2025年3月21日 (金)

『印旛沼のほとりより 歴史・民俗・信仰についてのフィールドノート』を上梓しました

このたび、『印旛沼のほとりより 歴史・民俗・信仰についてのフィールドノート』を上梓いたしました。
二十数年間の八千代、佐倉、印西などの地域を歩き、その歴史、民俗、石造物や考古資料の調査を通して折々に綴った報告や感想と、ホームページ「歴史に好奇心!さわらび通信」に連載した心の旅の記事をまとめた拙文集です。
近日中に、六一書房で販売の取り扱い予定です。
ご興味がございましたら、ご購入いただければと存じます。


(本書より)

はじめに 

印旛沼のほとりの八千代市と佐倉市に住まいして半世紀。
近隣の街や村里を訪ねて、その歴史・民俗や石造物を調べる日々は、新しい発見や謎との出会いのときでもありました。
本書の第一部「地域を知る・地域に学ぶ」は、その調査報告や感想を、歴史愛好家グループなどの会報に寄稿した文章、また講演会で配布した講演要旨などから、散逸しそうな小論を選び、著作集としてまとめてみました。
第二部「歴史の謎と こころの旅」は、二〇〇一年に始めたホームページ「歴史に好奇心!さわらび通信」に連載したコンテンツの中から、「信仰のかたち」を求めて旅した二編を、私自身のこころの軌跡として載せました。その一つ目は中世律宗の僧忍性の事跡、二つ目は日本にもたらされた「聖母像」とそのまなざしを追う旅のエッセイです。
お暇なときに、ご興味のあるものを拾い読みいただければ幸いです。
なお、カバーの表紙と裏表紙のカットは亡き父・佐藤博敏の絵、中表紙のカットは八千代市郷土歴史研究会の友人・故関和時男氏の絵を用いました。


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(奥付)

印旛沼のほとりより 歴史・民俗・信仰についてのフィールドノート

2025325日 第1

著 者  蕨 由美

発行所  オリンピア印刷株式会社

© Warabi Yumi Printed in Japan

ISBN 978-4-86795-085-2

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2024年10月 7日 (月)

『写真集 北総の子安さま 里の慈母像を追って』を上梓しました

このたび『写真集 北総の子安さま 里の慈母像を追って』を上梓しました。
Facebookで、「北総の子安さま 写真集」シリーズとして、子安像塔の写真を2023年1月から毎日1基ずつアップしたところ、多くの方からリアクションをいただき、2024年9月まで300選の子安像塔の画像アップできました。
さらに途中で、「アルバムとして出版したら」をアドバイスもいただき、うれしくなって、60基の子安像の画像を選び、この度小冊子として本にして上梓いたしました。
郷土史調査や石仏の研究をされておられる方々だけではなく、ひろく一般向けに編集するという私にとっては初めての試みでしたが、一応子安像塔の成立と変遷がたどれるよう、紀年銘順に並べてあります。
機会がありましたら、ぜひ手に取って、ご一読ください。

Hyoushi

『写真集 北総の子安さま 里の慈母像を追って』
    2024年10月10日 第1刷
著 者  蕨 由美
発行所  オリンピア印刷株式会社
© Warabi Yumi Printed in Japan
ISBN 978-4-86795-063-0
C0039 ¥2500E

六一書房にて現在販売中です
ネット通販でぜひお買い求めいただきたく存じます

 

