2009年7月 2日 (木)

K-8 北総に子安像が出現したとき

 集落ごとの産土神社やムラの小さな寺、その多くは今は地区集会所になっている境内に、子安様と呼ばれる子安塔が祀られているという情景は、茨城県南部から北総の印旛沼周辺の地域特有の現象のようです。

 子安塔の分布に関して、各市町村の悉皆調査データがそろっていない現状で、子安塔の無いところはどこかというのは、存在する地域の特定より難しいのですが、私の勤める江戸川区内とその隣接する市川市・浦安市・葛飾区など江戸川沿いで子安塔を見かけることはほとんどありません。

 一方私の住む八千代市では、子安塔が、江戸時代の文化文政期から現れはじめ、明治の中ごろからは各集落が競い合うように建立し続け、現代に至っている状況です。

 この状況を平岩毅氏は、『房総石造文化財研究会会報』24号 (1985)の「下総の子安信仰・石造品分布」で、「印旛村から流れ出して東京湾へ注ぐ新川(下流は花見川)流域は何故か江戸後期の始め頃から次第に子安信仰が盛行し、子安観音の刻像塔が濃密に分布している。そして現在も、各地に子安講が現存している。印旛村岩戸の高岸寺にある十五夜塔(天明四年)に刻まれた両手に子を抱く観音像や、享和三年のもの、近くにある広済寺の享和元年のものなどが古い方で、出現時期としては千葉市の安永五年、船橋市の安永八年などに比べ可成おくれている。」と表現しておられます。

 この文章に接して、下総の子安像刻像塔の調査研究は、他地域の方の研究に甘えていてはいけない、八千代市の郷土史を多少でも学んでいる自分が追及すべき課題なのだと思いました。

 さて、下総の子安塔の出現はどこかというと、酒々井町尾上の住吉神社境内で、ここには享保 18年(1733)銘の「子安大明神」立像と、宝暦元年(1751)の如意輪観音像の変形像の「子安大明神」座像があります。090303_044_2

 北総において突然現れるこの享保の立像は、今のところ北総最古の子安刻像です。(右側の像)

 あえて、この像容に近い石造物を写真集で調べてみると、『東総の石仏』に載っている  宝暦13年(1763)の東庄町小南・福聚寺の弁財天の立ち姿がよく似ています。
 福聚寺の弁財天は、尾上の子安神像30年後の作例で、しかも儀軌による持ち物も違いますが、着衣の表現、駒形の光背、雲のような岩座などよく似ていますから、この子安塔の像容は、18世紀中葉ごろの吉祥天・弁財天など天女の刻像と共通するものかもしれません。

 それにしても、手で持っている赤子の姿は、頭を下にしており、産み落とされたばかりの姿のようです。
 この像容に関して後出では、土浦市手野の薬王寺の境内に宝暦13年(1763)の子安観音立像、粟野の惣持院にも明和3年 (1766)の子安観音立像がありますが、前ページに書いたように酒々井町近隣の地域内では、その後の系譜がたどれません。

 依頼した尾上村女人講のだれかが、母子の姿の子安像について聞いた記憶があったのでしょう。
 その曖昧な情報だけで、見たこともない「子供を持った子安大明神像」の制作を依頼された享保期の石工のとまどいが見えるようです。

 左隣に安置されている宝暦元年銘の「子安大明神」像は、如意輪観音に子供を抱かせた事例です。
 右手は思惟相のまま、そして左手の一本は宝珠かハスの花を持つように子供を抱き、一本は、衣の袖のようにも見 えますが、ひざに伸ばしているかのようにも見えます。
 17世紀後半から、女人講の供養塔として二臂の如意輪像が多量に普及していた中で、母子像を創造するには、最も安易な方法だったはずですが、1764hiragahudouまだその子供の抱き方の表現はあいまいです。

 この作例の像容が授乳の姿として、はっきりと表現されるのは、明和元年(1764) 印旛村平賀の不動堂の子安観音像(⇒画像)と観音堂の同じ像容の子安観音像でしょう。
 その後、船橋市金堀町竜蔵院の子安像(1785)成田市吉倉薬師堂の子安像(1777)、船橋市米ヶ崎無量寺の十九夜塔(1779)といくつかの作例が続き、像容が確定してきます。

 しかし、首を傾げ、右手を頬に当てて考え込むこの思惟相の姿勢のままで、子を抱く姿は、かなり無理のある構図です。

 1776印旛村岩戸西福寺(1776)⇒画像千葉市星久喜町千手院(1780)我孫子市江蔵地(1781)の子安像では、子供の方に首を傾けて両手で抱く自然な姿へと変わっていきます。
 とはいっても、その周りのムラの多くは、幕末までずっと二臂の如意輪観音像を建て続けますから、思惟相の姿勢のまま子を抱くスタイルも根強く残っていきます。

 さて、はじめから正面を向いた母子の子安像もあります。
 次回はその姿の母子像から、子安塔のルーツを追ってみたいと思います。

リンク元 房石研HP  土浦のあれこれ   
      「さわらび通信掲示板」

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2009年6月24日 (水)

K-7 印旛沼周辺の子安塔の初出をめぐって

 6月5日の東京成徳大学での講義では、私なりの「新説」を披露するレジュメを用意して臨みましたが、聴講してくださる方々が石造物に親しむことに重きを置き、どちらかというと子安塔とはなにかというレクチャーと、事例紹介のスライドが中心だったと思います。17405

 印旛沼周辺を調査して得られた私の説は、子供を抱く子安像は、元文5年(1740)2児を伴う子安神像の石祠が現れた酒々井町中心に、印旛沼東部の印旛村・成田市・佐倉市でその像容が模索され、印旛沼の両岸沿いに西へと広がり、文化文政年間に江戸川縁を除く北総全体の村々へ普及していくということでした。

 ⇒酒々井町柏木新光寺跡墓地の元文5年の石祠内子安大明神像

 もっとも、酒々井町では、この石祠の像に先行して、尾上 住吉神社の享保 18年(1733)子安様がありますが、立像であることから、その後の子安塔像容の成立の系譜につながりにくいので、むしろこの元文5年(1740)像のほうをルーツとして考えていきたいと思います。

 (7月11日の八千代栗谷遺跡研究会の調査報告会では、子安塔成立のプロセスとその考証を中心に、お話したいと思っています。)

  東京成徳大学の発表以後、追加調査している千葉市・印西市・我孫子市などの子安塔をみても、おおむねこのフレームに収まるようですが、一方、たぶん私のこの説は、これまでの諸先輩方の想像する子安塔成立のイメージとは異なったものになると思います。 

 というのは、「子安観音の像容の起源として、利根川下流域を中心に、如意輪観音像を刻む十九夜塔が盛んに建てられる中で、子を抱く如意輪観音の姿が創りだされる」という榎本正三氏の説が石造物関係の各市町村史などに一般的に引用されているからです。
 榎本正三氏は、印西市を中心にした女人信仰とそれにかかわる石造物研究の第一人者です。
17182 その説の根拠になっているのが、「我孫子市江蔵地青年館の享保三年(1718)の十九夜塔」です。

   ⇒我孫子市江蔵地青年館の享保三年の十九夜塔

 榎本氏の著書『女人哀歓-利根川べりの女人信仰』1992でも「子安観音の原型」と記され、また平岩毅氏も『房総の石仏百選』1999で、この塔が「(千葉)県内最古」で「(子安)観音の発祥地を暗示する」と述べておられます。
 印西町教育委員会発行の『石との語らい』1992でも「如意輪観音からの変容」の例として紹介されています。
 その根拠は『我孫子市史資料 金石文篇Ⅰ石造物』(1979)に、この塔は「如意輪観音・十九夜塔」として写真入りで載っていて「(如意輪観音浮彫)」の下に小さなポイントで「*赤子を抱く。」と追記されていることに由来するのではないかと思います。 

 「我孫子の抱き子の如意輪観音が発祥」というのは、酒々井町の子安神が発祥という私の説と矛盾することになるので、まずはとにかく行ってみることにしました。(こうして私の週休日はいつも無残にも費やされてしまう!のです)

 結果は、百聞は一見にしかず、子安観音ではなかった!のです。
 『我孫子市史』が「赤子を抱く」と間違えたのは、未敷蓮華(みふれんげ・つぼみの蓮華)で、実際はやはり如意輪観音像の一般的な十九夜塔でした。

 090623_030また、ここには、安永10年(1781)の「子安大明神」の刻銘の子安塔がありました。清楚でかわいらしい像です。

 印旛村岩戸の西福寺には、これとまったく同じ像容の安永5年(1776)の子安塔が先行してあります。

 ⇒我孫子市江蔵地青年館の安永10年の「子安大明神」

 おかげさまで、子安塔は「印旛沼の東端から西へ」という私の試論の考証を、一からやりなおすことはまぬがれました。
 そして、文献調査に頼るのはあぶないということを学ぶなおす結果にも・・。

 そういえば、公式の調査記録『千葉県石造文化財調査報告』1980のリストに11基だけ載っている子安観音も、見直しが必要かもしれません。

 このリストで初出とされている銚子市東岸寺の「元禄3年」塔も、房総石造文化財研究会の情報では所在が確かめられなかったとか。

 雨が止んだら、また子安塔探しに行きゃなくちゃ・・。

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2009年1月27日 (火)

S-9  キリシタン灯篭について(3)

 目黒でいくつかの「キリシタン灯篭」を見た後の1月20日、市川市行徳の妙覚寺へ境内のキリシタン灯篭を見学に行きました。
 S090120_004 かつて、市川と行徳の史跡探訪で見たことがあり、再度の訪問でしたが、今回も快く拝見させていただきました。
 妙覚寺は、天正15年(1586)創建の日蓮宗中山法華経寺末の寺院で、市川市が建てたらしい門前の説明板には、次のように記されています。

 『境内には東日本では大変めずらしい、キリシタン信仰の遺物であり、房総でただ一基の「キリシタン燈籠(とうろう)」がある。
 塔炉の中央株に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを着たバテレン(神父)が靴をはいた姿が彫刻されている。(靴の部分は地中に埋められている)
 戦国時代の大名古田織部の創業であったといわれ、別名を織部燈籠(おりべとうろう)という。』

 S090120_027  お寺の方が「キリシタン灯篭の見学ですか」ととてもやさしく声をかけてくださり、発見された時のお話を書いたプリントをくださりました。

 そこに書かれていたのは、まだこの灯篭が知られていなかった昭和26年春、キリスト教の信者が突然「天主のお告げに導かれてここで足が止まりました」と言ってこの灯篭を拝んだという不思議な話と、その10年ぐらい後に、学生が目を留め「キリシタン灯篭という珍しいものだ」といって、2、3日後再度、写真入りの本を持って来たこと、そしてその数年後、研究者が来て、この灯篭が江戸初期もしくは、前期の希少価値のある石造遺物であることを初めて知ったという話です。

 それまでは、火袋もなく、竿部もほとんどが埋まっていて、丸いふくらみと浮彫の像の頭部が少し出ていただけだったそうで、特に気に留めることもなく、ただ睡蓮の池の背景として風流な眺めだったとか。

 ところで説明板に「房総でただ一基」とありますが、実は安房の西岬地区加賀名でもう一基見つかっています。
 昭和60年(1985)に館山市の石造物調査で発見された加賀名の「安産の神様」。
 竿の部分のみを曹洞宗墓地の一角の阿弥陀堂に祀ってあるそうです。。

  H.チースリック師は、著書『キリシタン史考』の「キリシタン遺物のニセモノ」という項で、キリシタン灯篭について「昭和の初め頃、故西村貞先生が、普通、織部灯篭として知られてきた石灯篭を、切支丹燈籠と名付けて以来、鹿児島から北海道にいたるまで数百基が『発見』され、論議を呼び起こしたが、しかしそれは、直接にキリシタンとは関係がない」と言い切られておられます。
 そして、「織部灯篭の発案者、古田織部は千利休の七哲の一人で、キリシタン茶人とたいへん親交があったが、彼自身は信者ではなかった。古田織部がこの灯篭を発案したとき、キリシタンからヒントを得たことは確かであるが、それがキリシタンに信仰の表示であるとは言えない。」、さらに「各地の観光案内に見られる『切支丹灯篭』は一種のデッチアゲであって、そこに隠れキリシタンが居た、という証拠にはならない」とのこと。

 確かにキリシタンの仮託礼拝物として、歴史学の立場からの証拠足りうるものがないのが一般的で、徳川家関係の庭園や寺院にも多いのも事実でしょう。
 どちらかというと、キリシタンを弾圧した側の人物にゆかりのある寺院や屋敷跡も少なくないのが現状ですが、一方では系図をたどるとその縁者に名にあるキリシタンがいることもまた多い時代でした。
 竿部のみの残欠が山里の小祠にかすかな伝承を伴って祀られている例などは、かつて仮託礼拝物だったということもありえるでしょうが、その確たる事例が乏しいのも現実です。

 茶庭とその点景物の灯篭は大名・武士・公家など上流階層のものであり、また1614年の徳川家康の禁教令以後、農民に先駆けて追放や殉教、棄教により上流階層のキリシタンは、一掃されています。
 キリシタン灯篭は、子安観音像を聖母像として礼拝した北九州の潜伏キリシタンの社会的階層とも異なる階層のものでした。

