十月吉日」(1850)、「世話人」として「藤蔵」ほか3名の名前が銘記されていました。
     
 『東総の石仏』のキャプションによれば、「東庄町夏目には現在も和田医院があるが、この家は代々医家で、五代位前の医者は産科の名人であった。そのため数多くの女達が救われたという。その徳を称えて助けられた人達が子安観音として祀ったのがこの碑だといわれている。」とのことです。

 江戸時代の産科医療は、欧米以上に高度で、中期には賀川玄悦が活躍、後期には水原三折により嘉永2年(1849)に『醇生庵産育全書』全12巻を刊行されていますから、千葉県を含め各地にお産の名医が存在していてもおかしくないわけで、お産婆さんの手に負えない難産は、医師に頼ることもあったのでしょう。
 その名医の徳をたたえる碑が子安観音碑の姿をとることに、地域の生活実感と民俗信仰の深さが感じられます。

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1924_13 <蛇足>

 冒頭に紹介した香取市竜谷の円珠院の助産婦奉納の子安像が、たぶんモデルにしたと思われる大正期の子安観音像を見つけました。

 場所は小見川377の善光寺境内。
 最近の墓地整理によって、せまい覆い屋の中に「収容」された石仏十数体があります。
 その中に、大正13年(1924)8月銘のひときわ美しい子安観音像が・・。

 宝冠や子供のリアルな動きなど、円珠院像がこの像を模していることは明らかでしょう。
 前後左右、まったく隙間がないので、像全体を写すことができなくてとても残念です。

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2010年12月11日 (土)

K-25 合掌する子を抱く子安像塔の造立年は?

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 東関東自動車道を「佐原香取」で降りてすぐ、吉原の集落があります。
 吉原は古来より信仰を集めてきた香取神宮の玄関口の村で、中世は香取社領でした。
 この吉原村の善福寺は、香取社奉仕の寺院の新福寺末で、慶長3年創建と伝えられる曹洞宗寺院だったようですが、現在そのたたずまいは墓地の中にお堂が残されたさみしい風景でした。
 その門前に舟形光背に子を抱く子安像、右上に「奉待 子安観音菩薩」と彫られた子安塔があります。
  光背の左上に15名の女性の名前が彫られていることはK-24の通りで、房総石造文化財研究会『会誌』107号で報告している米谷博氏が残念がっているよう年号が刻まれていません。
 像容でその年代がわかれば、歴史資料として価値も増すことでしょうから、私の調べた子安塔データで考えていきたいと思います。

 さてこの像の特徴は、しっかりと両手で子を支えた母像が、凛とした毅然な姿勢で正面を向いていることと、後方の天衣が大きく広がっていること、そして何より、子が合掌して祈る敬虔な姿であることです。

 17822一般に子安塔で表現される子の像容は、ほとんどが乳飲み子ですが、利根川南岸では、天明2年(1782)香取市本矢作・知足院の子安塔のように、幼児が母にいだかれて正面を向き祈る姿をとる像が現れてきます。 (⇒画像)
  このような母子ともに尊厳ある姿というのは、キリスト教の聖母子像では子が神であるイエスなのですから、きわめて当たり前の表現(*)なのですが、子安塔ではむしろ珍しいといえるでしょう
 (*母子ともに正面を向く表現は、神の母として「上智の座」に着くものという古典的な聖母子の図像に近い)

 子が合掌する子安像は、旧香取郡域(神埼町・旧佐原市・旧小見川町)では、天明2年知足院の像に続き、神埼町大貫の興福寺の天明8年(1788)像が現れます。        (右下の画像↓)
 

 17888_2天明2年知足院像の正面を向く子の下肢は、母像の右手に収まるよう軽く膝で折れて横へ傾けています。
 天明8年大貫興福寺の像は、全身を斜めに傾かせ、下肢は無理に曲げずに母像が両手で抱き、造立年月は、光背正面ではなく、蓮華座の下の台石に天明8年2月と刻まれています。
 年不明の香取市吉原の善福寺の像は、大貫の興福寺天明8年像とうりふたつの像容で、蓮華座下の台石はあたらしい石に替わってますので、造立年月はたぶん元の古い台石に記されていたことと思われます。

