2016年5月30日 (月)

S-22 北総の「百庚申」探訪

 2月に本ブログに『S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」』をアップしましたが、その後、近隣の百庚申を調べて回っています。

 これは、5月24日に訪ねた千葉県栄町の安食上町の百庚申です。

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 「安食駅東方」という情報しかなかったので、駅前にいたタクシーの運転手さんや上町の地元の方々にお聞きしながら、「旧成田みち」沿いの通称「庚申さま」にたどり着きました。
山の中腹に3基の立派な青面金剛像庚申塔を祀った祠があり、その下の階段脇と道沿いの法面にぎっしりと庚申塔が建っています。
 百庚申として建てられた定型な駒型のほか、大小さまざまな、時代もいろいろな庚申塔がありました。
 特に法面の庚申塔群は、道路整備などで移設集積されたようで、又、笠神社の百庚申とよく似た像容と形式のものもあって、おそらく旧本埜村の梶谷石材の製品かと思えました。

 5月26日に訪ねた船橋市前原東5丁目の庚申塚。

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 ここには享保18年、19年と延享4年の彫りの優れた青面金剛像庚申塔3基のほか、小形の年不明の文字庚申塔64基が並んでいて、百庚申とみられます。

 これは、一石百庚申塔でしょう。

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 5月20日、八千代市麦丸台の庚申塚にあった「一百青面金剛王 當村講中」銘の庚申塔で、文化12年2月の建立。
 北総はたくさんの庚申塔を建立する「多石庚申塔」が20例ほどありますが、1基に「庚申」の文字を多数刻んだものや、「百庚申」の銘を刻んだ事例は珍しいです。

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2016年4月21日 (木)

S-21 須藤梅理を追って - 句碑に見る印旛~利根の俳諧ネットワーク

吉高の宗像神社の芭蕉句碑

 旧本埜村笠神の南陽院に建つ「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(俳号は梅理)を追って、鳥見神社の芭蕉句碑に続き、旧印旛村吉高の芭蕉句碑を調べに行きました。

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 吉高は、須藤元誓が生まれ育ち活動し、そして生涯を終えたムラです。
 春になると、須藤文左衛門(屋号)家の大桜が咲き、最近は、「吉高の大桜」として、印西市の観光名所にもなっています。

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 その旧吉高村の鎮守である宗像神社の境内に入り、社殿に向って右側に、自然石の芭蕉の句碑があります。
 表面に「このあたり 目に見ゆるもの みな涼し / はせを」と流麗な仮名文字で芭蕉の句が、裏面には、松月舎光東の「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句が刻まれています。


 裏面の句の選者は、春秋庵幹雄と半香舎梅理の2名で、「明治三十五年四月一日」の日付です。
 半香舎梅理は須藤元誓。春秋庵幹雄とは、梅理とその父である半香舎梅麿の俳諧の師匠の十一世春秋庵三森幹雄その人です。

 そしてその下には、「俳友賛成員」として19名、「幹事」が17名、「後見」2名(俳友賛成員・幹事と重複)、「企」1名(句の作者と重複)の名前(地名・苗字・俳号)が記されていました。

 

「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句の作者の松月舎光東は、「企」の須藤光東のことでしょう。
 その名の横に「通称太左衛門」とあり、須藤元誓(梅理)が継いだ家でした。

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(画像をクリックして大画面でご覧ください)


 梅理と並ぶ選者の一人の春秋庵幹雄とは、江戸末期から明治初期の俳人三森幹雄(1829 1910年)で、福島県出身。本名は寛、通称は菊治、号は初め静波で、藍染商人の手代として働きながら、地方の師匠のもとで俳句を学び、20代半ばで江戸に出て志倉西馬に俳諧を学ぶ。明倫講社を組織し、1880年、雑誌「俳諧明倫雑誌」を創刊し俳壇に一勢力をなしたが、神道の大成教に属して俳諧による教化運動を進め、正岡子規によって旧派句会を代表する俳人攻撃された一人であるとのこと。(Wikipediaより)

 なお、『梅理家集』には、三森幹雄が「嘉永の暮、奥州より江都へ上るの途次、総の吉高に僑寄し」たことと、さらに二代に亘って交誼を重ねた縁で、幹雄の継嗣の春秋庵準一が、その「叙」を著したと書かれていました。

 

徳満寺地蔵堂の奉納句額と下井・吉高の句碑の俳人名

 この吉高の句碑に記された38名の俳号には、下井鳥見神社の芭蕉句碑の70名と重なる俳号も多く、さらに、利根町布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額にその名と句が掲載されている俳人が10名います。

 徳満寺地蔵堂の奉納句額については、HP「タヌポンの利根ぽんぽ行」 に、入集した99句の俳句と地域、俳号のデータが掲載されていますので、そのデータを参考にして、下井と吉高の句碑と、布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額に重複して俳号が記されている23名の俳人名とその俳句10句を抜き出して一覧表にしてみました。

Photo(画像をクリックして大画面でご覧ください)

 徳満寺地蔵堂の奉納句額に記されているのは、地域と俳号と句のみで名字が不明でしたが、下井と吉高の句碑には名字と俳号が記されているので、共通する10名に関しては、名字もわかりました。

 また、下井の句碑には半香舎四世東水の、吉高の句碑には五世こと須藤梅理の門下の俳人の名が列記されていて、南は山田(印西市)、北は北辺田(栄町)におよぶ水郷地帯がその活動エリアであったと思われます。また利根町などでの句会にも参加し、交流していたことでしょう。