 また、江戸初期のキリシタン灯篭に多い「岩松無心風来吟」と「錦上鋪花又一重」の銘文も、インターネット検索で調べてみると、前者は茶室の掛け軸の書、後者は虚堂和尚語録に出てくる禅語らしく、私としては、松田重雄氏の論のような解釈には至りませんでした。

 古田織部が、(現代日本の若者がロザリオをアクセサリーにするように)十字架などキリシタンの礼拝物のデザインを、単にかっこいいからということだけで灯篭の形にとりいれたとしたら、親しかった高山右近や蒲生氏郷などのキリシタンの茶人の理解が得られたでしょうか。
 
 キリシタン灯篭のなぞは、なかなか解けません。
 この灯篭を、16世紀末、キリスト教の要素や哲学を茶禅の心にとりこみながら新たに創造された造形と考えるならば、禁教前においてはキリシタン茶人の瞑想と祈りの拠り所となり、また、その後の厳しい禁教下でも、その抽象的な普遍性ゆえに、大名屋敷や禅寺の茶庭に伝世され、あるいは信徒の縁者の墓地に遺されたと思えますが、いかがでしょうか。

 

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2009年1月20日 (火)

S-8 キリシタン灯篭について(2)

 今回も、キリシタン灯篭について、各部の要素と形、変遷とその実例を松田重雄氏の著書を参考にしながら、考えていきたいと思います。

 キリシタン灯篭の特徴とは何か、松田毅一氏が『キリシタン研究』の中で挙げているのは次の通りです。
1. 台石がなく竿石を直ちに地中に埋めている
2. 竿の上部が十字型になっている
3. 竿の上部の中央に記号があるが、何を意味するのか不明である
4. 竿の下部正面に異様な人物が刻まれているが、何を表しているか判断に苦しむ
5. この灯篭には不思議な禁忌や、伝説が伝わっているが、明らかに知るよしもない。
6. 灯篭のなかには庚申信仰をともなったものもある。
7. この灯篭の造立の目的は、次のことが考えられる。
  イ 切支丹信仰の礼拝物として
  ロ 切支丹宗門の茶人が茶庭に立てた。
   ハ 墓碑代わりに信徒を供養した
   ニ 道祖神として庚申石として礼拝した

  松田重雄氏の『切支丹燈籠の信仰』では、さらに、初期のキリシタン灯篭の竿の両横に七言二句の漢詩が陰刻されていることを特徴点にプラスし、これまでの学説で不明とされた点についても、百二十余基のキリシタン灯篭の分析を通じ、謎の解明をされています。
 すなわち、竿の上部中央の記号は、PTI、すなわちPATRI=父を、竿の下部正面の人物はイエス像、そして漢詩は聖霊を詠んだ句と解釈し、竿は三位一体を表していると解釈しています。
 S090107daisyouin2その著者の推論には、客観的な考証が不足していて、特に竿の上部ふくらみの陰刻と漢詩の解釈など、納得できない点も多々ありますが、百二十余基のキリシタン灯篭を丁寧に比較して、その形態変化の変遷と分類を試みている点については、興味がひかれます。
  松田重雄氏は、キリシタン灯篭を形態を4つの分け、時代型別に編年しています。

   (画像⇒A~C大聖院3基の灯篭)

その特徴は次のとおりです。

S090107daisyouin31.創造時代型 文禄~元和…江戸初期(16世紀末~17世紀前半)
 ・竿が十字架型・ギリシャクルス型、竿の面取り多し。
 ・竿の上部丸みに定型の文様(Lhqを組み合わせ右回した文様)あり。
 ・竿下部の尊像は八頭身で西洋風、足は外開き。
 ・初期のものには側面に詩偈「岩松无心 風来吟/錦上鋪花 又一重」あり。
 ・竿の下の荒加工の基壇を地に埋める。

       (画像⇒B・C大聖院3基
   中央の灯篭の側面の詩偈陰刻と
     左側灯篭の定形の文様に注目)

2.迷彩時代型 元和~寛永…江戸前期(17世紀初頭~17世紀後葉)
  ・竿が十字架型・T字型へ。竿の面取り消滅化へ。
  ・竿の上部の丸みが次第に直線化へ、文様が変体型になる。
  ・竿下部の尊像は六~五頭身で仏像化が始まる。詩偈は消滅化へ。
  ・竿の下の基壇が現れ始める。
  ・地蔵・観音・庚申・天神信仰との結び付きが現れる。

3.擬装時代型 寛永~慶安…江戸中期(17世紀中葉~18世紀前半)
  ・十字架型が消滅、墓標化す。竿が直線化、文様なし。
  ・竿下部の尊像は五~四頭身で地蔵型も現れる、また蓮弁ありの例。
  ・基壇が多くなる。
  ・庶民信仰との結び付きや禁忌のあるものがある。

4. 無刻時代型 慶安~明暦…江戸末期(17世紀後半~19世紀?)
  ・墓標化。
  ・竿は直線的、尊像なし。

   次いで、これまで私が見てきた東京都内のキリシタン灯篭を見てみたいと思います。

A 目黒の大聖院3基の左側 白御影石
  ・竿のみ残る
  ・尊像は八等身で足が開く
 S090107_ootorijinja ・丸み部分に定形の文様あり
  ・1.の創造型       

B 目黒の大聖院3基の中央 花崗岩・竿と中台が残存
  ・尊像は7.5等身で足が開く。
  ・右に「錦上鋪花・・」左に「岩松无心・・」の詩偈陰刻(擬装型では例外?)
  ・3.の 擬装型でも創造期に次ぐ古い形式

C 目黒の大聖院3基の右側
  ・尊像は六頭身で洋風の面影を残す
  ・3.の 擬装型でBの後か

  (画像⇒D目黒の大鳥神社の灯篭)

S070107taisouji_2D 目黒の大鳥神社 完全に残る
  ・五頭身の尊像の足がなく仏像形式
  ・3. 擬装型

 (大聖院は目黒不動滝泉寺の末寺で、大鳥神社の別当寺、  A~Dともに、元肥前島原藩主松平主殿守下屋敷林泉中の小祠内にあったという。)

  (画像⇒E新宿の大宗寺の灯篭)

E 新宿の大宗寺 白御影石・竿と中台が残存(笠と火袋は復元)
  ・尊像は四頭身で仏像型・足は開く
  ・内藤家墓地から出土

            

S030301honkakuinF 上野の本覚院 砂岩・竿のみ残存
  ・上部圧縮T字型
  ・尊像は4.5頭身・仏像化・足なし
  ・背面へ貫通する隠し穴があるという
  ・3.の擬装型
  (本覚院は寛永寺の塔頭で、船手奉行向井将監忠勝らが葬られている)

       S090107kaiunji  (画像⇒F上野の本覚院の灯篭)

G 目黒の海福寺 竿部のみ
  ・海福寺は、明治に深川から移転してきた黄檗宗の寺。
  この寺の山門下の永代橋沈溺横死者供養塔の垣根替わりに、なぜか無刻のキリシタン灯篭竿部が墓標のように立っていた。
  

    (画像⇒G目黒の海福寺の灯篭)

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2009年1月15日 (木)

S-7 キリシタン灯篭について(1)

S090107daisyouin  本年(2009)正月7日、八千代市郷土歴史研究会の皆さんと目黒七福神の寺社・史跡を巡りました。
 その道すがら、目黒大鳥神社と、この神社の別当である大聖院の境内で、有名なキリシタン灯篭4基を拝観することができました。
 大鳥神社の1基と大聖院の3基(⇒画像)は、ともに目黒駅西側付近にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷に祀られ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
(なお、大鳥神社の1基は、わたしが少女のころに通っていた守屋図書館の中庭に、一時、保管公開されていた灯篭でした)
 都内では、他にも内藤新宿の太宗寺と上野の本覚院で、キリシタン灯篭を観察したことがありましたが、今回はキリシタン灯篭としてそれぞれ特徴的ある要素の実例を見ることができましたので、資料(「切支丹燈籠の信仰」松田重雄著・恒文社)などを取り寄せて、その形式、歴史的・宗教的な意義を整理してみました。

キリシタン灯篭織部灯篭の関係について
 まず、キリシタン灯篭と織部灯篭の違いについて整理したいと思います。
 キリシタン灯篭はその名の通り、キリシタン信仰上の石造物で、禁教下には密かに祈りを捧げるための仮託礼拝物であり、一方、織部灯篭は戦国大名で茶人の古田織部に好まれ、茶庭や数寄屋造りの庭園の点景物として普及した文化遺産の一つです。
 安土桃山・江戸初期、古田織部と親交のあった大名や上級武士・町人の茶人たちの幾人かはキリシタンでもあったので、キリシタン灯篭と織部灯篭は形態的にも本質的にも不可分な関係にありますが、織部灯篭はのちに仮託礼拝物とは知らずに庭園の観賞用に設置され、現在でも作庭に欠かせない石工品となっています。
 S090107oribe 織部灯篭は、笠と四角形の火袋とT字の竿からなり、竿の上部の円部にアルファベットを組み合わせた記号を陰刻し、その竿部を直接、地中に埋め込んでいて、キリシタン灯篭の特徴点を網羅していますが、デザイン・寸法も画一で、また石材も別の石材と組み合せてあるということはありません。 (⇒画像は、あるお店のエクステリアの織部灯篭)

 一方、キリシタン灯篭は、松田重雄氏によれば、信徒の心から心へとその形が伝えられたので、時代によりさまざまな形態的変化と特徴を持ち、同一寸法のものはないそうです。また別石材との組み合わせや、火袋を欠き、竿のみ残存している状態も多く、設置場所も人目に付かない墓地や小祠内など、また庭の露地にその一部だけが見えるものなどさまざまのようです。
 
 織部灯篭が茶庭の設備として好まれ普及していたため、仮託礼拝物のキリシタン灯篭もまた完全に姿を消すことなく、禁教下でも江戸末期まで作られ、潜伏キリシタンの遺物として今に伝えられましたのでしょうか。しかし、その区別は難しいように思えます。

 このような関係はマリア観音にもいえると思います。
 子安観音(慈母観音)像を「マリア観音」と指定するのは形態ではなく、キリシタンの家に奉られたかどうかと言うことと、故結城了悟師は言われました。 納戸の「御前様」=カクレの聖母像

 鎖国間際のころ、西欧画の聖母像に替わりに礼拝用として福建省で焼かれた陶製白衣観音像(慈母観音)がキリシタンの家に普及しました。それは、またキリシタンの信仰とは無縁の家や寺にも残されています。

 世界に類を見ない江戸時代の過酷な宗教弾圧の中、キリシタンのイコンが、信仰と切り離される形で、民衆の新しい習俗や日本の文化を生んでいったのでしょうか。キリシタンとは無縁と認識されて受容された子安観音像や織部灯篭。逆にそれゆえに、潜伏キリシタンの礼拝物として存続できえたのか、謎は深まります。

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2008年9月29日 (月)

F-4 わたしの「貝輪=楽器」論

 先日、馬場小室山遺跡研究会のワークショップで縄文人が好んで?身につけたという「貝輪」の製作をみんなで試してみました。⇒2008夏のワークショップ〔貝輪製作実験工房〕

080810_023_2  貝輪を、ベンケイガイを使って実際に作ってみると、いくつかの疑問点とともにいろいろなことがわかってきました。
 まずは、子供でもコツがわかれば、敲き石と砥石で上手に作ることは可能ですが、運・不運による失敗例がとても多いこと。特に、「細く・丸く」を追及するほど割れやすく失敗するということです。

 精巧な土製耳飾りや漆塗りの木製装身具に比べ、貝輪は、ベンケイガイでも他の貝でも装身具としては特に美しいわけではないのに、こんなに多大な労力をかけて縄文早期から弥生時代まで連綿と作られ続け、また北海道まで運ばれて愛用されたのはなぜなのでしょう。 

 ベンケイガイやゴホウラのサトウガイの貝輪の形の特徴を他の素材に移した腕輪として、縄文時代から土製腕輪が、さらに、弥生時代から古墳時代には銅釧や鍬形石、車輪石などが作られ、威信財・宝器へと発展していきますが、ただのリングではなく、ちょっといびつな貝輪の形へのこだわりが根強いことに不思議な気がします。

 縄文人の腕輪である「貝輪」は、福岡県の山鹿貝塚で、女性が貝輪を十数個も装着して葬られていたという発掘事例があります。大珠や鹿角製の杖なども伴っているので、この女性は「特別な地位」にいたといわれていますが、本当なのでしょうか。
 また、千葉県の古作(こさく)貝塚では、蓋つきの壺型土器に大小20個の貝輪が大事にしまわれた状態で見つかっています。
 祭りや特別なイベントの際に少女たちが身につけるための共同体の財産だったのでしょうか。