 この二つの子安塔の違いをしいて探すと、子供の衣の裾からのぞく足先の表現でしょうか。
 吉原善福寺の子の像は、本矢作知足院の天明2年像に似て、衣の裾断面を楕円形に見せて中の足先がかろうじて見える表現ですが、大貫の天明8年像はしっかりと足を外向きに出しています。
 幼児の着物の裾と足を彫り出した子安像の事例が少なくてどちらの表現が先か、決めるのは難しいのですが、吉原善福寺の子安塔は、本矢作知足院の天明2年像の後、大貫の興福寺天明8年像の前とするのが妥当かと思います。
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 またほとんど同じ像容の子安塔が2基ある事例は、明和元年の2月と11月印旛沼平賀の隣り合った集落で、また安永3年栄町では9月に木塚、11月にで相次いで見られますが、これらはそれぞれ、おそらく同一の工房で、ほぼ同時期に造られたのでしょう。 (⇒K-8K-17の記事参照)
 吉原の善福寺の子安塔も、大貫の興福寺の子安塔と同じ天明8年か、その前年の天明7年(1787)と推定できると思います

 この時期の子安像塔の面白さは子供のさまざまな個性的な表現にあります。
 図像として技術的な処理が試行錯誤な点も見受けられますが、品格ある幼児像を志向していることは、他の時代にはない特徴点でしょう。

 ⇒香取市大戸川禅昌寺の子安塔 寛政9年(1797

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2010年12月 5日 (日)

K-24 女性名の石造物あれこれ(香取市吉原の子安塔ほか)

101104_012  この秋9月1日発行の房総石造文化財研究会の『会報』第107号に米谷博氏の「石造物に刻まれた女性の名前」という記事が載っていました。
 香取市吉原地区の善福寺門前に立つ子安塔、その塔に彫られた15名の女性名に注目し、「おりえ・おさん」などの呼称について、また江戸時代の村社会の実態について考察を試みられておられます。

              ⇒香取市吉原の子安塔

 私も以前から、女性名連記の石塔に興味があり、このブログでも5年前に「K-1女性名の銘を読む-高津の十九夜塔の調査から」と、「K-4 女人名の刻まれた船橋市不動院の六面石幢」の記事を書きました。

ブログで紹介した高津の十九夜塔は、如意輪観音像を浮彫りした延宝2年(1674)造立の供養塔で、衣の裾と台座の部分に50名の女性名が彫りこまれています。 
 
 このほか、明治6年までの八千代市内の十九夜・子安塔などの供養塔には、女性名の刻まれた石塔が12基あり、女性の個人名連記は、この地域で特に珍しいというものでもなさそうです。
 名前の表記の仕方は、「おまち」「おくに」など「お」を付けた通称のほか、「まち」「とめ」「そめ」など「お」を付けないもの、「ヲハツ」などカタカナ表記のもの、出家した尼と思われる「妙蓮」「春香」などの法名も見受けられました。

・延宝2年(1674 ) 高津 観音寺         如意輪観音坐像 光背型  十九夜塔    春香・おまち・・       
・元禄9年(1696) 吉橋 寺台公会堂    聖観音立像     光背型    十九夜塔   妙連・おとま・・・
・正徳5年(1715) 吉橋 高本 国蔵院   如意輪観音坐像 光背型    十九夜塔   おひめ・おたね・・
・享保元年(1716)村上 正覚院        地蔵菩薩立像 光背型     十五夜塔  おいわ・おつる・・
・享保11年(1726)村上 字立野台墓地  如意輪観音 光背型        十九夜塔  おけさ・おたね・・・
・元文元年(1736)村上 正覚院          如意輪観音 光背型         供養塔     ヲハツ・ヲトラ・・
・元文2年(1737) 村上 字浅間内墓地   如意輪観音坐像 光背型  十九夜塔  おくに・おせん・・
・元文5年(1740) 大和田新田 字庚塚   勢至菩薩立像   光背型   供養塔     おいわ・□和□・・
・文政4年(1821) 島田台 長唱寺      文字「子安大明神」角柱型  子安塔     おたけ・おきよ・・
・天保3年(1833) 大和田新田上八幡神社 子安観音坐像   光背型     子安塔     おいぬ・おりん・・
・嘉永2年(1849) 萱田町 長妙寺      鬼子母神坐像   光背型       子安塔     せき・たき・・ 
・明治4年(1871) 大和田新田 字八幡藪 如意輪観音坐像 光背型     十九夜塔   まち・とめ・・
・明治6年(1873) 勝田 円福寺        如意輪観音坐像 光背型     供養塔     おなか・おさわ・・ 1726_3