 ちなみに、徳満寺地蔵堂の奉納句額の須藤梅理の句は「似た形(なり)の 山も揃ふて 夕かすみ」でした。

 また下井の句碑に記されている「師戸 渡辺義芳」は、20年前に調査した吉橋八幡神社の句額(『史談八千代』19号P15 No.126)の「師ト 義芳」と思われます。さらに丁寧に調べれば、印旛~利根周辺の俳諧ネットワークが見えてくることでしょう。

須藤梅理の太左衛門家

 160411_032さて、毎春、楽しみにしている吉高の大桜見物ですが、今年(2016年)は4811日が満開で、私は混雑する週末を外して11日に行きました。

 地元の方にお尋ねすると、須藤太左衛門家は大桜に一番近い大日堂横で、花見シーズンにタケノコご飯が名物の「峠の茶屋」を開いているお宅でした。
 接客中で忙しくされているご主人は、須藤梅理のお孫さんとか。

 また吉高にもう一基あるT家屋敷内の句碑も、梅理が係った芭蕉の句碑で、俳人の句や名前も多数刻んであるので、ぜひお訪ねしたいと仲介をお願いしようと思ったのですが、T家は現在留守宅となっているそうで、アポを取るのは難しそうと感じられました。

 機会を見て、なんとかT家の句碑も記録したいと考えていますが・・・

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2016年3月23日 (水)

T-6 「国史跡 井野長割遺跡」見学会

 2016年2月27日、佐倉市の「国史跡 井野長割遺跡」の見学会が開催され、佐倉市教育委員会のO倉さんの案内で、遺跡の中を丁寧に説明いただきながら40分ほど歩きました。

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 かつて何度も通った井野長割遺跡遺跡ですが、やはり朝の光の中、縄文人が残した姿を地上にとどめている環状盛土遺構のマウンドが感動的でした。

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 井野長割遺跡の出土遺物も展示されていました。

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 井野長割遺跡遺跡については、下記URLのHPをご覧ください。
 http://sawarabi.a.la9.jp/joumon/inonagawari/inonagawari1.htm

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2016年3月12日 (土)

S-20 「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(梅理)と明治俳諧の世界




130528_001_2印西市下井鳥見神社の芭蕉句碑

 印旛沼の旧本埜村干拓地を南北に貫く県道12号線。江戸時代からの堤防道で、うねうねと曲がるカーブの左右の下には、洪水の度に堤が切れた「押堀(おっぽり)」といわれる池が点々と連なり、水害との闘いであったこの地の歴史を語っている道です。

 その12号線沿いの押堀のひとつ、甚平池の北側に小さな祠を祀る下井鳥見神社があり、その前には自然石の芭蕉の優雅な句碑があります。

 この鳥見神社の下には、郷土の先覚者の吉植庄一郎とその子息で歌人の庄亮の墓地や、印西大師の札所、また寛政12年銘の聖観音像十九夜塔や昭和9年銘の子安塔があり、私もしばしば訪ねるところでした。

 

 神社の前の句碑には「原中や ものにもつかす 鳴雲雀 はせを(芭蕉)」と流麗な字で、台石には「俳諧稲穂連」と刻まれています。


 印旛沼周辺には、瀬戸の徳性院などいくつかの芭蕉句碑がありますが、この碑は特に優れた碑でしょう。というのは、句碑の形や銘の書体の良さもさることながら、最近の印西市教育委員会の石造物調査で明らかになった裏面と台座に刻まれた銘文とその内容です。

 碑の裏面には「四世半香舎東水」の句と、明治29年銘で「江南亭梅理」による東水への賛と経歴、また台石には地域の俳人たちの名が刻まれています。

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鳥見神社の芭蕉句碑を建立した「江南亭梅理」さんとは

 「江南亭梅理」とは、半香舎五世の「須藤元誓」さん。
 そう! 笠神の南陽院にある「三義侠者碑」の碑文の撰文と書を書かれた方でした。


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 『印旛村史 近代編史料集Ⅱ』の「文化」の部に、昭和4年の「梅理家集」の抄録が掲載されてあり、その解説によれば、須藤元誓は弘化2年(1845)に、代々医家であった吉高村の前田元珉の三男として生まれ、名は理三郎。早くから和漢の書を修め、医術を究めたとのこと。
 分家して須藤家を継ぐが、詩歌や俳諧は半香舎一世で梅丸の俳号を持つ父の元珉や、前田家を継いだ義兄の宗達こと二世梅麿の業績を受け継ぎ、俳諧結社である半香舎の五世となったとのことです。

「梅理家集」には、梅理の俳諧の師匠の三森幹雄の子の春秋庵準一が「叙」を、梅理の甥二人が「閲歴」を書いていますが、閲歴の中のエピソードに、16歳の時、父の死に心痛めて、それまで一生懸命に書写した漢籍や医術書を捨ててしまったほどだったとか。

 また、文久2年夏に麻疹が大流行した際は、兄の助手として昼夜奔走し、数百人の患者を救ったそうです。

 千葉大学の前身の千葉病院医学教場で医学を修め、内外科医術免許を得て、医師として活躍する傍ら、寸暇を惜しんで、文学・詩歌を儒家などに、俳諧は父について学び、父没後は三森幹雄を師として三十年以上、地域で活動し、その門人は八十余人。そして昭和4年(1929)、81歳で生涯を終えられました。