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『写真集 北総の子安さま 里の慈母像を追って』から引用

はじめに 里の慈母像「子安さま」を追って
里道をたどってムラの中へと歩いていくと、路傍や産土の神社やお寺の境内で、子を抱いた母の姿の石仏によく出会います。
ムラの女性たちの集まりである女人講や子安講が建てた子安塔で、「子安大明神」や「子安観音」というこのお方の名が記されていることもあります。
神か仏かの区別が定かではありませんが、これらの石塔や石祠を地元では「子安さま」と呼んでいるようです。
女神様あるいは観音様が、豊かな胸をあらわにして無邪気な赤子に乳を与え、優しく微笑む姿は、惜しみない慈愛のかたちをもって、村の女性たちの祈りと願いを一心に受け止めてきたことでしょう。
お地蔵さまや庚申塔の青面金剛さまの石仏と違って、仏像としてのきまり事はなく、石工さんの独創的な技を競い合うような自由なスタイルも魅力です。
紀年銘を見ると、江戸中期から現代までさまざまで、中には今も連綿と建て続けられている地区もあります。
私は、これらの母性と慈愛に満ちた「子安さま」に惹かれて、近隣の町や村、そして千葉県北部に広がる「子安さま」を探して回りました。
まずは、その姿を写真集でご覧ください。
そして、「子安さま」の石像の由来ついて、ご興味がおありでしたら、「解説―北総での子安像塔成立の謎を解く」もお読みいただければ幸いです。

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2017年10月22日 (日)

「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔  本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」

印西地域史講座 文章レジュメ                 2017年10月22日 
                           於 印西市立中央駅前地域交流館
                              
 「幕末~近代、ムラの衆が建てた石塔 
    本埜地区笠神の『百庚申』と『三義侠者碑』」
                          
                                  
蕨 由美
☆スライドは⇒こちら 

 ☆配布資料
  ⇒図1「北総の多石百庚申 一覧表」 -2「北総の一石百庚申 一覧表 」

  ⇒図3 「三義侠者碑」銘文

                                                 
 江戸時代は、前期の寛文・延宝期から、関東の村々では庶民の石塔建立が盛んになり、特に印西市域には、そのころの優れた像容の石仏が今も残っています。
 今回は、本埜地区笠神での調査例をもとに、ムラの人々が幕末から昭和初期まで建て続けた2例の「百庚申」と庚申塔について、また江戸初期の笠神の三義人を顕彰した明治24年建立の「三義侠者碑」とその時代背景についてお話します。
 庚申塔については、2012年12月の印西地域史講座でお話した内容の続きで、北総に特有な多石型の「百庚申」について紹介します。

Ⅰ 庚申塔と「百庚申」
(1)印西市域の庚申塔
 庚申塔は、最も普遍的で数も多く、近世からの村落共同体建立の石塔を代表する石造物です。
 庚申待は、六十日に一回庚申の夜に、眠った人間の体から三尸が抜け出し天帝にその人の罪過を告げられないよう徹夜するという道教に由来した信仰で、室町時代ごろから庶民にも浸透して庚申講が行われるようになると、その供養の証しとして「庚申塔」(庚申供養塔)を建立する風習が、江戸時代に、各地に定着しました。
 近世庚申塔の関東における初出は、元和9年(1623)の足立区正覚院の弥陀三尊来迎塔と三郷市常楽寺の山王廿一社文字塔、千葉県最古は松戸市幸谷観音境内の寛永2年(1625)の山王廿一社文字塔です。
 下総地域への伝播は、江戸川に接する東葛地域からと推定され、印西市域では、寛文元年(1661)銘の、台座に三猿が刻まれた聖観音立像塔が竹袋観音堂に建てられるなど、1660年前後に像容は三猿や諸仏の彫像、文字のみの供養塔などいろいろな形態の庚申塔が普及していきます。
 青面金剛像を主尊に彫った庚申塔が現れるのは、寛文11年(1671)銘の小林の砂田庚申堂の四臂の青面金剛像塔からで、その後は六臂の凝った青面金剛像の庚申塔が建てられていきますが、江戸中期、青面金剛像塔が数的にも最盛期になる享保から宝暦年間にかけて、印西市域を中心に白井市や船橋市の東部、我孫子市・柏市・栄町では、画一的な特徴*の庚申塔が、期間と地域を限定して数多く建てられました。
 (*主尊の目がアーモンド形で、右手に鈴状または人の頭部らしき袋状のものを持ち、宝輪を持つ手が直角で水平に伸び、迫力がない邪鬼がうずくまる姿)