 080915_052_3 製作実験で、失敗作の山の中から、無事4個の貝輪が完成しました。
 この完成品を実際に腕にはめてみようをしましたが、私の手が通ったのは、4個のうち1個のみ。 でも、10歳の女の子の腕には4個とも入りました。
 このとき気づいたことは、2個目を装着したとき、チャリンと2個の貝輪が触れ合うきれいな澄んだ音が響いたことです。
 4個とも腕に通し、リズムをとって腕を上げ下げしてもらうと、シャカシャカシャカシャカシャン、シャカシャカシャンと、よい音色が実に心地よく、これはきっと踊りの際に身につける一種の楽器だったのではと思いました。

 音としては、風鈴、または短冊の形に切った竹や木の一端をひもで縛り合わせた民俗楽器の「びんざさら」に似ています。

 「ささら」は中世の田楽踊りになどで盛んに使われ、近世には、笛や太鼓の派手な楽器にとって代わられて衰退していきますが、踊り手が慣らす楽器として「ささら踊り」や盆踊りなどに根深く残っています。
 そして「ささら」の木片が隣の木片へと次々に衝撃を伝えるとき発する「シャ」という擦過音に近い打音は、きっと貝輪をたくさん着けた腕を振りながら踊る音と共通するように感じます。
 
 ただし、「ささら」は手に持って鳴らすもの。身に着けて踊って音を出す楽器の民俗事例はそう多くはありません。
 古墳から出土する鈴釧(すずくしろ)が最後でしょうか。
 石川県和田山古墳出土の鈴釧は、貝輪の形の腕輪に9個の鈴が銅で一体に鋳造されたもの。 大陸からもたらされた金属工芸のわざが、伝統的な貝輪に融合しています。
 鈴釧にしても、銅環の複数装着にしても、そしてそのルーツの貝輪にしても、それらを身につけて踊りながら鳴らされる音は、まさに神を呼び、魔を払う神秘的な響きであったことでしょう。

 貝輪は、アクセサリーとしてだけでなく、縄文の初めから、装着して踊る際の宗教的な楽器として機能したがゆえに、楽器・装身具から宝器へとその姿を他の素材に移しながら、その形は古墳時代にいたるまで珍重されてきました。
 貝輪のもつ「楽器」=魔力の記憶は、いつしか音を失っても貝輪の形にひそかに受け継がれてきたのだと思います。

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2008年9月11日 (木)

I-13 「栗谷古墳」ってどこ? 見つかった半世紀前の調査記録

 この夏は、八千代市教育委員会が発掘していた「平戸台8号墳」調査のおっかけで、実に充実した時を過ごさせていただきました。(「追っかけられた」調査担当者のT松さんには、はなはだご迷惑をおかけしまし、ごめんなさい。)
調査過程の内容は「=姿を現した八千代市平戸台8号墳=その発掘調査と見学ルポ」をご覧ください。
 

 さて、この秋発刊する予定の八千代市郷土歴史研究会の研究機関誌『史談八千代』の原稿でこの調査速報をレポートするに当たり、平戸台8号墳の特徴である「後期群集墳・板石組合せ箱式石棺・追葬」、そして市毛勲氏の言ういわゆる「変則的古墳」(主体部が墳丘裾部にある)に関してその類例を文献で調べていくうち、「阿蘇村栗谷古墳」という文字が目に飛び込んできました。

 図書館で借りた中村恵次氏の追悼遺稿集『房総古墳論攻』に載っていた「千葉県における後期古墳―とくに群集墳の分布・内部施設被葬者について―」という1961年の論文の中に、「類例を若干あげるならば、印旛郡印旛村油作一号墳・同阿蘇村栗谷古墳・香取郡昭栄村地蔵原一号墳・・・・」と古墳名が列挙されています。

 ひとつひとつの古墳名に出典文献の註が付いていて、大川清1954「千葉縣印旛郡阿蘇村栗谷古墳」『古代』第11号とあります。そうか、そのころ八千代市は印旛郡阿蘇村だったんだ!

 実は、「保品栗谷古墳」という古墳名が、八千代市の遺跡一覧と、1979年刊『八千代市の歴史』にあり、そこには次のように書かれています。
  名称:保品栗谷古墳
  所在地:保品栗谷
  立地:台地先東北端
  形式:不明2基
  大きさ:不明
  内容:明治・大正時代に破壊され、人骨や直刀などが出土したという。その後昭和47年土取りのために消滅した。周辺は土師器の散布が多い。

 その後、八千代市史編さん委員会が編集した1991年の『八千代の歴史 資料編 原始・古代・中世』と、今年出た『八千代市の歴史 通史編 上』にも記述がなく、公式の記録から姿を消し、幻の古墳となっていました。

 『房総古墳論攻』のコピーをT松さんに渡し、「栗谷古墳の出典が載っている」とお話しすると、さっそく、この『古代』第11号のコピーを届けてくださいました。

 内容は、栗谷古墳は戦時中の開墾により封土が削られて開棺されてしまった古墳で、戦後間もなくのころの調査では、棺は蓋石3枚、左右各3枚と前後1枚の側壁、底石4枚の緑泥雲母片岩で築造した長さ約180㎝幅約65㎝の組合式石棺で、内部には長刀3口刀子3口、鉄鏃若干、玉類のほか、人骨が2人分以上検出されていました。
 また棺の位置が地表下にあることから、「封土の裾近くに位置する類例に所属するもの」と推察しています。また北西50mの位置にもう1基、封土が削られ破壊された石棺が土中にあるそうです。

 活字は旧字体で、遺物の絵もとてもレトロですが、2段組み5ページにわたる詳細な報告で、断片的にしかわからなかった栗谷古墳の姿が、平戸台8号墳の姿とともに鮮明によみがえってきました。

 また、先日『八千代市の歴史』のこの項を書かれた村田一男先生から滝口宏編『印旛手賀』復刻版の昭和26年のページのコピーをいただいていたことも思い出し、読み直してみると、11行ほどの記述ですが、栗谷で行われた石棺調査の遺物などが要領良くまとめられてあり、末尾に「本調査は、この地域としては学術調査の非常に少ない場合の一例として貴重な資料を提供するものであった」と書かれています。

 さて問題は、古墳の場所です。
 「阿蘇郵便前を約弐粁ほど北進すると、道は印旛沼の岸に出るため䑓地上から下り坂になる。坂を下りおわると、道は東へと折れて保品の部落に通じる。
 この坂を下りきったところの西側に、道路から水田をへだてて標高二〇米の䑓地の端近く二基の古墳があり、その一基が本墳である。」

 大川清氏の論文には地図がなく、上記のように行き方が丁寧に記述されています。開発で道も地形も大きく変わってしまった地域ですが、10年前に八千代市郷土歴史研究会で行った古道調査のフィールドワークの経験で、たぶん東京成徳大学の前の坂を下りきった神野入口の左手台地だとわかりました。

 現在そこには老人ホーム「八千代城」がそびえ建っていて、その手前下には、偶然にも上谷・栗谷遺跡調査を行っていた八千代市遺跡調査会のプレハブが空き家のままになっています。

080910_001_3
 「八千代城」の旧地権者の方の家を、知人の八千代市郷土歴史研究会のメンバーのご紹介でお訪ねすると、「確かに八千代城敷地のやや左寄りの場所です」とお答えくださり、また「先代が調査の記念にと仏壇の下にしまってあった資料があるから」と見せてくださったのは、まさしく『古代』第11号の大川清氏の論文でした。

 ところで、現在遺跡の場所とデータを調べるためには、インターネット、特に千葉県の場合「ふさの国文化財ナビゲーション」を使っていますが、最近、奈良文化財研究所の遺跡データを非公式に利用している「遺跡ウォーカー」というすぐれものがあります。

 Googleの航空写真が出るので便利ですが、その位置は若干アバウト。(中には海の中のとんでもない場所を指す遺跡もありますので、要注意)
でも「栗谷古墳」でキーワード検索すると、詳細データとだいたいのこの場所が出ます。(でもちょっと北西に寄りすぎかな?) 重要な遺物データは入っていませんが、県文化財地図データにはちゃんと遺構だけはリストアップされていたのですね。

74s_3    1974年の航空写真と比べてみて地形の変化が大きいことに、今更ながらびっくりしてしまいます。

 平戸8号墳のおっかけで、偶然巡り合えた「阿蘇村栗谷古墳」。
 地域の小さな調査データでは、市町村合併や文化財担当係の世代交代で散逸してしまうことも多々あると思います。
 特に戦後間もなくの報告は、アブナイですね。

 今回、中村恵次氏の追悼遺稿集がきっかけで見つかった大川清氏の論文、旧家の仏壇に大切にしまわれていたことと合わせ、また滝口宏編『印旛手賀』の記事とともに、五十年近くたって今、また陽の目を見たことを喜びたいと思います。

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2008年5月19日 (月)

F-3 「おちゃわん」考

080427_009s_2 「ご飯を食べるため左手に持つものが、おちゃわん」と子供のころから言われてきた「茶碗」。
 ご飯を食べる器がなぜ「茶碗」といわれるのか、それがわかったのは、茶道(裏千家)の先生から茶器に関するうんちくを傾聴した中学のころだったでしょうか。
 人のなせる技と自然の力が微妙にミックスしたやきものの不思議な美の世界には、今も関心があります。

 先日、東京国立博物館の薬師寺展を見に行った際、「特集陳列・高麗茶碗」の展示(~2008年7月27日)をついでにのぞいてみました。

 080427_016s_2これは、「魚屋茶碗 銘さわらび」。(「さわらび通信」の名にこじつけたて撮ったわけではありませんが、)小堀政峯(1689~1761)が、箱の蓋裏に「さわらびのもえいづる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけり」 (源実朝『金槐和歌集』)と記した名品だそうで、春霞のような釉薬の淡い景色が素敵です。

 

 ところで、「おちゃわん」といううつわの世界に話を戻します。

 「白粥の 茶碗くまなし 初日影」 (内藤丈草・1662~1704・尾張犬山藩士であったが病弱のため致仕し僧侶になる)

 茶器の「茶碗」がご飯を食べる器として転用されて、陶磁器の「お茶碗」でご飯を食べるようになったのは、江戸ではいつ頃のことでしょうか。

 高原町(台東区寿町二丁目)の地名のいわれに「此地承応二年(1653)旧幕府茶碗用達人高原平兵衛ト云者ノ賜地トナリ高原屋敷ト唱ヘ来タリヲ明治二年町名トス」 (東京府志料)
 随見屋鋪(中央区新川一丁目)のいわれに「同所新川一の橋の北詰、塩町の辺、その旧地なりといへり。このところに瀬戸物屋多く住せり。ゆゑに、茶碗鉢店とも号く。あるいは、随見長屋ともよべり。」 (河村瑞賢、1617~1699。『江戸名所図会』)
とあり、そのころ江戸では陶磁器が流通しはじめていたと思われます。

 それまでは、弥生時代以来、飯椀、つまり木のお椀でご飯を食べていたのでしょう。
 (Wordの漢字変換もよくできていて、「飯」と「茶」のわんの字はちゃんと書き分けている!)

 縄文時代以来、漆器を含む木の器が日本の食文化を代表する食器であったはず。 現代も正式な本膳などは漆器に限っていますし、江戸時代の大奥でも陶磁器のお茶碗は、夜だけでの「お夜食茶碗」であったとか。
 「瀬戸物」(関西では「唐津もの」)が民間でも使用され始めたのは、さらに寛政以降のことらしいです。 (大河ドラマの関連で読んでいる『天璋院篤姫』徳永和喜著にそう書いてあった)

 080202_027s「晴れの日」用の椀は、壺・平・汁・飯の四つの蓋つき椀「八十椀」 (蓋付で8点だから「八重椀」というのは間違いか?)が基本で、民俗事例として20客揃いの八十椀を各講中で共有する「貸椀制度」がありました。 (『民具研究ハンドブック』S60・雄山閣出版)

 明治以降、山林が入会から国有になって伐採が不自由になり、木地師が定住して農家に転じてしまうと、木器の生産は急に減り、代わって陶磁器の生産がふえて日常生活にゆきわたります。 (『日本の生活文化財』S40・第一法規出版)
  どの家でも、お茶碗でご飯を食べるようになったのはそのころ。また木器にかわるちょっとぜいたくでプライベートなお茶碗は、また個人によって使い分ける銘々器の始まりでもあったと思います。

 080202_056s江戸の足軽屋敷などの発掘調査現場では、お茶碗を含む多量の陶磁器が考古資料として出土します。
 木器より残りやすいということもありますが、江戸では少々余裕のある家では、美しく衛生的な「せともの」が元禄時代から、食膳をにぎやかなものにしていたことでしょう。

⇒右のふたつの画像は、「御先手組」屋敷跡 東大追分学寮跡発掘調査見学会 で撮影(2008.2.2)した出土陶磁器です。

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2008年3月23日 (日)

I-12 国史跡・下総小金中野牧跡の今後に注目

080322_028s  昨日(2008.3.22)、鎌ヶ谷市での下総小金中野牧跡国史跡指定記念のシンポジウムと現地見学会のお知らせをいただいたので、八千代市郷土歴史研究会のメンバーと誘い合わせて参加してきました。
 天候にも恵まれ、午前中の現地見学会は90名近くの参加があり、フキノトウやヒガン桜も咲いている中野牧「捕込」跡を歩き、その遺跡の持つ歴史や植物観察の見方を解説していただきました。