梅理の句

『憑蔭集』(船橋大穴の齋藤その女傘寿の記念の句集)から十三才の時の句

馳走とは聞くもききよし一夜鮨

Photo_5『明治俳人名鑑』から

みつうみや風は寒くも春心

春の山見馴れし影を見出しけり

長みしか隙な枝なき柳かな

黄鳥の臆気をかしき余寒かな

草や木にさはらて吹きぬ春の風

 

『梅理家集』から

今朝はかり人に待たれて初鴉

人の世や日傘も絹の二重張り

些と風のあれと思ふや月の雲

松の風竹の凪聞く炬燵かな

 

「三義侠者碑」の「撰文幷書」の人物、格調高く難解な文と異体字だらけの篆書体に近寄りがたい印象を持っていましたが、その俳句を拝見し、親しみを持ってその足跡を追ってみたくなりました。まさに印旛沼畔に文化の華を咲かせた方だったのですね。

 

下井の鳥見神社句碑の銘文データを次に掲載します。
(画像をクリックして大画面でご覧ください)

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 なお、下井の鳥見神社句碑に加えて、梅里が建てた吉高宗像神社の芭蕉句碑についてと、両碑の人名銘に見る印旛沼周辺の俳諧ネットワークについては 、次回にアップします。

 また、『八千代の文人たち―歌碑・句碑を訪ねて』の著者村上昭彦氏には、『憑蔭集』『明治俳人名鑑』の情報など、近代の俳諧について詳しくご教授いただきました。あつく御礼申し上げます。

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2016年3月 4日 (金)

K-33 笠神の熊野神社の年不明の子安塔の推定年代と類型を探る

笠神熊野神社の女人講石塔群

130625_047  印西市(旧本埜村)笠神の向辺田にある小さな神社、熊野神社境内には、「粟島大明神」の祠と、延宝5年(1677)から文政9年(1826)までの7基の十九夜塔、さらに嘉永元年(1848)以降の3基の子安像塔が祀られてあり、江戸時代から近代までの女人信仰の姿を見ることができます。(写真1

313日の房総石造文化財研究会主催 見学会「旧本埜村の石仏を探る」でも、ぜひこの女人講石塔群をご案内したく、見学用資料を作りながら、3基の子安塔のうち「明治」以下の年銘を欠く1基(写真2)の年代が気になり、調べてみることにしました。

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 年銘欠の子安像塔の類型を探す

 年銘欠の子安像塔は衣観音風の被布、足を見せ着物を着て乳をつかむ子、2本の蓮華、切れ長の目など、かなり特徴的な像容で、八千代市近辺ではあまり見られない姿です。

右側面に建立年月日が刻んであったでしょうが、「明治」以下の文字が磨滅していて、残念ながら失われて、年不明の子安塔データ集に入れてしまっていましたが、私が撮った子安塔写真データの中から類型を探してみることにしました。

 そこで旧本埜村を中心に近代の子安塔の写真データを丹念に調べてみると、よく似た像容の子安塔が次の3基(写真3)見つかりました。

 

・明治20年(1887)造谷真珠院(旧印旛村)

・明治22年(1889)竜角寺(栄町)

・明治23年(1890)下曽根市杵島神社(旧本埜村)

(写真3 クリックして拡大)

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  地理的にも、笠神熊野神社はこの子安塔のある範囲の中に位置します。

4基とも同一の石工の作と思われ、笠神の年銘欠の子安塔が明治2023年の間か、その前後であることは確かと思われます。

 造谷真珠院の塔が上部だけなので、判断が難しい所ですが、子安像の面立ちと蓮華の丁寧な彫りは、笠神の塔に類似していますので、私としては、明治20年前後まで絞ってよいのではないかと推定しますが、いかがでしょうか。

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2016年2月24日 (水)

S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」

 
印西市笠神の笠神社
蘇羽鷹神社


 151228_1551今は広い田圃の中、中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に突き出した小島のような独立台地、その裾を巡る集落が印西市笠神で、台地上には笠神城跡があります。

 この台地の東側中腹には中世領主の館跡の名残を残す南陽院の境内があり、また台地上西端の蘇羽鷹(そばたか)神社には戦国時代の遺構と思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残っています。

 古城址の東麓には「船戸」の集落、そして西麓には「根古屋」の集落の中に笠神社(かさがみしゃ)があります。 

                             (右写真は笠神社の百庚申)

 

 「百庚申」とは=下総の百庚申

 下総地方の庚申塔は、江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となって数多く建てられるようになりますが、下総と印西市域の庚申塔群で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。

 百庚申は、駒型の定型の文字塔9基毎に、青面金剛像塔を1基ずつ1単位として10組並べて路傍などに配置されることが一般的で、道路拡幅などで神社境内などに移設されていることも多々あります。

 庚申塔100基建立の目的は、祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づきますが、中には、100基連立せず1基のみに「百庚申」と刻んで代用した「一石百庚申」もみられます。

 なお後者の「一石百庚申」には、その銘文から「百体参詣記念」を意味するものもありました。

 下総では「百庚申」(一石百庚申を除く)は24か所、印西市では、笠神の笠神社と蘇羽鷹神社のほか、武西・浦部・小林・松虫台の百庚申があります。

 特に文久3年(1863年)造立の「武西の百庚申」は、「中尊」として大きな庚申供養塔を中央に、その左右に5単位の庚申塔列が規則正しく配列されてあり、当時の形態を良く残していることから、平成113月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。