(2)北総と印西市域の「百庚申」
 江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、下総地方の庚申塔は、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となりますが、印西市域の庚申塔で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。
 百庚申は、一石に「百庚申」銘や「庚申」などの文字を多数刻んだ「一石百庚申」と、百基または多数の庚申塔を一か所に造立する「多石百庚申」があり、その目的は祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づくといわれます。
 多石百庚申は、筆者の調査では、千葉県内に41例(⇒表1)あり、この中で、多石百庚申の先駆けとなるのは、文政12年(1829)の印西市松虫の百庚申№21で、青面金剛像塔100基を一時に建立し、灯篭一対も奉賽しています。(現在は都市開発で、松虫寺近隣の路傍2か所に分けて移動されています)
 続いて柏市域など利根川流域で、天保年間から幕末にかけて、数多く建立されますが、像塔の割合は文字塔に比べて少なくなり、やや大きめの像塔10基と定形の文字塔90基がセットの百庚申が主流となります。印西市武西№23と浦部№24、はこのパターンで、文字9基おきに像塔1基を配置する建立当時の姿を今もよく伝えており、文久3年(1865年)の造立の「武西の百庚申塚」は、平成11年3月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。
 一石百庚申は、群馬県倉渕に一石に百体の青面金剛像を浮彫りした寛政6年銘(1792)「百体青面金剛塔」や、長野県野底に「奉請一百體庚申」の主銘の周りに、「庚申」の文字を百の異なった書体で表した安政七年銘(1860)の「百書体庚申塔」ほか、万延元年(1860)前後に群馬県・長野県・福島県などで「百書体庚申塔」が流行しています。
 北総では一石百庚申の数は11例(⇒表2)と少ないですが、多石型に先立って主に文化文政年間に建立され、№4の印西市松崎火皇子神社の「庚申百社参詣供養塔」銘は、百庚申信仰の由来を推定させる銘で庚申塔百社の参詣成就を意味し、北総の多石百庚申建立の理由がうかがえます。
 主銘のみのものなどがあります。

(3)笠神の百庚申
1. 印西市笠神の笠神社と蘇羽鷹神社の立地
 印西市の本埜支所の前の広い田圃の中に突き出した独立台地の裾を巡る集落が笠神で、台地上には笠神城跡がありました。中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に面するこの笠神の集落は、中世村落の最前線でした。逢善寺文書の記述に、14世紀末「有徳ノ在家ノ仁」とよばれる「印西ノ笠上又太良禅門等ノ類」が出てきますが、笠神の地で「香取の海」の重要な航路を支配していた有力者のことと思われます。
 笠神城跡の台地上西端の蘇羽鷹神社には戦国時代の遺構かと思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残り、東側には領主の館跡に建てられた「南陽院」があり、その下には「船戸」の集落、西麓には「根古屋」の集落と「笠神社」があります。

2. 笠神の笠神社(かさがみしゃ)の百庚申
 字笠神前には、かつて城主の守り神で城山後方の山頂にあり、元禄15年(1702)にこの台地の下に遷座したと伝えられる「笠神社」があります。
 下照姫命を祀り、「笠神様」とよばれる神社境内には、左右二列に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が立ち並び、その姿は壮観です。
 これらを調べてみると、慶應元年~3年(1865~7)の三年間に建立された青面金剛像塔17基、「庚申塔」銘の文字塔78基、計95基が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。
 ・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)
 ・慶應2年=36基(像塔7基:文字塔29基)
 ・慶應3年=30基(像塔7基:文字塔23基)
 ・年不明=18基(像塔1基:文字塔17基)
 2014年2月の時点ではまだ新しいコンクリートの基礎上に据えられてあったことから、2011年3月の東日本大地震後に建て直されたとみられ、95基の元の並び方の順は不明ですが、慶應元年塔は左側の列の手前に、慶應二年塔は同列の奥に、慶應三年塔は右側に配置されていたと推定されます。
 石塔脇の寄進者と思われる銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。
 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっていて、この像容は、同時期に近くの栄町上町に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。
 また足元の邪鬼は、石工の個性がよく出ていて、その正面を向く姿はとてもユーモラスです。
 また損傷した石塔数基分が右側の列の後ろに寄せ集められてあり、数えると像塔1基と文字塔4基の計5基分あり、これを復元すれば元は像塔18基、文字塔82基の計100基となります。
 現在の像塔と文字塔の割合は、ほぼ1対4の比率なので、像塔1基に文字塔4基のサイクルで連続して並べられていたと思われます。
 百庚申以外には、5基の庚申塔が百庚申の列に並んでいて、最古は享保7年(1722)銘の二童子と三猿がつく高さ98㎝の青面金剛像塔で、天保9年(1838)銘、万延元年(1860)銘、慶應3年銘(1867)、年不明がつづきます。
 このうち高さ145㎝の文字塔の建立日「慶應三卯年十一月吉日」銘は、百庚申造立の3年目の慶応3年の建立月日と同じで、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に建立されたと推定されます。