 下総小金中野牧跡は、江戸幕府が軍馬供給をまかなうため慶長年間に設置した小金牧の一つの中野牧の遺跡です。
 080322_061s原野に放し飼いされた野馬を捕獲選別する施設である「捕込」(とっこめ)や、野馬が牧外に逃走するのを防ぐための「野馬土手」(のまどて)が、昨年、牧跡として全国でも初めて国指定史跡になりました。 詳しくは⇒Wikipedia -小金牧

 中野牧捕込跡は、高い土手で区切られた3つの区画からなり、その残された姿は一見、中世城郭跡に似ていました。

 午後からはその国指定一周年を記念して、『野馬のいた風景~地域に愛される史跡を目指して~』と題したシンポジウムが開かれました。

080322_088s  このシンポジウムを通して感じたことは、遺跡の保存と活用を考える上で、この中野牧跡の国史跡への過程に学ぶことが多いということです。
 まず第一に、都市計画道路の用地であったこの遺跡の文化的・歴史的価値を所有者の方々が理解し、道路計画を変更させ、1967年千葉県の文化財に指定、そして、開発ラッシュの時代をくぐりぬけ、ようやく保護の対象となった経過です。
 第二に、こうした現地説明会や展示会、シンポジウムを重ねて、積極的に遺跡の持つ価値や活用法をともに考え、文字通り「地域に愛される史跡を目指して」鎌ヶ谷市の職員と市民ボランティアが積極的に活動している姿です。

 八千代市にも下野牧の野馬土手があちこちにあったのですが、今は大和田新田と船橋市の境に低い土手がかろうじて残っているだけです。
 鎌ヶ谷市には初富小学校前に桜並木の土手が残っていて、こちらも捕込と一緒に国指定史跡になりましたが、住宅街と畑の混在する台地のあちこちにじゃまな?土手がなぜあるのか、住民にとってこの不思議な風景が、こうした活動を通じ、その謎が解き明かされ、残された貴重な自然と文化遺産に愛着を持つ存在となりつつある、そんな予感を感じました。

080322_037s 遺跡が保護されたからといって、ただのやぶ山の状態で放置することは、治安や生活環境の問題がおこりますし、第一にもったいない。残された捕込の跡を、「薬草の丘や、ポニー牧場 にしたら」という提案もシンポジウムでされましたが、遺跡の活用は自治体と 住民にとって大きな宿題でもあると思います。
 佐倉市の井野長割遺跡や柏市の松ヶ崎城跡、そしてさいたま市の馬場小室山遺跡。
 遺跡の活用という宿題は、みんなで考えることに意味があると思いませんか。

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2008年2月11日 (月)

Y13 弥生のお鍋と上手なご飯の炊き方

 さいたま市馬場小室山の縄文遺跡や八千代市栗谷の弥生遺跡に関わって3年半。
考古学のプロ方々に土器の見方、それもかなりマニアックな土器型式と編年を手ほどきいただき、土器を学ぶことの面白さにはまってしまった昨今ですが、素人の私の目から土器を見る時の関心は、まずは文様を含む「うつわ」としての見た目と機能とでしょう。
 大正のころの「民芸運動」、すなわち『日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出す』という視点に通じるかもしれませんが、やはり「使われてこそ!のうつわの美」を感じたいと思います。

 そう思っていた昨年5月、考古学協会のポスター発表での以下の3点の一連の展示が興味深く、発表者の小林正史さんにマンツーマンで詳しく説明していただきました。

080210t_013 「関東地方の弥生中・後期深鍋の作り分けと使い分け」 
「縄文深鍋のスス・コゲからみた調理方法-胴下部コゲの形成過程を中心に-」 
「スス・コゲからみた弥生深鍋による調理方法-側面加熱痕を中心に-」 

 「甕」といっている弥生土器は、やはりご飯やおかずを炊くお鍋だったのだというすごく当り前のシンプルな定義、そして、東南アジア民族の事例からこの土器でふっくらしたご飯を炊く方法を推定していることにちょっと感動し、いつかまたこの研究の続きをお聞きしたいと思っていたら、千葉県中央博物館でこのテーマの展示「弥生時代の鍋-その作り方と使い方-」と、庄田慎矢さん・小林正史さん・渡辺修一の講演会があり、やちくりけん(八千代栗谷遺跡研究会)のメンバーと誘い合わせ、行ってきました。

 弥生中期後期の深鍋の徹底した観察による黒斑や煤・焦げの付き方の分析や実験から、土器の焼き方、おかずを煮たのか、ご飯を炊いたのか、またどうやってご飯をおいしく炊いたのかという研究から、次のようなことが今わかってきたそうです。

1. 縄文土器は開放型野焼きで、西日本の弥生土器は弥生時代のはじめから覆い型野焼きで造られていますが、南関東の弥生土器は、中期は開放型野焼き。 やがて後期のころは覆い型野焼きが採用されますが、壷は覆い焼き、鍋は開放型というのもあるそう。

2. 深鍋は、3~4リットルを境に小さ目はおかず用、大き目は炊飯用の作り分けがなされたらしい。

3. 弥生時代中期末より側面加熱痕をもつ深鍋が出現、現代東南アジアの民族調査事例から、炊飯の終わりに蒸らし調理した痕と考えられることから、おかゆやおこわではなく、今私たちや炊飯釜で炊くようなふっくらした御飯を炊いて食べていたらしいとのこと。

 なるほどね~。
 ところで、ご飯の炊き方。私は所帯を持った時から電気炊飯器に頼りっぱなしで、はずかしいことにお鍋で炊いたことがないのですが、母は、「電気じゃおいしくない」と、ガスコンロと厚手の文化鍋で炊いています。

 あらためて、「ご飯の炊き方」をネット検索してみると、それぞれノウハウがあるのですが、やはり通は、深めの土鍋に限るらしい。→ 「土鍋奉行」 
 吹きこぼれとコゲができるのが長所であり、欠点らしく、また土鍋の底は釉薬を施していないので、最初はおかゆや野菜を煮て、目止めをすることがコツとか。
 また、ご飯を炊くために必須なのは「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じわじわ時に火を引いて、赤子泣いても蓋取るな」の蓋!
 そして、多少は吹きこぼれてもよいらいしいけど、できれば、首のくびれた文化鍋のあの形がベター。

 そう、煤で真っ黒になっているけれど、おらが村の栗谷遺跡のA080-5の栗谷式のお鍋 、これこそまさしくご飯を炊くために最適のお鍋でしょう。(画像の真ん中の土器)

 それに蓋だってちゃんとこのおうちから出土しています。
 一度、このお鍋で炊いたご飯が食べてみたいですね。

Kuriyadoki

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2007年12月29日 (土)

F-2 中の山古墳(さきたま古墳群)出土の須恵質埴輪壺について

071202_129  12月8日のさきたま古墳群の奥の山古墳現地見学会の際、解説くださった若松良一先生に、歩きながら隣接する中の山古墳から出土した「埴輪壺」について興味深いお話を耳にしました。
 それは、通常の円筒埴輪ではなく、長い胴をした須恵器の壷で、さきたま史跡の博物館に常設展示されているとのこと。
 最近、弥生時代の生活用の壷が古墳の埴輪へと姿を変えることに興味を持っていましたので、耳をダンボのようにしてお聴きし、現地説明会が終わってから展示室で、じっくり拝見、さらに学習室で調査報告書の解説のページをコピーしていただきました。

 中の山古墳は墳丘長79m、剣菱形の二重の周濠を持ち、かつて石棺の如きものが発見されたと伝えられることから別名、唐櫃山(かろうとやま)古墳と呼ばれている前方後円墳です。071208t_041

 若松先生の考察によれば、この古墳から出土した須恵質の壺は底部を焼成前に穴を開けてあり、最低21個体、また須恵質の朝顔形円筒埴輪7個体が、周堀に転落した状態で確認され、本来は円筒埴輪のように墳丘上や中堤に廻らされていたと推定されています。
 ただし、この灰色をした長胴壷は、古墳前期の埴輪壺や底部を穿孔した土師器とは時間的な隔たりが大きく、平底を持つことから別系統で、須恵器の技法によって造られ埴輪的な性格を持っていて「須恵質埴輪壺」の名を与えたそうです。
 系譜としては、百済系の平底壺を大型に製作し、底部を穿孔して仮器化したものという見方を示されておられます。

 その後、エックス線解析した結果、約30キロ離れた寄居町の末野遺跡第3号窯で焼いたものであることが判明。中の山古墳は埴輪が一般に置かれなくなる6世紀末から7世紀初めの築造と推定されることから、時代的にこの埴輪壺は最後の埴輪といえるでしょう。
 この日、口頭では、埴輪の風習が朝鮮半島に伝播し当地で須恵質に変容し、それが百済滅亡など半島情勢の急変による人の移動にともなって、逆輸入された可能性も示唆されておられました。
 壺型&器台型埴輪から形象埴輪へ、そして時代の変遷でいったん廃れ、またその終末期に埼玉の地で、姿を変えて埴輪壺として一時的に復活する現象は面白いですね。

 なお、桃崎祐輔氏の「笊内37号横穴墓出土馬具から復元される馬装について」という報告で、大分県日田市の天満天満2号墳では、埼玉中の山古墳のものと類似する須恵器埴輪壺も出土していると追記されています。

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2007年11月20日 (火)

J-4 ヲサル山遺跡の注口舟形土器の不思議

S  今年も、八千代市郷土歴史研究会の「ふるさとの歴史展」と『史談八千代』32号刊行が近づいてきました。
 テーマは、昨年度に続き「大和田新田の総合研究・Ⅱ」で、私は、例年担当の民俗分野の研究に加え、今年度は「埋蔵文化財調査からみた原始・古代の大和田新田の姿」を発表します。
 実を言うと、大和田新田地区は、東葉高速鉄道の開通により八千代市でも近年の開発が一番激しいエリアで、大規模は発掘調査にともなって山積みの調査報告書が刊行されてはいるのですが、その調査成果は一般市民にもあまり知られていないようなのです。
 S_2 私にとって、考古学分野のレポートは初めてなのですが、貴重な調査報告に対し、市民自らが学ぶということを実践する良い機会だと思って、千葉県文化財センターの図書室に通い、報告書の山に挑戦してみました。
 出土遺物については実物を見たくても、ほとんどかなわなかったのですが、その中で、ヲサル山遺跡出土の注口舟形土器だけは、八千代市郷土博物館に展示されているので、許可を得て撮影することができました。
この注口舟形土器は縄文中期の阿玉台式ということですが、とても不思議な形をしています。注口土器といっても、土瓶のルーツのような後期晩期の注口土器とは違って、浅く広口で、どっしりしています。
 果実酒の上澄みを取り分けたのかしら、などとその機能を勝手に想像してみたのですが、他に類例が見いだせない珍しい形らしく、その筋の専門家にお聞きしても、文献をあさってみても、どういう土器なのかわからずに、『史談八千代』の原稿提出の締切は過ぎてしまいました。

 Photo その後、10月20日刊行されたばかりの『日本の美術』497号(縄文土器中期 土肥孝)をぺらぺらめくっていたところ、福島県只見町の水差形土器の写真が載っていて、中期の「この形態は『急須形・土瓶形』として(後晩期へと)継続していく」と書いてありました。注口舟形土器はもちろん載っていませんし、また水差形も系譜がたどれるほどの事例がなさそうなのですが、やはり筆者も「中身は麻酔作用をもたらす薬液や酒の類であったと考えている」ようです。

 さて、この水差形土器と注口舟形土器、その側面の形は水鳥に似ているとは思いませんか。
先日(10月14日)、早稲田大学での「縄紋社会をめぐるシンポジウムⅤ-縄紋社会の変動を読み解く」で、高橋龍三郎が「イノシシ形土製品と並んで、獣形(美々貝塚で出土)とか亀形土製品があるが、それは『トリ』の形をデフォルメしたのではないかと、設楽先生などが提案されている。 日本列島には、イノシシ族とトリ族という半族があって、そのシンボルとしてのイノシシとトリの土製品が残された」という、面白いお話をおうかがいしました。
 S 酒を酌み交わすような儀式や祭りで使ったとしたら、そこには「半族」のシンボルがあってもよさそうと思うのですが、いかがでしょう。

 (写真は真脇遺跡の鳥形突起付土器 『日本の美術』497号

 このブログを見てくださっている方で、中期の浅い注口土器の事例などをご存知でしたら、ぜひご教示いただきたく思います。
 そして、11月24-25日、ふるさとの歴史展にも足をお運びいただければ幸いです。

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2007年10月28日 (日)