 1736 

 ↑ 元文元年(1736)村上 正覚院 供養塔   享保11年(1726)村上 立野台墓地 十九夜塔↑ 

所と造立目的を変えて、都内江戸川区の庚申塔を見てみると、下記の石塔に女性名連記があります。
 ちなみに江戸川以西では、女性だけの子安講はなく、男女ともに集う念仏講や庚申講が盛んだったようです。

・寛文5年 (1665) 上篠崎2丁目 無量寺 地蔵菩薩立像 光背型     庚申塔    (女子連名判読不明)
・寛文13年(1673) 江戸川3丁目 誠心寺 文字(願文) 板碑型   庚申塔       宗貞信女・おくに・・
・元禄10年(1697) 江戸川3丁目 誠心寺 青面金剛立像 笠付円柱型 庚申塔  おつま・貞□・・
・元禄15年(1702) 東小岩2丁目 善養寺 地蔵菩薩立像 光背型     庚申塔    おたけ・おさる・・
・享保9年 (1724)  篠崎町4丁目 商店前 青面金剛立像 駒型       庚申塔     おなつ・いぬ女・・

100512_007_2              ⇒寛文13年(1673)誠心寺 板碑型庚申塔

 K-1のコメントで下記のように書きました。
 「村の女性たちひとりひとりが現世と来世の安楽を祈願していたというそのころの時代背景が、石造物から推察できます。
 延宝2年(1674)造立の如意輪観音に先立つこれによく似た像容の十九夜塔として、佐倉市臼井台実蔵院の寛文9年(1669)の十九夜塔がありますが、なん人か男の方の名前も見られ、まだ念仏講が女性だけの講になる前の様子が伺えます。
 十九夜塔の寄進者銘を調べていくと、江戸中期になると、個人名が消え、江戸後期は子安講とその世話人として村の代表者(名主など)の名前が添えられるようになり、個人個人の信仰心での造立から、地域組織の慣習になっていくように思えます。」

 全体の傾向として江戸前期に多いとはいえ、八千代市内では、中期以降でも女性名連記の塔がありますので、100512_011女人講のあり方とその地域の特性について個別に分析する必要があるでしょう。

 さて、香取市吉原の善福寺の子安塔ですが、私も11月4日、現地へ探しに行きました。
  米谷博氏が「年号が刻まれていないのが、残念であるが、観音のしっかりした像容が残されている」と書かれているこの子安塔、その像容の特徴から造立年代にせまってみたいと思います。

               ⇒元禄10年(1697)誠心寺  笠付円柱型庚申塔

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2010年11月21日 (日)

K-23 北総の子安像塔発祥の地=酒々井町の双体道祖神

酒々井町の双体道祖神を訪ねて

 11月14日(日)は房総石造文化財研究会の石仏見学会。
 今回も町田茂先生のご案内で、酒々井町の双体道祖神を中心に、本佐倉城など千葉氏ゆかりの史跡や寺社を巡り歩いてきました。
 酒々井町には、双体道祖神が、根古谷、尾上、新堀、中川、上郷、下岩橋、柏木の7か所8基、隣接する佐倉市側の大佐倉浜宿の1基を含めると、計9基が地域的にまとまって祀られています。
 4日後の11月18日も、コースに入っていなかった上岩橋 菊賀神社の1基を見に行きましたので、以前に子安塔探索で出会った双体道祖神を含め、9基の双体道祖神を実際に見ることができました。
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        大佐倉浜宿の双体道祖神(本佐倉城址内 建立年 不明)