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              武西の百庚申 2012.11.27撮影

 

笠神の笠神社の百庚申

 笠神の根古屋には、「笠神様」とよばれる「笠神社」があり、その境内に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が、左右二列に立ち並ぶ姿は、壮観です。
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 これらを調べてみると、慶應元年~3年(18657)の三年間に建立された青面金剛像塔18、「庚申塔」銘の文字塔7795が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。


・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)

・慶應2年= 34基(像塔7基:文字塔27基)

・慶應3年= 33基(像塔8基:文字塔25基)

・年不明=  17基(像塔1基:文字塔16基)

 

 20123.11東日本大地震の後に、倒れていたこの百庚申は建てなおされ、現在はコンクリートの基礎上に据えられており、元の並び方の順は不明です。

 損傷した石塔が片隅に寄せ集められてあり、これを復元すればおそらく元は100基あったと思われますが、現在は、百庚申以外の庚申供養塔5基を入れて、ちょうど100基となります。

 青面金剛像塔と文字塔の割合は、1877とほぼ14の比率なので、像塔1基に文字塔4基の5基1単位で連続して並べられていたと思われます。

 石塔脇の寄進者銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。

 

 百庚申以外の5基のうち、145㎝の高さの文字塔で建立日が「慶應三卯年十一月吉日」銘の庚申供養塔は、百庚申の三年目の慶応3年の建立月日と同じであることと、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に、百庚申の「中尊」として建立されたのではないかと考えています。

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 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっています。
 この像容は、同時期に近くの栄町安食に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。

 また足元の邪鬼が正面を向き姿はとてもユーモラスで、石工の個性が出ています。

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 笠神の蘓波鷹神社の百庚申


151228_263_2 笠神城の物見台の跡が残る蘓波鷹神社境内には、享保181734)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申供養塔と、近代になって建立された百庚申が台地上の狭い境内両脇に整然と並んでいます。

 百庚申は高さ4151㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54と、青面金剛像塔660で、右面に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が記されています。

・明治16年(1883)銘
  = 6基 (
像塔1基:文字塔5基)

・明治33年(1900)銘
  =19基(像塔2基:文字塔17基)

・昭和10年(1935)銘=3基 (像塔のみ3基)
・年銘のない文字塔=24基 これらは配列から昭和10年と推定されます。

 
 建立には3次にわたって52年間かかっており、また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また境内の大きさに合わせた数であったのでないかと推測されます。

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 一般に近代に入ってからの庚申塔建立は少なくなり、特に青面金剛像を刻んだ像塔は珍しくなりますので、蘇羽鷹神社の6基の像塔はとても貴重です。

 蘇羽鷹神社の百庚申は、これまで未報告な事例でしたので、まだその考察の域には達していませんが、近代に入っても続く庚申信仰の姿と笠神地区の結束力を示しているように感じられました。

 

(附)下総の「百庚申」

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        鎌ヶ谷市大仏・八幡神社の百庚申 2009.9.10撮影

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           印西市小林・砂田の百庚申  2010.12.1撮影

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         印西市松虫の百庚申(文政12年)路傍から2か所に移動されている。 2012.1.1撮影

           *参考資料:榎本正三「武西の百庚申」1999『房総の石仏』第12号

 

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2016年2月21日 (日)

S-18 印西市笠神の三義人顕彰碑と向かい合って

   笠神の三義人顕彰碑を読む

 現在調査中の印西市旧本埜村の石造物の中に、笠神の三義人顕彰碑があります。
 石造物調査表をデジタルデータ化する作業をお手伝いさせていただいているのですが、美辞麗句と異体字や篆書の銘が多い明治期の漢文石碑は、実は最も苦手の石造物なのです。 (「○エ門」や「○兵エ」崩し字銘の続く江戸期の石塔の方がまだ楽かも・・)

 義人碑ということでその内容に興味があり、また碑面の状態も良さそうなので、自分の力で文字起ししてみようと、とりあえず天候と日差しの按配を考慮しつつ、写真撮影を試み、三回目にしてやっと解読できる画像を得ることができました。

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 まずは、最初の碑額(篆額)部分は「三義侠者碑」と読めたものの、本文の「人衆者勝天」の次の「共」のような単純な文字がわからない。『異体字解読字典』や『五體字類』やネット検索を駆使、これも「天」の異体字で、きっと「人衆者勝天天定亦勝人」(人のむれは天に勝つが、天定まればまた人に勝つ)と読むのでしょう。
 房総石造文化財研究会の早川正司氏にもご指導いただき、とりあえず全文入力が終わり、その後、この碑文が掲載されている『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)を入手し照合すると、これらには碑文と十数カ所の相違があることがわかりました。

 旧字体は、手書きIMEで文字を探し、字典で確かめながら入力していきましたが、最近は、環境依存文字とはいえ、旧字体や異体字もいろいろとそろっていることに驚きました。一字一字、碑文と格闘しながら入力したのが、次の翻刻文です。
 (文字化けしないよう画像で貼り付けました。画像をクリックし、拡大してご覧ください。)

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  笠神の三義人顕彰碑が語る時代
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 碑文の大意は次の通りです。