F-1 長い頸の「壺G」の謎

071027_084_5   先日、国立歴史民俗博物館で企画展「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」を見てきました。
 その中で、注目したのは、最後のほうに展示されていた「壺G」という地味な須恵器です。
 壺Gは8世紀末から9世紀初頭に静岡県の花坂島橋窯と助宗窯で生産された長頸壺のことで、企画の主旨としては、「特異な形式をもつ壺Gの移動に代表される物流の進展」を示し、長岡京とそのころの東北支配の拠点地と東日本で多く出土していることを強調していました。
 私がとても興味をもったのは、武蔵国府などのほか、佐倉市や酒々井町と並んで、八千代市の村上込の内遺跡など身近な古代集落からも出土した壺Gの展示、そして「壺G」と呼ばれる不思議な名前と、展示プロジェクトの一員の山中章氏の図録解説にあった「堅魚煮汁容器説・水筒説・徳利説・花瓶(ケビョウ)説など諸説あって定まらない」というその用途の謎でした。
 私は花瓶説が一番しっくりするように感じられましたが、山中氏の解説では「自立しにくい製品が多く、ぶら下げて使用したと考えられる」とのこと。(実際に見てみるとそんなことはないと思うけど・・)

 そして、壺Gの本場、静岡県に行くことでもあったら気にとめて見てみようと思っていた矢先、偶然にも壺Gの研究をされている佐野五十三氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所)に実物を見せていただきながらお話を聞く機会に巡りあいました。

071027_083  まず「壺G」という名は、奈良文化財研究所が壺Aからアルファベット順につけたちょっと珍しい須恵器壺の一つだということ。(なあ~だ。そうだったのか)
 形は太型から中細~細型まで、ちょっとだけ型式変化するようですが、いずれも高さ20㎝位の細長い形で頸が長く、堅牢で優雅な形だが作りは雑のようです。
 分布は、平城・長岡・平安京の旧都から東海・関東に多く分布し、東北の数か所の城や柵でも見つかっています。
 わが八千代市では、村上込の内遺跡のほか、井戸向、北海道遺跡など萱田の集落から出土しています。

 さてその用途ですが、佐野五十三氏の説は仏教用具としての花瓶説。
 そういえば、私は2004年9月、古代の十一面観音像に惹かれて、滋賀県や若狭の観音霊場を巡りたずねました。その時拝観した渡岸寺十一面観音羽賀寺の十一面観音の持つ花瓶が印象的でしたので、仏像の持つ花瓶に着目した佐野さんの説にはとても納得しています。

 佐野さんは千葉県袖ヶ浦市の遠寺原遺跡、群馬県十三宝遺跡のなどの仏教施設遺構からの出土例から、「行基などによる仏教の東国布教」にも関連付けておられます。
 そういえば、八千代市の萱田遺跡群では瓦塔や奈良三彩の小壷や小金銅仏、そして「寺」「仏」の墨書土器など仏教関連の遺物も多く出土しています。
 壺Gに花一輪添えて仏前に供えていた村の人々。寺といってもささやかなお堂だったかもしれませんが、少しばかり古代の村の姿を豊かに想像させてくれる一品ですね。

 さらに壺Gについては、なぜ産地限定で短命だったのか、東日本に分布が偏るのかなど、謎が残るようですが、今後の検討に期待しましょう。

写真は、静岡県の寺家前遺跡(上)と川合遺跡(下)出土の壺G (筆者撮影)
十一面観音像は、秘仏のため撮影禁止ですので、各自治体のHP画像に許可を得てリンクしています。

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2007年9月28日 (金)

I-11 幻?の環濠集落・田原窪遺跡

 11月24~25日の八千代市郷土歴史研究会の市民文化祭での展示発表が今年も近づいてきました。
 今年度は、ふるさとの歴史展「旧村のいま・大和田新田のすがたⅡ」として、たぶん私はその時刊行される『史談八千代』32号に書いた「民俗行事にみる旧村の伝統と新しい街・大和田新田」と「埋蔵文化財調査から見た大和田新田の原始・古代の姿」の二つのテーマを担当しそう?です。
 9410801s_2 後者は、郷土史展としてまれな考古学分野のテーマですが、過去の展示ポスターを整理していて、実は13年前、市内の遺跡の現地説明会のルポを展示したことを思い出しました。

  それは1994年10月8日に行われた田原窪遺跡の現説と、10月22日の間見穴遺跡の現説の速報ルポでした。
 いずれも佐山貝塚のある舌状台地にあるのですが、八千代市遺跡調査会で調査された田原窪遺跡は弥生中期の遺構、千葉県文化財センターで行われた間見穴遺跡は、帆立貝形や円墳からなる古墳群で、両者ともに興味深い遺構でした。
 特に、そのきれいな円弧を描く見事な環濠遺構が眼前に出現していた田原窪遺跡は、私にとっては八千代市の先史時代の遺跡に興味を持ったきっかけになった遺跡です。
 西日本で盛んに築かれた(=掘られた)環濠集落遺構ですが、関東では横浜市の大塚・歳勝土遺跡が一部保存されていて有名です。9410812s

  その環濠が八千代市市域でもみられるということは、当時の私にとって「重大事件」でした。
 その時の写真を探していたら、やっと資料と一緒に出てきました。
 まだデジカメなんて考えられない頃で、性能の悪いカメラで撮った写真は色あせていましたが、環濠も宮ノ台式の土器もその時の感動そのままに残っています。
 さっそくスキャナーで保存しておきました。

9410803s3_2 ところで、この田原窪遺跡ですが、発掘調査後埋め戻され、「大学町」という住宅街になってしまいました。
 緊急発掘ですからやむおえないことですが、問題は「その後」です。
 なかなか調査報告書が発行されないのでどうしたのかしらと、埋文行政にたずさわっている方にお聞きしたところ、住宅開発を行った業者が倒産してしまい、整理に必要な費用が宙に浮いてしまっているのだそうです。

 今も整理に精を出されておられる担当の方もいらっしゃるし、いくらお金がないといっても県下でも貴重な遺跡ですから、市民に情報を明らかにし、その声を市政に反映させれば善処の余地はあると思います。
  ともかく一日も早く調査の中身を見たいですね。

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2007年8月15日 (水)

R-1 浦上の「被爆マリア」によせて=戦争責任の「主語」

Dscf01042001年11月、まだ始めて間もないころの「さわらび通信」に『平和への使節=浦上の「被爆マリア」』をアップしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/5hibakuseibo.htm

1999年に長崎のキリシタン史跡を探訪した際、そしてその翌年の2000年原水爆禁止世界大会のため長崎を訪れた際に、浦上天主堂で拝見した被爆したマリア像についての思いをつづったページです。
その中で私は浦上教会の信徒さんからお聞きした言葉を、次のように書きました。

『被爆したあの日のことを浦上では、「五番崩れ」という。
「浦上四番崩れ」は明治新政府により、浦上のキリシタン信徒が村ぐるみ流罪に処せられた事件。 「四番崩れ」で壊滅し復興した町は、再び「五番崩れ」の原爆で廃墟となった。
「ここに原爆が落とされたのは、雲の切れ間にこの町が見えたというその日の天候だけが理由で、本当は他の軍都や大都会が目的だったらしいのです。 山の谷間のような地形のここでなく、広い平野の町だったら、このなん百倍もの被害が出たかもしれない。浦上は、人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町だったと思います。」と問わず語りにおっしゃられた。』

その後、「主語」と題して、わたしの記事を引用し、あえて疑問と批判を記した「Journal Hababam」というブログ見つけました。2003年の長崎原爆忌の日に書かれた記事です。
http://fikrimce.sharqi.net/journal/2003/08/0922.html

Dscf0123_2 「原爆使用については、戦争を終わらせるためだったとかなんとかもっともらしいことが言われてるんだろう。わたしはそれが正当な話かどうかは知らない。(中略)
アメリカはやっちゃいけないことをした。許されないことをした。犠牲者はほとんど一般市民だった。(中略)こんな無差別大量殺戮をやらかした国は他にない。(中略)
反米感情を煽ろうと思って言うわけじゃない。でも、この行為の主語やその意味は決してあやふやにしてはいけないと強く思う。」

この率直なご意見に私は「もっともなこと」と思いましたが、その時はあえてネットにその記事に対してのコメントを発信することは控えました。

「世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町=浦上」という言葉は、「長崎の鐘」の著者永井隆博士が被爆直後の合同葬で読まれた弔辞の趣旨でもあります。
浦上はキリスト教徒の町であり、江戸時代そして明治になっても厳しい宗教弾圧とそれゆえの理不尽な差別を負ってきたという歴史がありました。
追撃ちのように浴びせられた「キリシタン=浦上=悪者=天罰」という差別と偏見は、被爆した信徒に、立ち上がれないほどの心の痛みをさらに与えました。
博士があえて「平和のための尊い犠牲」と表現された言葉は、この絶望のふち にある被爆信徒に励ましと希望を与えるものであり、当時の過酷な社会背景をふまえることなしに、安易に語れなかったからです。

とはいえ、「Journal Hababam」で書かれているように、けっして、「主語」をあやふやにしてはならないことです。
今年6月30日の久間章生防衛相の「しょうがない」発言(「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」)は、「Journal Hababam」氏の懸念そのものでした。

私のHPの文章は、たしかに大事な「主語」を欠いていました。
2007年8月15日のこの日に、やはり言っておかなければなりません。
広島と長崎に原爆を投下したのはアメリカ軍であり、「国体護持」にこだわって終戦の判断を遅らせ、沖縄・広島・長崎の被害を拡大したのは、天皇と軍部の責任です。
まさに「戦争は人間のしわざ」(ヨハネ・パウロ2世)なのですから・・

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2007年5月26日 (土)

M-2 西アジアの遺丘(テル)の風景と最古の女神像

070526_016s

  今日(5/26)午前中は、五月祭でにぎわう東京大学へ出かけ、東大総合研究博物館で今日から開催の企画展「遺丘と女神-メソポタミア原始農村の黎明」を見てきました。 (残念ながら、会場は撮影禁止ですので、会場内の画像はありません。館の公式HPも図録もまだできていません)
 展示の主人公はシリアのテル・セクル・アル・アヘイマル遺跡から出土した約9000年前の女神の土偶。「メソポタミア地域最古の写実女性土偶。初期農耕民の信仰が分かる」のだそうです。
  070526_002s高さ約15cmぐらいで未焼成ですが、泥をクリーニングして現われた顔は、ポスターの未整備な姿とは違い、目鼻立ちくっきりの艶やかな面差し、後姿は長野県棚畑のヴィーナスさながらの丸くぷっくりしたお尻が印象的です。(6月10日まで実物を展示、以後はレプリカ)

 もうひとつこの展示で、印象深かったのは、「遺丘(テル)」の姿。
 会場のプロローグを飾るは、1956年のテル・サラサートの写真と江上波夫先生の詩でした。

 070526_004sテル・サラサートの丘に立ちて
               江上波夫

  この遺丘(テル)は村落(むら)の亡骸
 村落(むら)に生まれ 村落(むら)死し
 代代(よよ)の村落(むらむら) その亡骸を
 ここに埋め 積み重なりて
 風悲しき丘となれり

 黄泉(とこつよ)のこの村落(むら)むらの
 070526_011s萱ぶきの屋根は崩れ
 泥土の壁も空しく
 土台(つちくれ)のみ積み重なりて
 家々の骨格(ほねぐみ)を露わす

 住み人は 老いも若きも
 冷たき床に永遠(とこしえ)の沈黙(しじま)にたえ
 壁際のパン焼竃に
 火は消えて六千有年
 ティグリスの曠野に
 人知れず横たわる
 
この村落(むら)むらの亡骸

 われらいま 科学の魔杖もて
 この村落(むら)むらの亡骸に
 光と 動きと 言葉を与え
 この遺丘(テル)をして 
 現世(このよ)に 鳴動せしめんとす

 会場の真ん中にも大きな遺丘(テル)モデルと遺丘断面パネルが立体的に表現されています。
 この風景はどこかで見たはず!
 そう! 発掘調査直後の馬場小室山遺跡、そして栃木県の寺野東遺跡のジオラマ模型の姿そっくり。
 2005年10月1日馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」で、明大の阿部芳郎先生が『「環状盛土遺構」より、「遺丘集落遺跡群」』と定義したほうが良いと提起された遺丘(テル)の実像に少しでも触れることができたように感じました。
 070526_058s(ただ、遺丘モデルの裾に置かれたらくだの模型の小ささで推し量ると、その規模は十何倍も違いますが・・・)

 そのほか「メソポタミアの最古の土器」、線刻や黒と赤で彩色された紋様があざやかな「メディアとしての土器」なども、日本列島の縄文紋様の土器に思いを馳せながら、興味深く観てきました。

  総合研究博物館を出て、息子のかかわっていた文芸サークルの五月祭展示会場にちょっと寄って、午後からは、お茶の水の明治大学へ赴き、日本考古学協会の公開講演会を聴き、駅への帰り道、お茶の水クリスチャンセンター4階の聖書考古学資料館に寄ってみました。

 この資料館の開館は月曜と土曜の午後1~6時までで、そのほかの日はいつも閉まっていますが、今日はちょうど開いていて、ラッキー!
 シリアからイスラエル~エジプト~ローマの古代遺跡と遺物(ブラック・オベリスク、粘土板文書、円筒印章、壷・碗などの土器、土偶など) が展示されていて、さらに膨大な旧約聖書の背景となる西アジアの考古学資料を身近に親しむことができました。 (ここも撮影禁止です)
 解き明かされる最古の人類の歴史、考古学協会の講演会も含め、その文化の源流を訪ねる一日でした。