 これらの双体道祖神は、男女寄りそう姿の20~60cm位の比較的小さな丸彫り石像でした。
 後側の像の片手が前の像の肩にかけられ、その手を前の像の手が握っています。
 双方の方手は一本の杖を仲よく握り、後の神像の足は、一つしか見えないのが特徴です。
  神は人と異なった存在なので「異形」で表すこと、また「ドウロクジンは足が悪くて、三本脚」という伝承を表現したものなのでしょう。090330_012

 ご案内いただいた町田茂先生は「この地の道祖神は二人が一本の杖に身を託して、夫は片足の妻を労わりつつ西方浄土への道を辿って行くような、まことに陰気な姿である」との印象を、そして、不慮の死を遂げた夫婦などの比翼塚か疱瘡神のようなものだったのでは、という疑問を述べられ、「しかし現状では一般的に道祖神という説が有力である」と結論づけておられました。
 不自由な足で後ろから肩を借りて寄りそう方が女神像に見えますが、どちらが男女かははっきりしません。
 私には、労わりあう老夫婦とも、また年齢を超越した夫婦神のようにも思えます。

                                          ↑ 新堀の双体道祖神( 宝暦 8年   1758)
   

090330koyasu子安神と道祖神の関係

 一般に双体道祖神は、縁結び、夫婦和合、子授けの神様として本来の道祖神信仰が変形し、性神的要素が多分に含まれて信仰されてきたもので、長野、山梨、静岡、神奈川、群馬の五県に偏在して分布し、他の府県には例がないといわれています。
 最近の石仏ブームで、長野の道祖神を模した新しいしゃれた石仏も時折、見られますが、江戸中期に遡る双体道祖神がまとまってあるのは千葉県内でもここだけ。
 しかも旧家の氏神をとして祀る尾上を除き、ほとんどがムラの共同体の信仰祭祀対象として今も大切に祀られています。

                           ↑ 新堀の子安塔(浮彫り子安像   安永 5年   1776)       

 これらの道祖神を巡って、地図に場所をマークし、またその建立年代や立地をよく見てみると、なんと北総で最も古くその像容成立に関わる子安塔と密接に関係して存在することもわかりました。
 特に、尾上の享保18年(1733)と宝暦1年(1751)の2基の子安塔のある住吉神社の階段の下の祠には宝暦5年(1755)の双体道祖神が祀られ、また新堀(酒々井622付近)の三差路には、安永5年(1776)の如意輪観音像と宝暦2年(1752)の子安像塔の隣に、宝暦8年(1757)の双体道祖神がありました。
 このほかの双体道祖神の近くにも、江戸中期~後期の子安像塔や子安神石祠がセットのように存在するのです。

神の姿を石に彫ること

 江戸中期~後期の子安像塔は、多いといわれる印旛沼周辺でも貴重なもので、そうたくさんあるわけではありません。
 まして双体道祖神は稀有なものですから、偶然共存しているとは考えにくく、18世紀後半この地域では、同じ民俗信仰から生じたと思われるのです。
 その背景には、この地には北条氏滅亡の際に帰農した千葉氏・原氏の遺臣の農家が多く、その家系の存続を第一に願う子孫繁栄の意識がムラ全体で高かったのではないかと考えます。
 もうひとつは、これまで石祠に神名を彫りこむだけだった祭神を、身近な形ある神像に表現したいと思う心が、軌を一にしてオリジナルな偶像、すなわち子安塔像と双体道祖神像を創造したと考えうることです。

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          下岩橋 三叉路の双体道祖神(建立年不明)