 隣村小林村との入会地だった利根川印旛沼畔の葦原「埜原」の帰属をめぐり、明暦2年(1656)、笠神村の鈴木庄吉・岩井五兵衛・岩井源右衛門の3名が小林村に正しに行ったところ、竹槍のようなものを持った小林村民に囲まれ、格闘となり数名の死傷者を出してしまった。
 3人は自首し、同年12月2日に磔刑となったが、三人の主張通り、埜原は笠神村のものとなり、後に築堤と開発で豊かな田圃となった。
 笠神村民は小さな墓を建て、毎年十夜の法要を236年間行い、おかげで村は豊かに栄えてきた。

 この入力作業中、房総石造文化財研究会の勉強会で、三明弘会員の「房総の義民(義人)と石造物」の発表をお聴きする機会がありました。
 千葉県では、佐倉惣五郎墓所(宗吾霊堂)のほか、安房の万石騒動の三義民の墓石、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件の石造物が有名ですが、三明氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 また、御上への直訴の犠牲者のほか、入会の草刈り場や漁場を巡る隣村との出入りで咎を受けた義人碑も、意外に多いことが、わかりました。

 保坂智氏の近世初期の義民『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられ、そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この笠神の三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る歴史的な文化財であると思いました。

 笠神の三義人顕彰碑 銘文データ
(環境依存文字を使用していますので、文字化けの際はお許しください。画像データを参照)

[正面中央上部(碑額)]
三義侠者碑

[正面中央部(本文)]
人衆者勝天天定亦勝人自古死者非一而身死於極刑曠百世而感動人心者
蓋有故也正保明暦之間印旛郡笠神村有三義侠者笠神之地繞丘平坦沃壌
其東北一帯瀕利根川及印旛湖斥鹵廣漠蘆荻爲叢時俗穪之埜原當時未賦
地祖以故蒭蕘者徃焉佃漁者徃焉而笠神村與之接地過半民多頼其利矣會
與小林村争地利不决兩村共爲幕府采邑正保二年四月幕吏臨撿更製圖爲
後以其地爲兩村所有至是笠神村不得専用其利村民啣之數相鬩明暦二年
某月笠神村欲定其地域小林村不肯再訴諸幕府年之九月幕府復據嚮地圖
而裁之笠神村竟爲曲當此時有三義侠者曰鈴木庄吉曰岩井與五兵衛曰岩
井源右衛門皆豪邁不覊意氣相投確執不屈親莅疆上欲辯論以釐正之小林
之民以竹槍擬之三人抗辯自若彼衆圍而搏之三人奮然挺身格闘傷數人至
死者若干餘衆潰散於是也三人具状以聞自縛而竢罪幕議改前裁制復其舊
慣埜原之地隷属笠神村而處三人以極刑共磔殺於其所貫字押付實明暦二
年丙申十二月二日也村人収而葬之後遇赦建一小墓碣于其地爲記標後世
埜原之地築堤墾田繫殖成數區現今埜原村是也而笠神爲之本郷其水陸之
田一百三町八段餘屬焉爾来村人爲之設祭毎歳十月有十夜法會自明暦至
明治經二百三十六年雖水旱蝗饑未甞不擧行也今茲村人胥議醵財樹碑于
慈眼山頭以備桒滄之變嗚呼匹夫死於極刑却作一村冨源豈殺身以爲仁者
非邪宜哉子孫連綿永血食於其土也今也遇明治之隆治而重磨貞珉以埀不
杇蓋三子者遺風之猶存者而然耶抑亦人衆而勝天天定亦勝人者也歟銘曰
 刀水混混 旛湖邐迆 原流不罄 斥鹵薿薿 斯田斯圃 勗把耒耜
 放利惹怨 奈虞芮藟 任侠戮力 折姦挫宄 各甘極刑 慿義一死
 三柱亭亭 視野爲擬 物換星移 或閭或里 雞鳴狗吠 四隣煙起
 維此義侠 爲民福祉 子孫有榮 英魄所倚
                        従七位 武藤宗彬 篆 額
明治二十四年十二月二日             須藤元誓撰文并書
                              柁谷文刻字

[裏面銘文]
            明暦二丙申天
      一無善汲禅定門
 梵字(ア)本如善心禅定門 靈位
      道真禅定門
      十二月二日

      一 重右衛門分地庄吉
      本 與五兵衛先祖
      道 源右衛門先祖

【注】
人衆者勝天天定亦能勝人=人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人を破る。(『史記・伍子胥列伝』)
自古死者非一=古より死する者は一に非ず(唐宋八家文 祭田横墓文)
斥鹵=セキロ. 塩分を多く含んでいて、農耕のできない荒地
蒭蕘=スウジョウ 草刈りと木こり
佃漁=デンギョ 鳥・獣をとること(佃)と、魚をとること(漁)
采邑=さいゆう 領地 知行所  啣=くわえる  相鬩=あいせめぐ  
據=より 嚮=キョウ むかう さき  莅=リ のぞむ  疆=キョウ さかい
釐正=リセイ きちんとととのえ正すこと  
碣=ケツ いしぶみ  墓碣=墓石   珉=たま  杇=こて ぬる
桒滄之變=桑畑が滄海に変ずるような大変化 
邐=リ つづく  迆=イ ななめ  罄=ケイ むなしい  薿=ギ しげる
勗=キョク つとめる   耒耜=ライシ 鋤の意  芮=ゼイ 小さい草の意   
藟=ルイ かずら  宄=キ 内乱   閭=むら
武藤宗彬=千葉郡長。明治21年、発起人となり、蚕業振興の組織化をはかり、桑苗3万本の年賦貸付をなす。