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2007年4月22日 (日)

M-1 行ってきました!国立東京博物館の レオナルド・ダ・ヴィンチ展 

070421_041_2 昨日の土曜日(4/21)は、久しぶりに「遊んで」過ごしました。

行った所は国立東京博物館の 特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ-天才の実像」
今、街中も駅も、小さな博物館も教会も、レオナルドの《受胎告知》のポスターやチラシであふれているし、NHKも朝日新聞も特集報道で真っ盛り!
近頃は、ちょっと込みそうな特別展は金曜日の夜の延長開館など利用し、人ごみをかきわけてとか、行列を作って並ぶなんてめったにしないのですが、今回のダ・ヴィンチ展は、ダメモトで申し込んだ記念講演会(池上 英洋 氏「レオナルドで知るルネサンス―波乱の生涯と、激動の時代の魅力」)の入場券が抽選で当たったので、一番込みそうな土曜日の午前中から出かけることにしました。(→混雑状況

070421_022_1 有名な美術展は、駅を下りた時からなんとなく興奮するのですが 、桜の花から新緑へと景色の変わった上野の公園も、動物園を過ぎるとほとんど東博へ人が流れて行くよう。
門を入ると、本館から東洋館の端までずっと人の列、「ここが本館の「受胎告知」の40分待ちの最後尾」と案内しています。聞けば、第2会場の平成館の方は、まだそんなに並ばなくてもよいとのことなので、まずは、先にそちらの会場から見てまわりました。

フィレンツェのウフィツィ美術館で開催されていた企画展「The Mind of Leonardo 」をアレンジした特別展で、ダ・ヴィンチの「手稿」を元に、彼の創造世界を解き明かす試みが、実験模型の再現やCGによる映像などでふんだんに紹介されています。

070421_032その中でも興味深かったのは「《最後の晩餐》における心の動き」の映像。キリストへの裏切りが告げられると使徒たちがそれぞれ個性的な反応を示す、その反応を劇的なイメージでひとつの作品に描いていることをCGで表現しています。

もう一つは「調和のとれた動き、プログラムされた動き」の例として、3つの連続した動きを調和させた作品《聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ》の紹介。一枚の絵の中に、幼子イエスの身を投げかけるようなしぐさ(後の受難の予見)、母マリアの思わず抱き戻そうとする動き、そしてマリアの母アンナが天を指し示しイエスの犠牲が神の意思によるものとマリアに気づかせる動作が描かれています。

遠近法や光と影の使い方などの技術を駆使して三次元の立体像を二次元に表現することの難しさもさることながら、一瞬をとらえた絵の中に動きと物語性を持たせるなんて本当にすごいことだと、ただただ感心してしまいました。
時系列的な物語性の表現としては、「信貴山縁起」など何枚かの絵に描き分ける絵巻のような表現形態もあるのでしょうが、人の能力の限界を超越したレオナルド・ダ・ヴィンチの才能に敬服しました。

池上氏の記念講演では、ルネッサンス当時の戦国社会、ダ・ヴィンチ家の生活や系譜(男女の歳の差のある婚姻、婚外子レオナルドの処遇、産褥死の多さ)などの歴史考証も興味深かったのですが、レオナルドの科学の探求について、解剖などのあった当時は抵抗もあった試みもあえて行ったことの背景には、被造物に働く神の業の法則をその中に見出そうとした彼の信念があったと述べられたことが印象的でした。

さて、講演会も終わった3時過ぎ、30分待ちぐらいになった「受胎告知」の行列の後に並び、本館特別5室へ向かいました。
ポスターやカードで見慣れていた「名画」、やはり本物はさすがですね。
ニスの除去などの修復でよみがえったというこの絵の美しいこと! 
油絵とは思えないほどの精密さと、大胆で奥行きとひろがりのある構図。
でも、列の中で先へ進んで外に出なければならず、うっとりしている間もありません。

また、平成館に戻り、「伝」レオナルド・ダ・ヴィンチ作という《少年キリスト像》などを見たり、休んだりして、午後6時の閉館間際、また本館特別5室へ。このときは最後尾でゆっくり見ることができました。
マリアの美しい表情も、天使の羽も、衣の量感も、背景の山河もすばらしい!の一言ですが、間近で見た地面を覆う草花。緑色ではなく、漆のような黒褐色の地色に、薄い色の葉の線、そして白・青・紫色の可憐な花が描かれています。
この草花を見たとき、思い出したのは、一年前、東京国立近代美術館で開かれた「生誕120年 藤田嗣治展」でのある絵でした。
1枚は《アッツ島玉砕》、もう1枚は《十字架降下》、その暗い色彩の地面にもわずかに草花が描かれていました。また《優美神》の作品では、草花がテーマではないかと思えるほど、丹念に描いています。
晩年レオナードの洗礼名をつけた藤田嗣治は、この《受胎告知》の草花に思うところがあったのでしょうか。
その頃の修復前のこの絵では、地面の草花ももっと暗かったことでしょう。
藤田嗣治は、このめだたないこの草花になにか心引かれていたのではないかと、思い巡らしました。

ミーハーといわれればそのとおりですが、みんなが見たくなるものは見てみなきゃと、私も行列の一員になった話題の展覧会。
4月21日だけで来場者数が1万数千人だったようです。

そういえば、小学生の頃(1959年)、この東博で「正倉院展」を見ました。
高校教師だという友人の父親に、一般より優遇された高校生の団体の列に入れてもらったのですが、それでも一時間以上は並びました。
その時見た鳥毛立女屏風や螺鈿の五絃琵琶、白瑠璃碗などは、その時受けた国際的な古代日本の印象とともに、今でも鮮やかに覚えています。

070421_046並んだということでは、2002年春に行われた巨勢山古墳群の條ウル神古墳現地見学会がすごかったですね。
このときの人出は1万人とか。

楽しかったきのう一日、夕暮れの上野公園を歩きながら、今度はぜひ、ウフィツィ美術館でダヴィンチやラファエロの作品に接してみたいと思いました。

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2007年2月10日 (土)

S-6 弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑、そして発見地点のなぞにせまる

弥生土器発祥の町の名と「向岡記」碑

 2月3日、八千代栗谷遺跡研究会の皆さんと、本郷から東大構内、そして弥生土器の発見ゆかりの遺跡を訪ねました。

 文京ふるさと歴史館と「発掘ゆかりの地」碑を訪ねるとともに、武蔵野台地の東縁で沖積低地との接点にある坂の町を足で歩き、弥生文化の背景となった文京区本郷の地形を体験しようという企画です。 (→やちくりけんブログ)

明治17年、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人が、根津谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見、これが「通常の貝塚発見土器(縄文土器)とは異なる土器」と認められ、発見地の地名を取って「弥生(式)土器」と名付けられたことは、日本先史時代研究史上、あまりにも有名なことです。

070203_111s  司馬遼太郎氏は「街道を行く」で、根津駅から弥生坂をのぼった向が岡近辺について次のように記述されています。

『 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。明治二年(1869)政府に収用され、それでも名無しだった。
 明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
 たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に、「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったことから、弥生をとった。向ヶ岡弥生町になった。
 弥生は、いうまでもなく三月の異称である。奈良朝時代には、すでにあった。
 弥は、「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。
 弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。』

 この碑の詞書の続きは
「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ
 名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」。

 この歌碑がなかったら・・、この「向岡記」碑が弥生(3月)に建てられなかったら・・、碑文が誉めているのは桜の美しい向ヶ岡の地であって、「弥生」はただ記されたそのときでしかないのに、この碑文の建立月にこだわって町の名をつけなかったなら・・、稲作と金属器の「弥生時代」という時代区分は、いったいなんとよばれたのでしょう。
 「縄文」に対する無紋土器、略して「無文」(時代)なんていったらイメージが悪いので、単純に「向ヶ岡」、明治らしく漢文調では「向陵」(時代)だったのでしょうか。

 この見学会の企画に先立って年末に下見に行ったときは、日の暮れるのも早く、東大工学部浅野キャンパスをうろうろ歩き回っても、この碑は探せませんでしたので、2月3日、文京ふるさと歴史館の加藤学芸員にご案内していただき、この碑を校舎の狭い間に伐採した不用の刈り枝に覆われた状態で見つけたときは、感慨深いものがありました。Yayoi_1

   町の名となるほどですから、幕末から明治のころは、きっと拓本を採ったりする文人たちにもてはやされたことでしょう。
 自然石の風雅な石碑ですが、今は酸性雨で上部に刻まれた「向岡記」の文字すらも消えかかり、草書体の歌や詞書もほとんど読めません。でも、かろうじて「夜余秘」の文字(→画像)はわかります。

 加藤氏は、「文化財として覆い屋根をつけるなど、東大さんにも、もっと大事にしてほしいですね」と嘆息されていましたが、私も同感。近世・近代の文化を伝える文化財として、赤門並に扱ってしかるべきだと思いました。

弥生の壷の発見地点のなぞにせまる

 さて、有坂・坪井氏らによる弥生の壷の発見地点は、どこなのでしょう。
 坪井氏の報告や有坂氏の懐旧談にはあいまいな記載しかない上、その後の都市化が進む中で遺跡の位置は判然としなくなりました。

昭和 61年(1986)向ヶ丘弥生町会有志が、「弥生式土器発掘ゆかりの地」という記念碑を建てましたが、「ゆかり」と刻まざるをえなかったのは、発掘地点が謎とされていたからです。

 070203_113s_1推定地としては挙げられてきたのは、
(1)東京大学農学部の東外側、
(2)東京大学農学部と工学部の境(「ゆかりの碑」付近)、
(3)根津小学校の校庭裏の崖上、そして
(4)東大工学部浅野キャンパス内の弥生 2丁目遺跡です。

 『古代学研究』15号-2001年6月で、上野武氏は『「最初の弥生土器」発見の真相-発見者有坂鉊蔵の嘘-』と題して、これまでの発掘成果や、有坂氏の回顧録の記述を詳しく分析し、最初に有坂少年が発見したのは(4)付近で、壷を見せた翌日に同行した東大理学部生坪井・白井両氏が(3)地点と間違えたことに話をあわせ、「正確な場所はわからない」と嘘を通したと結論づけています。

 また、2007年1月12日の読売新聞では、推定地は農学部内の生命科学総合研究棟付近とする原祐一氏の説を紹介しています。 工学部内は当時、射的場で警視庁用地なので気軽に発掘できない。現在の農学部内は、東京府の精神科病院用地で立ち入りは可というのが主な理由です。

 私は、上野氏の「有坂の嘘」説(本当は工学部内)と、原氏の新説(農学部内)の理由を読んで、次のように考えました。

 有坂氏が『「独占の宝庫」として秘密にしたかった(第一の嘘)。』『第一の嘘がばれることをおそれ「遺跡の正確な場所はわかりません」と嘘をついた(第二の嘘)』というのが上野氏の説ですが、私は、考古少年だった有坂氏は、本当は入場を禁じられた射的場の奥に入り、東側の崖際の(4)地点で壷を発掘し、坪井・白井氏に見せたところ、年長の両氏は、不法侵入の疑いをかけられるのをおそれ、「旧向が岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」(坪井・談)と射的場からの方向をごまかして話し、有坂氏は沈黙、晩年になって坪井氏と同様な見解を述べたというのが真相で、自然な流れだと思いました。
 ようするに、射的場不法侵入の証拠を隠すため、弥生二丁目遺跡付近である本当の発見地をあいまいにしたというのが私の仮説です。

参考HP :東京大学総合研究資料館 石器・土器・金属器(日本)5 壷形土器(重文指定)
東京大学埋蔵文化財調査室:本郷キャンパス・浅野地区に遺跡解説板を設置

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2007年1月20日 (土)

T-5 緑なす公津原にのこる古墳は 人びとの生きた証

 1月13日の明治大学古代学研究所公開研究会「古代印波シンポジウム」は、220名という参加者で大変な盛況で、150部の予稿レジメはすぐになくなり、お手伝いの院生さんは一日中レジメの増刷作業に追われていたそうです。
 地域限定超ローカルなテーマを、東京のど真ん中で聞くというのも、私にとって不思議な感覚でしたが、私たちの地元の歴史が考古学と文献史学のコラボレーションで明らかにされていく醍醐味をたっぷりと味あわせてくださった関係者の皆様に感謝です。

 印旛沼の北東部は、『国造本紀』のいう「印波国造」の勢力下にあり、その印波の地域には、東部(成田市)の公津原古墳群と、西部(栄町)の竜角寺古墳群の二大古墳群があります。
 今回の「古代印波シンポジウム」での白井久美子さんのお話しでは、公津原古墳群は6世紀、竜角寺古墳群は7世紀が中心の古墳や集落遺跡が多く、川尻秋生さんなどの発表によれば、7世紀後半になると「丈部(はせつかべ)」と「大生部(壬生)」などの氏族が共存していた印波国造の支配領域は、もともとの印波国造の本拠の印波評(郡)と、大生部直が急速に勢力を拡大した埴生評(郡)との2つの評(郡)に分かれ、その後(8世紀)、この勢力は、八千代市や印西市方面の開発に向かっていったことが、この地域の墨書土器などからたどれるとのことです。