 「子安大明神」としてこの地域で生まれた子安像塔は、石祠内像であること、一児または二児を育児する姿であること、伝統的な如意輪観音の思惟の姿勢などの特徴を断片的に融合し、試行錯誤の過程を経ながら、印旛沼東岸から北総全体に伝播し広がっていきました。
 双体道祖神は、寛文のころにはあったといわれる神奈川県などの僧形合掌型の神像の姿を風聞で知り、「三本脚のドウロクジン」伝承を独自に加え、酒々井町地域独特の像容を確立したと想像されますが、残念ながら他地域までは広まらなかったようです。

 いずれにしても、子孫繁栄の神に、親しみあるひとの形を与えたということは、この時代の民間信仰として、画期的なことであったと思うのです。

酒々井町の子安像と道祖神(像容)    所在地         和暦      西暦

道祖神(丸彫り双体像)         柏木 七社神社         享和 2   1802
道祖神(丸彫り双体像)         柏木 七社神社       昭和 8   1933
子安石祠(丸彫り子安像)      柏木 新光寺墓地      元文 5   1740
子安石祠(浮彫り子安像)       下岩橋  大仏頂寺     延享 1   1744
道祖神(丸彫り双体像)         下岩橋  三叉路        不明
子安石祠(浮彫り子安像)       伊篠 白幡神社         明和 7   1770
道祖神石祠(文字)           伊篠 白幡神社        文政 13  1830
子安石祠(文字「子安大明神」)   今倉新田 松島神社   享保 21  1736
子安塔(浮彫り子安像)        今倉新田 松島神社    文化 11  1814
子安塔(浮彫り子安像)        上岩橋 馬頭観音堂    嘉永 5   1852
子安塔(浮彫り子安像)        上岩橋 大鷲神社        明治 14  1881
子安石祠(文字「子安大明神」)   上岩橋 妙楽寺         宝暦 12  1762
子安塔(浮彫り子安像)        上岩橋 妙楽寺        文化 3   1806
子安塔(浮彫り子安像)        上岩橋 長福寺墓地     文化 2   1805
道祖神(丸彫り双体像)        上岩橋 菊賀神社      不明
道祖神石祠(文字)              上岩橋 駒形神社      文政 5   1822
子安塔(浮彫り子安像)        上岩橋 路傍                 大正 13  1924
子安塔(浮彫り子安像)        中川 西蔵院                 文化 15  1818
道祖神(丸彫り双体像)       中川 水神社                不明
子安塔(浮彫り子安像)       新堀(酒々井622)        安永 5   1776
子安塔(浮彫り如意輪像)     新堀(酒々井622)         宝暦 2   1752
道祖神(丸彫り双体像)       新堀(酒々井622)        宝暦 8   1758
子安塔(浮彫り子安像)       酒々井 朝日神社          宝暦 4   1754
道祖神石祠(文字)             酒々井 朝日神社          文化 2   1807
道祖神(丸彫り双体像)       大佐倉浜宿*        不明
子安石祠(浮彫り子安像)      大佐倉 麻賀多神社*     天明3 1783

子安塔(浮彫り子安像)        本佐倉 諏訪神社          天保3 1832
道祖神(丸彫り双体像)       本佐倉 根古谷           不明
子安塔(浮彫り子安像)       本佐倉 妙見社          文化 8   1811
子安石祠(文字「子安大明神」)  上本佐倉 神明大神社    天明 5   1785
子安塔(浮彫り子安像)       尾上 住吉神社奥       享保 18  1733
子安塔(浮彫り子安像)       尾上 住吉神社奥       宝暦 1   1751
道祖神(丸彫り双体像)       尾上 住吉神社前           宝暦 5   1755

*佐倉市

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2010年11月 1日 (月)

K-22 白井市初出か! 「文化6年」建立の中木戸観音堂子安塔

 北総の子安像塔について、江戸時代末までの造立年銘のあるもの数百件をほぼ見終わり、そのうち江戸中期までの系譜と考察を『房総の石仏』20号に報告することができました。
 現在は、八千代市近辺の近代以降の子安塔を探し出し、その像容をカメラに収めています。