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2015年10月13日 (火)

T(メモ) 佐倉市間野台貝塚の発掘調査現場

 10月4日、Fecebookで、我が家から1.5km位のところで、発掘調査が行われ、昨日終了して、明日(10/5)には埋め戻すと知り、さっそく自転車で見てきました。
 場所は間野台貝塚の一角、四街道方面から佐倉へ抜ける佐倉街道沿いの馬の背のような高台で、南側は染井野の低地でその先は鹿島川の支流、街道の北側は間野台小学校と間野台公園がつづく下り坂という立地です。
 現場へ行くと、市内の方がやはりカメラを持って見学に見えておられました。

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佐倉街道側から南側をみる(向う側は低地)

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南側から佐倉街道方向
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貝層の様子

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残土中のハイガイとオキシジミの貝殻

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 縄文早前期の貝塚として、佐倉市では戦前から知られていたようで、『佐倉市史・考古編』2014や『印旛の原始・古代』2007(印旛郡市文化財センター)にも詳しい記事があり、これからしっかり読みたいと思っています。
 おかげさまで、有名な遺跡の一端を垣間見ることができて、ラッキーでした。

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2015年10月 2日 (金)

M-7 雅叙園百段階段を彩る「華道家 假屋崎省吾の世界」展

2015年秋、目黒雅叙園で開催中の「華道家 假屋崎省吾の世界」展のブロガー内覧会に参加しました。

東京都有形文化財に指定されている雅叙園の「百段階段」は、昭和10年に建てられた近代和風建築。99段の階段の脇には、贅を尽くした7つのお座敷があり、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した傑作といわれています。

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その「百段階段」を舞台にしての假屋崎省吾さんの華道展は、前から行きたいと思って、チケットも確保して初日開催を心待ちにしていたところ、幸いにもその前日の930日にブロガー内覧会が行われることを知り、さっそく応募して、一足早く鑑賞してきました。

雅叙園ロビーの現代アート風の胡蝶蘭作品を前に、内覧会の説明があり、螺鈿と漆芸で装飾されたエレベーターで旧館の入口へと進むと、ケヤキ造りの階段が別世界へと誘います。

01_4               階段脇のトイレにもオンシジュームが。

 

さて、かつての宴会用の各お座敷には、部屋いっぱいに假屋崎省吾さんの作品が絢爛豪華に広がっています。

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美術界の巨匠、荒木十畝、礒部草丘、橋本静水、板倉星光、鏑木清方が精魂込めた「十畝の間」、「草丘の間」、「静水の間」、「星光の間」、「清方の間」。 描かれたテーマによる「漁樵の間」とそして階段を上り詰めた一番上の「頂上の間」。

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天井や壁を飾る絵や建具、そして床の間の掛け軸も最高級の美術品なのですが、それらといけばな作品が見事に調和していました。

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さらに、いけばなと共に飾られている着物のデザイン・プロデュースも假屋崎さん。BGMで穴れているショパンのピアノ曲も假屋崎さん演奏のCDとか。假屋崎さんすばらしい才能と明るく楽しい人柄が会場いっぱいにあふれていました。

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この「百段階段」での假屋崎省吾氏の華道展は今回で16回目とのこと。
琳派四百年にちなみ「和美共感」が、今年のテーマだそうです。
開催期間は101日(木)~1025日(日)まで、詳しくは公式サイトをご覧ください。https://www.megurogajoen.co.jp/event/kariyazaki/

なお、作品の写真(31枚)を、マイフォトのアルバムにアップしました。
假屋崎さんデザインの「黄金の牡丹」やDaumの花器、「花育」アピールの生産者とのコラボ作品など、多彩な写真をご覧ください。
http://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/photos/2015930_/index.html


本ブログとマイフォトの写真は、特別の許可をいただき撮影したものです。

 

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2015年2月10日 (火)

W-7 臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

佐倉歴史同好会講演レジュメ    2015.1.21 於:臼井公民館2F創作室
                                                             蕨由美

       臼井周辺の民間信仰の石造物と北総の子安様

                                 ⇒スライド  ⇒配布用画像資料

1. 臼井周辺の旧村の風景 —史跡・古道・石塔群を歩く

(1)史跡と名所
・臼井城址(主郭と宿内砦跡など惣構遺構)と外城(先崎城・小竹城・井野城・謙信一夜城跡・阿辰の墓)、
・印旛沼と手繰川・小竹川、佐倉道(街道・宿・道標)、八幡台八幡社・臼井台星神社・稲荷神社、
・実蔵院(明倫中学跡)・長源寺・宗徳寺・光勝寺・円応寺、生谷専栄寺・ぽっくり弁天
井野の千手院・先崎の鷲神社・地蔵尊、青菅の正福寺・青菅旧分校跡、小竹の西福寺、上座の宝樹院、
(2)古道と道しるべ
・佐倉道(成田街道):団十郎ゆかりの成田山道道標・光勝寺下の三叉路道標・臼井台丁字路道標
・「もう一つのさくら道」:水神橋の馬頭観音道標・先崎鷲神社北の二十三夜塔道標
・「かやだ道」:小竹三叉路の聖観音像秩父巡拝塔道標・井野の聖観音像秩父巡拝塔道標