 ところで、このシンポジウムのテーマの舞台になったのは、主に竜角寺古墳群と公津原古墳群。どちらも道のすいている印旛村経由で行くと、勝田台のわが家から車で30分ぐらい行けますが、しょっちゅう行くのは、竜角寺のほうばかり。
 公津原古墳群は本HPでも台方下平Ⅰ遺跡現地説明会と合わせて「=成田ニュータウンの中の古墳群=台方下平遺跡にくらした人々の奥津城を訪ねて」という探訪記を載せていますが、夫はまだ行ったことがないのだそうで、翌14日日曜の午後、気晴らしのドライブがてら、再度訪ねてみました。
070114_026
 はじめに麻賀多神社奥宮に参拝、印波国造・伊都許利命の眠るという津ヶ原39号墳を見学。 坂を登りつめて、三年ぶりに台方下平遺跡の調査地点へ行ってみて、ゆるい斜面の台地が、丸ごと土取りされた宅地造成地になっていたことにビックリ。昨今の開発工事は下総台地の地形をすっかり変えてしまいますが、ここも例外ではありませんでした。 (→画像:台方下平遺跡の調査後の姿)

 成田ニュータウンの真ん中の公民館に車を停め、ボンベルタ・ショッピングセンター内に残された5~7号墳を観ましたが、驚いたのは、ここ数年間でのこの地区の寂れようです。
 成田ニュータウンセンタービルは前から3階以上が空きビルになっていましたが、さらにボンベルタ2棟の大規模店舗のうち東棟が閉鎖され、ゴーストタウン化がよりいっそう進んでしまっていました。
 このニュータウンを造るため、公津原に110基以上あった古墳のうち残されたのは39基。
 開発の犠牲になった多くの古代遺跡の無念さを思いつつ、同時に現代文明の脆弱さを痛感させられます。

 センター広場には「緑と水と太陽のまち 成田ニュータウン」というメモリアルパネルが設置されています。

 「 草萌える北総の台地は070114_054
    永遠の心のふるさと
   緑なす公津原にのこる古墳は
    人びとの生きた証

  水藻にゆれる印旛沼は
   憩いのオアシス
  ナウマン像を追った3万年の昔から
   人びとの命は清冽な水

  宇宙の女神は愛の陽光を
   おしみなくニュータウンの台地に注ぐ
  緑と水と太陽の
   シンフォニーがいま始まる 」070114_072

  成田市にお住まいの大塚初重先生の昭和62年作ですが、この大塚先生のお気持ちが伝わってくるのが、自然地形をそのまま残した赤坂公園内にある船塚古墳(8号墳)です。(→画像2枚:船塚古墳にて)
 特に復元するわけでもなく、大きな古墳の姿が見やすいよう下草を刈って芝を張っただけの整備ですが、幼児が草すべりを楽しんだり、夕方人気がなくなると少年たちが自転車でスリリングな墳頂からの滑走を試みていました。
 神社に祀られている古墳は信仰の対象ですから、こんなことは畏れ多いことですが、ニュータウンの公園内のこの古墳は、子供たちの遊び場として充分活用されているといえば、言いすぎでしょうか。
 印波地域最大の全長85mの山のような古墳の主も、この情景を是として許してくれているように思います。

 天王塚古墳(21号墳)に寄った時はもう夕闇が迫るころ、傍らの弟橘姫の古代伝承の残る吾妻神社に参拝して帰路に着きました。
 街中が遺跡の成田ニュータウン、遺跡との共存と活用が試されているこの街で、いつか「古代印波シンポジウム」の続きが開催されたらと夢みて、今年のお正月最後のフィールドワークとなりました。

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2007年1月 3日 (水)

I-10 あこがれの阿玉台貝塚&良文貝塚

 お正月三が日を、皆様はどうお過ごしでしょうか。
 昨今は東博も江戸博も2日からオープンのようですが、ほとんどの博物館や資料、図書館は4日までお休み。
というわけで、初詣客に開放している寺社仏閣の付属博物館、寶物館を見学し、ついでに、古墳や貝塚、中世遺跡などを探しに田舎道をドライブというのが、わが家の恒例行事です。

 今年は、大晦日の真夜中に地元の大和田新田の2つの神社の元旦祭の取材と初詣をし、朝はゆっくり起きてから、芝山の観音教寺へ。
 このお寺のはにわ博物館は、旧館のころから何回も足を運んでいますが、何度見ても飽きない博物館ですね。

 観音さまにもお参りをしてから、今年は、あこがれの阿玉台貝塚良文貝塚を目指して、小見川へとドライブ。
ハンディで、古墳以外の情報もいっぱいのガイドブック「房総の古墳を歩く」と、持ち運ぶのも困難なA4版1200頁の分厚い「千葉県の歴史 資料編 考古Ⅰ」を車に乗せて、北総台地を走りました。(フォトアルバム⇒史跡歳時記「小見川の縄文遺跡探訪・阿玉台貝塚&良文貝塚」

 Atamadaidokis_1 Sumihuruzawasなぜ、急に阿玉台・良文貝塚に行きたいと思ったかというと、2004年の終わりごろ、馬場小室山遺跡と出会って、初めて縄文土器の型式を教えていただいたとき、「雲母きらきら・阿玉台」式だけは、何とか覚えられたから。
 房総の発掘資料展などで、ずらっと並んでいる土器の中でも、一番わかりやすい形をしています。 

⇒画像は馬場小室山第2遺跡出土の阿玉台式土器片〈右)と酒々井町墨古沢遺跡出土の土器 2005年度千葉県文化財センター展示会にて撮影〈左)

 「おたまだい」という発音で教えてくださる方も多く、阿玉台遺跡はきっと、アとヲとオの発音の区別ができない地域にあるんじゃないかとも思っていました。 

 良文貝塚は、平良文伝承に由来する村名だった地域、そのゆかりの地の景観にも興味がありました。
  ここから出土した加曽利B式期の香炉形顔面付土器も面白いですね。(千葉県のたいていの歴史の本のグラビアに載っている縄文人のリアルな顔のついた土器です)

 070101_034s_1芝山から多古、栗源と走り、小見川の町から山に入り、現地に着いたのは午後3時過ぎ。
  良文の遺言どおり、ユウガオの実から良文の化身の観世音が現われたという「夕顔観世音」碑と、水仙の花が夕陽に輝いていました。(⇒画像は「夕顔観世音」碑)

 阿玉台貝塚は縄文中期が、良文貝塚は後期が主流とのことですが、縄文のころは海がここまで浸入していたのでしょう、現地に立つと、斜面には貝殻が点々と白く見えます。
 またもう一度訪ねる機会があったら、資料館にも立ち寄って遺物などを見てみたいと思いました。

 ところで国指定史跡といっても、民有地がほとんどの遺跡ですが、地元の方々による保存への努力で、明治の発掘当時から、史跡をとりまく景観は大きく変わっていないそうです。
 阿玉台では「梅の里史跡公園保存会」が、良文貝塚では昭和4年の大山史前学研究所の調査当時から活動してきた「貝塚史蹟保存会」が散策路の植栽や看板、地層観察室の設置などを続け、現代は「地域住民が主体的に地域資源を活用して歴史教育、都市との交流、自然観察、体験活動などを展開していく田園空間博物館」という形で農水省「田園空間整備事業」に参加しているとか。
 地域のアイディアにより、この由緒ある史跡がどのように整備されていくのか、興味深く見守っていきたいと思います。

070101_064s

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2006年11月25日 (土)

S-5 戊辰戦争-敗者のその後

 八千代市郷土歴史研究会恒例の「郷土史展:-旧村のすがた・大和田新田研究-」は、本年もたくさんの会員の協力と大勢の熱心なご来場者で盛況に終わりました。
 061123_003s 今回中でも注目されたのは、11月18日の朝日新聞千葉版でも紹介していただきました畠山会員の「佐倉藩士小柴宣雄の墓碑が語る」の研究発表でした。
 061123_006s_3テーマ名のこの墓碑群は、大和田新田一本松(成田街道沿いマルヤの向い)の小さな墓地にある佐倉藩中級藩士小柴宣雄とその子孫の墓碑群で、土地の所有者が清掃してくださっているものの、今は墓を詣でる遺族もなく、近々道路拡幅で整理されることも懸念される状態なのです。
 「なぜこの場所に元佐倉藩士の墓が建てられたのか」、碑文の解読、佐倉藩関係文書のほか、大和田新田旧家の文書、石造物、地域の聞き取り調査など会のグループワークで明らかになったその内容は、 「史談八千代」31号の畠山論文をお読みいただくとして、会員の心を引いたのは、宣雄の長男で、戊辰戦争に幕府方として参加し自刃した小次郎の若い死と、藩に反旗を 翻し脱藩したこの子息を持った一族の廃藩後の生活でした。
 畠山氏は「佐倉藩では廃藩後、禄を失った藩士らのために士族授産事業として佐倉同協社や佐倉相済社を興しているが、宣雄がそれらに参加した形跡はない。」「小柴家としては一時期脱藩者としての汚名を免れなかったであろう。小次郎の父宣雄が、廃藩後佐倉から隠れるようにひとり大和田新田の地に居を移した理由もこのあたりにあったのではなかろうか。」と述べておられます。⇒写真右:小柴宣雄の墓(右)と小次郎(左の墓碑)

 Hananonotegamis 私が古文書を通じて戊辰戦争後の敗者側の運命がいかに過酷だったかを知ったのは、2003年5月、上野公園内の彰義隊資料室で見た女性の手紙でした。
 この日は資料室が閉鎖される最後の公開日で、この手紙は、鴨居の上に釈文もなくひっそりと展示されていました。
 地方文書と違って、流麗な女手の草書体でしたので、私にはすぐには読むことができず、その日はデジカメで撮影して、後日八千代市郷土歴史研究会の関和会員にご協力を仰ぎ、解読していただいたところ、この書簡は、上野戦争で彰義隊員戦死者の妻「花野」が、見せしめに放置された隊員の遺体を収納させてほしいと、勝海舟にあてて懇願する手紙でした。 (釈文全文は「郷土史研通信」48号P6に掲載)

Tegami 「 勝 安房の君      花野
       御直披
 當今の形勢は 実に叡慮に出る所か はた天命か
 止なんとして 又止がたき徳川家忠義の浪士 上野山中 戦死のあらさま
 元より戦の意味なきに 大軍四方をとりかこんで 火中に必死を極めたる
 其忠 其戦 詞つきたり
  (中略)
 早く其のなきがらをうずめ せめては なき霊をなだめまふし
 尤も忠臣義士の死ざま 世の人に示さんには 
 中々に かは弥の面目 徳川家のほまれ也  
 一たびは人心をしてよろこばしめ 二たびは人心をしていたましむ 
 是をしも 雨露にさらし 日にかわかし 長く泥土におくものならば 
 其の怨みは天下にあらん
 早くとうおさめんことを 公になさしめ給へ
 官軍も かの楠を例とせば いかでか是をわろしと申さん
 此の事 とくとくと申すなり 
 婦の長舌も 時世にうそと糺さるるとも 
 猶 罪とせられば 座して死をまたんのみ
 何とかすべき  あなかしこ あなかしこ

  上野山動かず さらでほととぎす
    鳴くとて血をはく さみだれのころ 」

 Syougitaihakas HP「台東区」の「上野彰義隊の墓と黒門」の記述に寄れば、「官軍は彰義隊に対しては厳罰でのぞみ、死体の後片付けさえも許さなかった。遺体は、そのまま雨の中を数日放置され悪臭がただよい始めた。 (中略)  『これは放っては置けない』と、官軍の激しい目も気にせず遺体の収容に立ち上がったのが三ノ輪円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎、新門辰五郎らであった。さすがの官軍もこれには口を出さなかった。山岡鉄舟筆になる『戦士之墓』は彰義隊隊士の遺体の火葬場の跡である。」とのこと。
 そういえば、上野公園の墓碑には「彰義隊」の文字はなく、「戦士之墓」とのみ彫られていました。

 小柴家の長男小次郎の名誉が回復されたのは、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉とともに「両士記念之碑」が、佐倉郷友会の手によって、麻賀多神社境内に建てられた大正2年のことでした。
 敗者の、しかも藩という狭い社会での少数の反逆者、そしてその遺族の生活はいかがなものであったか、畠山氏の史料に裏付けられた報告は、大和田新田の地に懸命に生きた家族とその時代の趨勢を考えさせる珠玉のレポートでした。

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2006年11月10日 (金)

I-9 生きつづける古墳-虎塚古墳VS高松塚古墳の現状

061104_216s 11月4日~5日にひたちなか市で行われた「古代常陸国シンポジウム―風土記・国府・郡家―」に参加する機会に、一日早く発って那珂川周辺の遺跡を回ってみました。
シンポジウムでは、大塚初重先生の「虎塚古墳とその世界」という講演も予定されていましたので、ちょうど石室の一般公開中の虎塚古墳も11年ぶりに、訪ねてみることにしました。 (→フォトアルバム「史跡歳時記」