 幕末以降近代の子安塔は、前にも書いたように、石工の技術の乏しい駄作ばかり。
 加えてもろい石質のため損傷した無残な姿が多く、ややうんざりしていますが、最近は造立年が不明、または参考資料のデータに疑問のある子安塔の正しい造立年代を推定するのも面白く、新発見?も多々あります。
 先日、印西市と白井市を調査していて、発見したそのような事例を紹介します。

 『白井町石造物調査報告書』(白井市教育委員会発行)の所在地「中木戸観音堂」の項に、「明治27年(1894)銘の道標を兼ねた子安観音像」と、「大正6年(1917)造立の子安塔」のデータがのっています。
 101029_096_2時代も明治後半以降に下るので、調査を後回しにしていたのですが、訪ねてみると、諏訪神社に隣接した来迎寺別院という由緒ありそうな寺院跡のお堂でした。

 明治の道標を兼ねた子安塔は境内の道に面した角にあり、小さなお堂の前には、寛政7年(1795)の馬頭観音、そして元文4年(1739)銘の十九夜講の如意輪観音像と明和7年(1770)の地蔵像、「大正6年 」と報告書にある子安塔の3基がやや傾いたまま寄せて置かれています。
 
 江戸中期から女人講が続いていたようですが、問題は「大正6年」の子安塔(↓)の像容と特徴です。
  上部が欠損し、銘は光背の表面 に「六巳十一月吉日」と「講中」のみですが、子安像はきれいに残っていました。
 ヴェールのような長い垂髪と、右ひざを立て、上体をその方向に傾け、懐に抱いた嬰児を左手で支え、指をそろえた右手を腹部に当てるスタイル。千葉市旦谷町や下田町の子安像に類する明らかに千葉市域タイプの流れをくむ江戸後期の子安塔であると直感しました。
 さらに石質が安山岩、像容や光背表面に銘を刻む特徴からも、近代の作ではありません。
 「○○・・六年」、干支は「巳」。年表で見ると「大正6年」のほか、「文化6年(1809)」が「六巳」に該当します。

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 千葉市域タイプの子安像は、 「K-13 優品の系譜Ⅰ 八千代市林照院の子安塔像容のルーツ」で紹介しましたが、安永7年(1778)千葉市大宮町安楽寺の石祠型、光背型では天明6年(1786)旦谷町公民館の子安塔から、文化4年(1807)武石真蔵院の墓塔まで千葉市内のみ11基の同一系統の子安像が抽出できます。
 このほか欠損して造立年不明になっている子安像塔で天戸町福寿院 の「願主三人」銘の1基と、長沼町駒形観音堂の2基のうち1基も、像容から文化年代までのこのタイプと推定でき、千葉市内は合わせて13基となります。
 0分布は、千葉市東南の若葉区から市内を次第に北上して、市外では文化11年(1814)の八千代市米本林照院文化13年(1816)の成田市(旧下総町)大和田にもその系譜が確認できます。

 白井市中木戸の「六巳」年銘の子安塔を「文化6年(1809)」として、この系譜の中で検証してみると、像容や体裁がぴったりと一致し、また空白だった文化4~11年間の千葉市内と市外をつなぐ好位置を占めることが判明しました。

  さらに、懸案だった印西市泉集会所にある年不明の子安塔(→画像)も、白井市中木戸の「六巳」年銘の子安塔を「文化6年」にすることにより、文化年間の可能性が出てきました。

 千葉市域以外でこのタイプの子安塔像は、数は少ないですが、文化年間に印西市・白井市・八千代市にも3基存在し、習志野市屋敷天津神社の天保6年(1840)など、天保以降さまざまに変化する印旛沼周辺の子安像の像容の基本的なパターンの一つになります。

 これまで、白井市の子安像塔の出現は遅く、今井青年館の文政13年(1830)銘の石祠内の浮彫が初出とされてきましたが、中木戸の子安塔を文化6年にすることにより、1830八千代市の文化11年より5年も早く子安像塔が現れることもわかりました。
  しかも、この文政13年の石祠(→)内の像もよく見ると、このタイプの流れをくむ像容です。

 各市町村単位の石造物悉皆調査データは、調査に必須のもので、まさに先人の功績のおかげで私の調査も可能なのですが、やはり実際に現場で実物をよく観察して、既存データを見直してみることがいかに大事かと感じた次第です。