(3)路傍や寺社境内の石仏群
・庚申塚=臼井田、生谷、小竹の後谷津・三叉路、中台三叉路、上座荒具、井野、青菅旧分校
・梵天塚(出羽三山塚)=生谷梵天塚・小竹梵天塚・上座皇産霊神社・井野梵天塚、青菅三山塚、
・馬頭塚=生谷県道脇、臼井田八丁坂、小竹の三叉路・水神橋、上座の手繰不動堂・廃道脇
・女人講石塔群=臼井台実蔵院・臼井田常楽寺・生谷専栄寺・井野千手院・小竹西福寺・上座宝樹院

2. 路傍の民間信仰の石造物
(1)庚申塔 
庚申待は、60日に1回庚申(かのえさる)の夜に、三尸(さんし)という虫が眠った人間の体から抜け出し、天帝にその人の罪過を告げ、天帝はその罪過に応じてその人の寿命を縮めるということから、眠らずに語りあかし長寿を祈るという中国の道教に由来した信仰で、それに仏教や神道の信仰なども加わり、室町時代ごろから各地で「庚申講」が行われるようになった。庚申塔(庚申供養塔)は庚申講の人びとによって建てられ、中世は「板碑」として、江戸時代初期からは、願文を刻んだ板碑型石塔や、三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)とともに如来や菩薩像を浮彫した石仏が作られるようになり、寛文期からは、青面金剛を本尊とする庚申塔も現れ始めた。江戸中期には、青面金剛像に、日月や三猿、邪鬼や鶏を伴う手の込んだ彫りの石塔が流行し、またその憤怒の形相に悪魔退治の願いを込め、村の入り口などに建てられるようになる。(佐倉市内庚申塔数は126基)

・寛文3年(1663)新町嶺南寺、寛文10年(1670)と延宝3年(1675)海隣寺町愛宕神社、
・延宝3年(1675)上座335 S家、延宝4年(1676)下志津原路傍、延宝5年(1677)臼井田の田の中、
・元禄4年(1691)先崎みどり台霊園、宝永4年(1707)海隣寺町熊野神社、
・正徳2年(1712)先崎地蔵尊、正徳5年(1715)臼井台手繰坂、享保元年(1716)臼井光勝寺、
・元文5年(1740)井野庚申塚・小竹三叉路、延享2年(1745)小竹後谷津庚申塚、
・寛延3年(1750)青菅旧分校跡・小竹中台三叉路、安永9年(1780)臼井田、など

(2) 出羽三山碑
奥州出羽三山信仰は、千葉県では山岳信仰の中でも最も盛んで、ムラの壮年期の男性は講を組んで登拝し、また集落の奥高い所には梵天塚を築き、大日如来像を安置して梵天立てを行い、登拝の後は記念碑の石建てを行っている。この三山塚(梵天塚)には、湯殿山本地仏の大日如来像、湯殿山を中心に月山・羽黒山の山名を配した江戸期の文字碑、月山を中心にした近代から現代の三山碑が立ち並んでいる。
(佐倉市内出羽三山碑341基うち江戸期71、近代110、戦後145)
安永9年(1760)青菅三山塚、明和4年(1767)臼井古峯神社、文化元年(1803)生谷梵天塚、
文政3年(1820)井野梵天塚、天保6年(1835)小竹梵天塚、文久2年(1862)上座皇産霊神社、

(3)馬頭観音塔
六観音のうち唯一憤怒顔で、煩悩諸悪を排除する菩薩。頭上に馬頭をいただくことから、馬の守護と供養を目的に、馬の墓地のソウマントウ、村境や川べりの路傍に造立されるようになった。
 (佐倉市内の馬頭観音塔は67基)

・延宝3年(1675)臼井田八丁坂の馬頭観音塔群、享保17年(1732)生谷印西街道の馬頭庚申塚、
・元文元年(1736)か?手繰不動堂、寛保3年(1743)小竹三叉路、寛保4年(1744)青菅旧分校
・宝暦10年(1760)江原新田麻賀多神社、明和元年(1764)井野千手院、文化14年(1817)上座廃道

3. 女人講の石造物
(1)十九夜塔
関東北東部では、旧暦19日の夜、女性が寺や当番の家に集まって、如意輪観音の坐像や掛け軸の前で経文、真言や和讃を唱える「十九夜講」が盛んに行われていた。
この十九夜講が、祈願の信仰対象あるいは成就のあかしとして建立する石塔が「十九夜塔」で、右手を右ほほに当てた思惟相で右ひざを立てて座る姿の如意輪観音像が主尊として彫刻される。
(佐倉市の十九夜塔は104基)

・寛文9年(1669)・宝暦6年(1756)臼井台実蔵院、寛文12年(1672)臼井田常楽寺、
・享保7年(1722)小竹西福寺、享保14年(1729)青菅正福寺、享保19年(1734)上座宝樹院、
・元文元年(1736)井野千手院、宝暦8年(1758)小竹西ノ作地蔵堂、宝暦10年(1760)先崎雲祥寺、
・文化5年(1808)生谷専栄寺    