 以前訪ねたのは、1995年の11月4日、歴博友の会の「茨城・福島の装飾古墳の旅」見学旅行で、白石太一郎先生のご案内でした。
 この旅の日程が選ばれたのは、年に2回の一般公開の日程にあわせたからです。(気温と準備の整った春秋の公開日以外は、いくら偉い先生の引率でもダメ、というのは実に明快なルールです。)

  今回も、前方後円墳の整った古墳の堂々たるたたずまいにまず感動し、そして、数人ずつ観察室に招じられてペアガラス越しに観た石室の壁画。
 061103_102s湿度がじわっと肌に感じられる地下の世界で、薄暗いライトに照らし出された呪術的な幾何学模様と、ネックレースのような身の回りの具象的な絵画に、冥界へと引かれていくような不思議な気持ちがしたことを思い出しました。 (→画像は、ひたちなか市埋蔵文化財調査センター展示の石室レプリカ)

 この古墳の調査と保存にかかわってこられた大塚先生のシンポジウムでのお話しは、1973年の壁画発見の感動を伝え、そして市民への公開と保存に配慮した遺跡の活用を説く熱のこもった内容でしたが、最後に、虎塚古墳と比較して惨憺たる末期症状の高松塚古墳の現状とそれに至った過程への疑問を強く訴えるものでした。

 帰ってから、買ってきた「史跡虎塚古墳‐発掘調査の概要‐」(平成17年ひたちなか市教委)と、ネットからダウンロードした「高松塚古墳壁画の現状について」(文化庁美術学芸課)を、そして一昨日発刊された『東アジアの古代文化』129号大塚初重「高松塚の現状と将来-古墳保存への一考古学者の提言-」を読みました。061104_256s
 『東アジアの古代文化』129号で大塚先生は、高松塚古墳について、1972年発見された網干善教氏、調査の中心におられた末永博士が、「高松塚古墳を国の機関への保存と管理にゆだねることが最上の選択」と、断腸の思いで発掘調査にピリオドを打ったいきさつ、また、いっさい関係者以外目にすることなく、一億円以上の保存施設が完成して高度な保存作業を進んでいるとばかり思い込まされてきた三十年余の歳月について、考古学者の痛切な気持ちを綴られておられます。
 そして「墳丘と横穴式石槨が築造場所にそのまま保存されること」を主張し、「現代の自然科学が到達した最高水準の保存法が、石槨解体しかないとすれば、古代人の墳墓に対して二十一世紀に生きる科学者として傲慢すぎるのではないだろうか。」「墓まで毀して墓主の心を安堵させていた壁画を外に取り出すことはないと思う。」と述べておられます。(→画像は11月4日のシンポジウムでの大塚先生)

 また虎塚の発見直後の保存への努力と一般公開への地元の方々との協力のドキュメントも心打たれました。
 1973年の公開時の一万数千人の見学者の姿、また調査終了に際して、石室閉鎖して墳丘を復元後、、覆土の安定と湿度の保持のため、勝田市の消防署が放水で協力したとか、大塚先生の提唱される「市民の考古学」真髄のエピソードが語られています。

 11月9日付朝日新聞文化欄「茨城県の古墳 傷まぬそのわけは」に記された明治大学矢島国雄氏の言葉「墳丘が壁画を守る力はすごい。高松塚も、その点を学んでくれていたら・・」
 古墳は、そしてその石室も、墳丘と周囲の環境とともに「生きてきた」そして「生きつづける」遺跡なのだと思いました。

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2006年10月 2日 (月)

I-8 遺構の景観=古代人の見たローム土の世界

 十年前の夏、発掘調査された中世城郭遺跡の現地説明会があるというので、はるばる光町まで出かけたことを思い出します。その名も光町篠本字城山。(現在ではスポーツ公園と化して、跡形もないそうです。)
 ひとつの台地全体を掘りあげてあって、薬研堀や曲輪など城郭全体の遺構も一目瞭然でよくわかりましたが、中世城郭というと、草深い古城址になれていたせいか、関東ローム層むき出しのその姿はショックでした。
 しかし、戦国時代の下総の城郭は、切岸や土塁などロームむき出しの姿があたり前だったのですから、歴史的光景としては、藤村の詩のような古城の風情より、この姿のほうがリアルだったのかもしれません。

 Dscf0155先日、千葉県文化財センターの『研究連絡誌』のバックナンバーを読んでいて、雨宮龍太郎氏の「古墳の発掘法と作図法」(平成2年)という論文が目に止まりました。
 この論文では、丁寧な発掘により墳丘の築土過程が復元できることと、その築土の方法が凹面構築法という物理的に優れた工法であることなどが述べられていますが、最後に、「古墳が造られた当初の姿は、段畑状の赤茶けた殺伐とした墳丘であった」とし、風土記の丘などの史跡公園の保存展示の姿とは異なる景観を指摘しています                    (⇒写真は公津が原古墳群の船塚古墳)

 ローム層がむき出しの景観は、縄文の環状盛土遺構の井野長割遺跡の調査報告でも言われていたことです。
 「削ぐように掘削された中央窪地」、「ローム質黄褐色層が単層でレンズ状に盛り上がるように覆っていた状況が確認され、意図的な盛土行為が推定される」マウンド(体育館側のM5)など、黄褐色ローム土が盛土の上を覆った「黄色い世界」が当時のムラの景観だったいう報告が、2004年のシンポジウムで印象的でした。

 確かに、赤茶けた黄色いロームの世界は、今の私たちには造成地の工事現場を連想させ、重機によって破壊された環境を意味する殺伐とした景観にほかならないのですが、一方、弥生の方形周溝墓・環濠も含め、縄文~中世の人々にはどういう印象だったのでしょう。
 石器や木鍬で土を掘り返すということは、近世に至るまでかなりな重労働な行為だったと思います。緑の森や原野を人の手で加工して現れる鮮やかなロームの世界は、それ自体希少価値があり、人に畏敬の念や警戒心を与え、またこれ見よがしに誇示するにもふさわしかったことでしょう。
 もっとも石のたくさんある地域では、ストーンサークルや石葺きの墳墓、石垣の城郭構造のほうがより畏怖の象徴であったと思いますが、石のない下総台地では、むき出しのローム層、またローム粒による黄色化化粧がそれに代わるインパクトとして機能したのではないでしょうか。

 0692_193 雨宮氏は上記論文で「古墳を保存・展示しようとするならば、墳丘表土と周溝を発掘して、築造本来の形態を露呈すべき」と論じています。
 なるほどと感じさせる主張ですが、史跡公園への一般の来場者が、緑に覆われた遺跡の心地よさを求めている現状と、(古代もそうだったはずですが)メンテナンスにとても手間のかかることを考えると、現実では無理じゃないかなとも思えます。       (⇒写真は、房総風土記の丘の復元された101号墳)

 さて、古代人が神聖視した「土」へこだわりを、現在の生活の中に探してみました。やはり、相撲の土俵かなあ・・(ほかにもあったら教えてください)

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2006年9月25日 (月)

S-4 お墓に刻まれた遺言の道しるべ

 今から十年ほど前の1998年ごろ、八千代市郷土歴史研究会の仲間と八千代市内の道標の調査と古道の探索とその復元の研究を始めました。
 高本入口の「むかうへゆけばさくらミち」庚申塔道標のように石造物の造形として優れているもの、あるいは新木戸三叉路の「血流地蔵尊道標」のように江戸期の交通史資料として貴重なものなど、たくさんの道しるべを調査発見し、それは2001年105基の道標データとともに『八千代の道しるべ』という報告書刊行となって実を結びました。
 その時の調査では、江戸時代の道標は庚申塔や月待塔などに刻まれた供養塔が多かったのですが、ひとつだけ分類を「墓塔」とした例外的な道しるべが大和田新田の坪井町入り口の墓地にありました。06920_034s

 成田街道の復元した「血流地蔵尊道標」の立つ新木戸三叉路を吉橋方面へ300mほど行くと、「ミヤコシ」というバス停のところにY家の墓地があります。
 その中に、この道しるべを兼ねた文化14年(1817)の建立の墓塔があり、わかりやすい大きな字で次のような銘文が刻まれています。 (⇒画像)

正面 「 文化十四丑天
    教正院法山妙清信女霊位
     三月初九日」
左面 「右 よしはしヨリき於ろし
    左 たかもと又左つほい  道

右面 「本家高本三右エ門 
      大和田新田施主峯吉」

 左面の道しるべは、右へ行くと吉橋から木下へ、また左のわき道に入ると高本へ、そしてまた分岐して坪井へ至る道を案内しています。
 建立された位置は、墓地が整理されてしまっていたのでその時はわかりませんでした。

 道しるべが刻まれた個人のお墓というのは、市外も含め他に類例がなく、そのころからとても不思議に思っていましたが、今年度の八千代市郷土歴史研究会のテーマが「大和田新田研究」で、私は屋号調査を担当しましたので、旧家の聞き取り調査のついでに、ぜひそのなぞを解いてみたい気がしていました。
 そして通称地名「三軒家」と呼ばれたこの墓地周辺の昔の屋号を探索しているうち、やっとこのお墓に記された方の子孫のY家を訪ねることができ、道しるべのあるお墓の由来をお聞きすることができました。

 このお墓に葬られた方は、ご主人に先立たれたY家のおばあさんで、「高本のインキョ家からお嫁にきた方」とのことでした。
 このおばあさんは、亡くなる前に自分のお墓をぜひ道しるべにしてほしいと言い残され、その遺言に従って、女性一人としてはやや背の高いりっぱな道標兼用のお墓が建てられたとのことです。
  実家の「高本のインキョ」家とは、『八千代市の歴史 資料編 近世Ⅳ』の文久4年「生長祝儀并節句覚帳」に「高本隠居三右衛門」とあるので、道標に記された銘文の「高本本家 三右エ門」のことでしょう。06920_039

  実はこの墓石は、木下街道の拡幅前は、今のバス停の目印のところにあり、坪井町入り口の三叉路が拡幅され、高本へ行く道が墓地の右側に移動されるまでは、墓地の左手の細い路地が高本方面への道であったとのこと。ちょうど分かれ道のその角にこのお墓があったわけで、本当はとてもわかりやすい場所にあったわけです。 (⇒画像)

 りっぱなお墓の主のこのおばあさんは、晩年ご自分の実家、高本への道がとても懐かしかったのでしょうか。 あるいは生前、新木戸三叉路の自宅の門前で不安そうな旅人に道案内することが多く、没後も人のためにつくしたい一心で遺言されたのでしょうか。
 想像はつきませんが、今回の旧家の聞き取り調査で、長年の私のなぞもやっと解けた気がしました。

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2006年8月29日 (火)

T-4 桑納川の川底に眠る遺跡群

06827_115先日(8/27)、船橋市郷土資料館で「川底から発見された土器-桑納川(かんのうがわ)流域の土器文化」の小企画展を見てきました。

八千代市と船橋市の境の桑納川川底から大量に発見された縄文後晩期と、平安時代頃の土器、近隣の金堀台貝塚と北之崎遺跡の資料が展示されています。

両市の合同調査にたずさわったT松さんに昨年から発見の次第や顛末をお聞きしていましたし、3月に飛ノ台史跡公園博物館でその一部が展示されていましたが、今回は採取遺物の全部と採取地点の景観、近隣の遺跡の遺物との関連などその全貌が公開されているとのことで、さっそくT松さんにも同行をお願いし見学、帰路現地にも行って来ました。

「縄文遺跡のある風景 in印旛沼周辺の遺跡群」に追加UPしましたので、ご覧ください。

調査のきっかけは一昨年、渡辺誠氏が、資料館に「鑑定」をお願いに持ち込んだ縄文後晩期の土器群で、採集地点は八千代市側の高本下弁天地点。その後、両市の合同実地踏査や、高古橋付近で河川改修工事を前にしての県と両市の調査も行われたそうです。

夥しい数の縄文土器底部、長く低湿地にあった証拠に真っ黒な泥炭がついたままのリアルな深鉢のかけら、漆塗りらしい土器、製塩土器片、石棒や耳飾なども並んでいます。

低湿地の縄文遺跡については、本HPの「縄文遺跡のある風景」にもUPしましたが、「遺跡は台地上」という「常識」は印旛沼周辺でも打ち破られつつあることを感じます。

HPで取り上げたのは、文化財のお仕事をした経験のある母親とその子供の水遊びが発見のきっかけの「西根遺跡」、郷土史家の五代先生が遺跡の破壊される中で土偶や完形土器を集めたという「吉高一本松遺跡」ですが、桑納川川底での発見もアマチュアの方です。

1951年、栗谷遺跡に近い保品の水田で、くり舟を発見し、早稲田大学の調査で土器や堅果類発見の成果につなげたのも地元の農家の方でした。(復元されたくり舟は、八千代市郷土資料館の「超めだま!」です)

「常識」外の発見や緊急の遺物救出には、関心のある市民の考古学についての素養が何より効果を発揮しています。

自治体の遺跡マップが、ほとんど台地上の遺物散布地を囲んで作られていますが、今後は河川改修や圃場整備での調査も必須となるかと思います。(といっても、もう遅すぎる?)

今後の桑納川の遺跡群についてには、河川改修整備の行政調査のほか、ぜひとも積極的な学術的な調査も期待したいですね。

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