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2010年10月10日 (日)

S-12 秩父霊場金昌寺「慈母観音」とその世界-2

 秩父四番霊場の金昌寺の子安像が、彫刻美術として類をみない斬新で秀逸な作品であることを感じさせられるのは、正面から見る母子像だけではなく、台座を含めた全体のプロポーションの美しさである。
 柵が視線をじゃまするので、真横から見てみよう。

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 通常は蓮弁と反花(そりばな)から構成される蓮華座は、反花を上の蓮華と対称的に下方へ円錐状に広がる2茎の蓮の葉のモチーフに替え、その裾にリアルな蛙をあしらっている。100912_180
 若い女人の姿をとる主尊は、左手は床におろして反身になった上半身を支え、自由になった右手で子に乳を含ませいつくしむ。
 子の躍動的な動きと、やさしく微笑む母の視線が神々しい。
 母子像とそれを支える蓮華座とが一体になって、ほとばしる生命力(いのち)と祈りが表現されている。

 江戸時代の彫刻作品は、木食や円空、湛海らの作品を例外とすると、仏像も肖像彫刻も見るべきものはなく、ただの人形か社寺装飾に堕してしまっていると、日本美術史研究家は顧みもしない。
 そのような江戸時代の最中、このように優れた石造彫刻が山深い秩父観音霊場のお堂の軒先に置かれてあること事体、とても不思議なことかもしれない。

 100912_113多くの女人の信仰を集めた秩父観音霊場と子安信仰が、深い関係にあることは、言うまでもない。
 三十三の姿に化身して衆生を煩悩から解放し、子授けの願いを成就させる観音の慈悲を求め、各地からの女人講が秩父札所を廻る。
 北総、特に印旛沼周辺の女人講では、子安講から秩父講へ、さらに念仏講へと移行していくのが通例で、女性たちにとって、秩父は必ず巡礼する霊場と言ってよい。

  1500万年前に入り海があったという秩父は、礫岩と砂岩が互層になった山に囲まれた盆地で、その山が浸食された険しい100912_110s崖・窪み地形を作っている所が多く、このような地形は修験道の行場となる。(房総石造文化財研究会HP・by.吉村氏)

  崖下の窪みは、また胎内になぞらえられ、死と再生、生まれかわりの場であり、子安信仰とも深い関わりを持つ。
 三番札所常泉寺は、池の向うの崖下の窪み(↑)に石仏を祀り、また本堂の縁側には、子安観世音木像と、自然石の子持石(→)を安置して巡礼を迎えてくれる。
 秩父は、今も原初的な子安信仰が息づく霊場なのだ。

 金昌寺の「慈母観音」像は、寛政四年(1792)に江戸通油町の豪商吉野屋半左衛門は寄進したものである。
 金昌寺の本尊の霊験で子供を授かったものの、その後子供と妻を相次いで失ったため、生前の母子の姿を浮世絵師に下絵を書かせて建立・供養したものという。

 寄進者の志を造形として結晶させた作者の名はわからないが、その作風のうかがえる石仏は、金昌寺やその近くに見出すことはできる。
 
 一番札所四萬部寺をでて二番へ向かうすぐの栃谷の路傍に、如意輪観音の見事な丸彫り像(↓)が、ささやかなお堂の中に安置されている。
 寛政八年(1796)建立の月待塔で、主尊の顔立ちや衣紋の彫り、独創的なポーズは金昌寺「慈母観音」像に相通じる。

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 また金昌寺境内の十一面観音堂で、観音の足元で主尊を仰ぎみる童子(↓)の動きにも、金昌寺「慈母観音」像の乳児の面影と石工の技の巧みさを感じさせられる。

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 同じく金昌寺観音堂前に地蔵菩薩坐像(↓)があるが、地蔵菩薩像の儀軌にとらわれない人間的で新鮮な作風がうかがえる。