(2)子安塔
「子安塔」は、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔石祠。
文字のみの石祠・石碑と、母性的な神仏が子を抱く「子安像」が刻まれた「子安像塔」(後述)がある。江戸中期から現れ、幕末から十九夜塔に代わって女性たちの子安講により多数建てられる。  (佐倉市内の子安塔数は98基)

・「子安」石祠=元文4年(1739)小竹四社明神、宝暦8年(1758)上座熊野神社、宝暦9年(1759)井野八社大神

・子安像塔=宝暦6年(1756)内田妙宣寺、天明3年(1783)大佐倉麻賀多神社、
・寛政元年(1789)海隣寺町愛宕神社、寛政3年(1791) 先崎雲祥寺、寛政6年(1794)鏑木町周徳院、
・寛政12年(1800)飯野観音、享和元年(1801)大蛇町神明神社、文化8年(1811)角来八幡神社、
・天保7年(1836)・明治22年(1889)井野千手院、文政2年 (1819)海隣寺、文久4年(1864)畔田正光寺、
・慶應3年(1867)・明治25年(1892)青菅正福寺、明治32年(1899)小竹西ノ作地蔵堂、
昭和15年(1940)先崎雲祥寺

(3)秩父巡拝塔
江戸時代は、秩父34観音供養塔として観音像を浮き彫りにした石塔が路傍などに建てられ、道標を刻むものもある。
近代20世紀になると、女性たちの講による秩父観音霊場巡礼が盛んになり。その記念の石碑として、寺院境内などに多数建立されるようになる。
(佐倉市内の秩父などの観音霊場巡拝塔323基うち江戸期41基・近代123基・戦後145基)

・明和3年(1766)臼井台実蔵院、享和2年(1802)小竹西福寺、文化4年(1807)上座宝樹院、
・文政8年(1825)臼井古峯神社、安政6年(1859)井野旧道入口、文久元年(1861)小竹三叉路

4. 北総の子安様
(1)「子安像塔」とは 
「子安塔」とは、子授け・安産・子供の健やかな成育を祈願するために、「子安講」などに集うムラの女性たちが造立した石塔や石祠をいう。
母性を明らかにした主尊(神仏)が子を抱く像を「子安像」、その像容を刻んだ石造物を「子安像塔」とよぶ。江戸時代の地域の民俗信仰に由来し、仏典などの儀軌にはないオリジナルな石仏である。

(2)北総の子安像塔
北総(下総地域)、特に八千代市など印旛沼周辺から利根川下流域は、女人講による子安像塔の数が多い地域で、1000基以上の子安像塔がある。
そのうち記年銘のある塔は、江戸中期(1717~1803年)までが109基、江戸後期前半(1804~1843)175基、江戸後期後半(1844~1867)120基で、江戸時代計は404基、明治からの近・現代では525基、総計934基が現存する。

1. 北総の女人講に関わる石造物の分布とその時代的推移
北総の女人講関連石造物は、江戸初期~中期(17世紀後半から18世紀代)にかけてほとんどが如意輪観音像の十九夜塔で推定1200基以上。
一方、子安像塔の建立数が月待塔の数を上回るのは幕末以降で、近代になって爆発的に増える。

2. 子安像塔出現期の像容の特徴と系譜
千葉県最古の子安像塔は、上総の袖ケ浦市百目木子安神社の元禄4年の「子安大明神」石祠で、①二児を配した子安像が②石祠内にある。
北総では、酒々井町尾上神社の享保18年(1733)「子安大明神」銘の立像が初出。これに次ぐ元文5年酒々井町の子安像石祠は①と②の特徴をもつ。
同じく酒々井町尾上住吉神社の宝暦元年の子安像塔は③思惟相型の如意輪変形像で、①②③の特徴は北総の江戸中期子安像塔のもつ特異な要素となっている。北総の子安像塔発祥の地域は酒々井町と推定され、18世紀末までに8基の建立があり、ここから隣接する旧印旛村・旧本埜村・成田市へ広がる様相が確認できる。
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3. 江戸時代後期から近現代までの子安像塔の特徴
後期前半(文化文政・天保期)に、千葉市・佐倉市・旧印旛村・佐原市などで増加、印旛沼西端の白井市・八千代市・印西市・船橋市にも広がるが、江戸川べりの浦安市・市川市・流山市などでは全く建立されない。
近・現代は、白井市・八千代市・印西市・佐倉市・千葉市などの地域に偏って分布する。
江戸後期からは主尊が未敷蓮華を持って半跏坐で正面を向き授乳している像が主流。
優雅に天衣をまとう像や、子が這い上がろうとする動的な表現など、華麗で円熟した作がある一方、軟質石材の安易な彫りも多い。
近代は、豊満さを強調した母子像や、細部まで像容を同じくする意匠の定番化がみられる。 

(3)考察:「子安像塔」成立の背景
元禄から寛延年間に、「子安大明神」石祠や「子安観音」石仏などの子安像塔が生み出された背景には、①ムラに伝わる古来の子安神信仰と、十九夜念仏や月待ちの女人講の習俗、②石仏を彫る技術の普及、③「慈母観音」像の特徴である「子を抱く像」への女性たちの共感があった。
慈母観音像は、16~17世紀初頭、中国で「送子観音」と「白衣観音」が融合して成立し、日本にも多量に輸入された白磁製の像で、母性愛と心の癒しを与える具象的な像であったことから、17世紀半ば、「子安観音」として各地方に普及、浸透していったと考えられる。

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