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 如意輪観音や地蔵菩薩については、儀軌の縛りの中でもこれだけの独創的な表現が可能であるとするなら、儀軌のない子安像は作者の思いと技量が発揮できるテーマであったに違いない。

 さて先日、北総の江戸時代中期の子安像塔についてデータをまとめ、『房総の石仏』20号に掲載していただいた。
 北総の旧村で子安像の石仏が立ち並ぶ風景は日常的であってめずらしいことではない。
 しかし、江戸川以西、旧武蔵国での江戸時代中期の子安像塔はまれである。
 秩父三十四霊場でもこの「慈母観音」像以外に、子安石像は目にしなかった。
 北総の子安像塔はムラの子安講の結束の証であるが、旧武蔵国のエリアでは、むしろ個人の信心・供養に由来するものなのであろうか。

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2010年10月 3日 (日)

S-11 秩父霊場金昌寺「慈母観音」とその世界-1

 2010年9月12日、久方に秩父の巡礼道を歩いた。
 今夏は例年にない猛暑、9月も中旬を過ぎてまだ真夏の暑さであったが、コスモスなど秋の花々が古道の縁に咲き乱れ、季節の移ろいを感じさせてくれる。

 秩父観音霊場の金昌寺で、あの美しい子安観音(「慈母観音」)像に初めて出会ったのは、1997年5月のこと。
 「秩父観音霊場と秩父事件の史跡を訪ねて」という12年前の紀行文に、私は金昌寺境内に足を踏み入れた時のことを、次のように書いていた。 (『史談八千代』第22号)

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 「 第3章 石の協奏曲・四番金昌寺
  
 大きなわらじの掛った山門をくぐると、赤いよだれかけを着けた六地蔵がシャクナゲの花に埋もれて私たちを迎えてくれる。ふと坂道の先に目をやると、そこにはさまざまな仏たちが集う石仏の世界だった。
 寛永元年(1624)に住職が千体安置の発願をして以来、その後も信者の寄進が続き、千四百体の石仏が祈りの谷を作っていた。
 石仏に導かれてたどり着いた山腹の観音堂の回廊には「マリア観音」とも通称されている美しい子安観音が、たくさんの女たちの願いを記した絵馬に囲まれて、赤子に乳を含ませていた。
 寛政4年(1792)江戸の商人吉野屋半左衛門が寄進した像で、歌麿の絵を基に刻ませたという。 」

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 12年前は、札所一番四満部寺からバスで四番金昌寺へ向かったが、今回は、一番から二番納経所、三番常泉寺と巡礼道をたどり、四番から五番語歌堂まで石碑・石仏との出会いを目的に歩く。
 先達は、房総石造文化財研究会の町田茂先生。
 私は、金昌寺の「慈母観音」像を生み出した秩父の石造彫刻の美術工芸的な系譜と像容の精神性をつかみたく、列の後ろについてひたすら石仏を見て歩いた。

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 金昌寺の「慈母観音」像は、江戸中期の石造彫刻として、日本美術史上の最高峰だと、私は思う。
 あまりにも他を凌駕する出来栄えに、この彫像にのみ目を奪われて、その背景や系譜の存在も見えないほどである。
 しかも残念ながら、金昌寺の「慈母観音」像を作者の名は知られていない。
 書画や木彫刻の作者に比べ、石造彫刻の場合、石工の名前は、まれに神社の狛犬のその名が刻まれていることもあるが、一般にはほとんど残されていない。
 刻まれているのは寄進者の名前のみというのは、石工の社会的な地位に寄るのか、あるいはすでに受注商品を製造する工人に徹していたためであろうか。

 札所のお堂の回廊というオープンな場所に公開されてきたこの石像は、東大寺南大門の置かれた鎌倉時代の慶派の金剛力士木像のように、常時庶民の目に触れて観賞拝観される身近な作品であり、その高い芸術性は彫刻職人たちの目標であったに違いない。

 今回の秩父札所一番から五番までの短い巡礼道の石仏たちとの出会い、そこに金昌寺「慈母観音」像に通じる芸術性と精神性のバックグラウンドを見つけてみたいと思う。

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