3. 笠神の蘓波鷹(そばたか)神社の百庚申
 笠神城の物見台跡と推定される尾根上に鎮座する蘇羽鷹神社境内には、享保18(1733)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申塔と、近代になって建立された百庚申が、狭い境内両脇に整然と並んでいます。
 百庚申は、高さ41~51㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54基と、青面金剛像塔6基の計60基で、右面には一部に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が刻まれています。(以下、造立された年銘別に分けてみました)
 ・社殿に向って右側、鳥居の右横の塚上に明治16年(1883)銘の文字塔5基と像塔1基の計6基
 ・参道左側の燈籠の手前に、明治33年(1900)銘の文字塔17と像塔2基の計19基
 ・社殿前の広場の右側に、昭和10年(1935)銘の像塔3基と、無年銘で文字塔30基の計33基
 像塔と文字塔の配列は、明治16年の8基は中央に像塔を、明治33年の19基は両端に像塔を置き、昭和10年の30基は両端と中央付近に像塔を置いていて、無年銘の30基は昭和10年建立と推定されます。現在、明治33年の19基は仰向けに倒れたまま、落ち葉や苔に覆われていますが、全体に建立後の補修はないとみられます。
 青面金剛像の像容は、笠神社の幕末期の百庚申の主尊の表情にみられる怒髪天を衝くような勢いはなく、衣文の表現も簡略化され、邪鬼もかろうじて存在しているばかりですが、明治以降の像容のある石仏は、一般的に子安像か地蔵像ぐらいであり、近代の青面金剛像の像容例として極めて貴重です。
 この百庚申の建立には三次にわたって52年間かかっており、近代に入って、笠神地区の三世代の人々により造塔が継続された事例は、他に類を見ないものです。
 また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また狭い境内に合わせた数であったと推測されます。

Ⅱ 笠神の「三義侠者碑」
 笠神の島状の台地の南東に面する中腹に、天台宗の南陽院があり、その本堂の前に、基壇を築きその上に、台石に載せた高さ1.5mの自然石の石碑「三義侠者碑」が建立されています。
 明暦2年(1656)に刑死した笠神の三義人を顕彰するために、南陽院住職と三義人の子孫、250名以上の賛同者によって、明治24年に建てられた石碑です。
 この三義侠者碑は、印旛沼周辺の低地部の開発が盛んになった正保・明暦期、小林村との入会地「埜原」の帰属をめぐる闘争を物語る石碑です。
 中世では当然だった村同士の実力闘争も、江戸前期では幕府による懲罰が不可避でした。そしてその犠牲となった村の「義人」に対して、当時は供養を続けるのみで、建碑はできませんでしたが、明治になって、このような立派な顕彰碑が建てられました。
 その背景として、佐倉 惣五郎事件が膾炙したような近代の自由民権思想の高揚が見て取れます。
 なお、篆額の武藤宗彬は蚕業振興に尽力した千葉郡長、撰文并書の須藤元誓は俳人半香舎五世梅里です。

(1)「三義侠者碑」の銘文
 この碑の銘文は、『千葉県印旛郡誌』(大正2年)と、そこからの引用である『印西地方よもやま話』(五十嵐行男著)にも載っていますが、一昨年に改めて印西市教育委員会の石造物調査で、銘文を読み取りました。(その結果、『印旛郡誌』と『よもやま話』と十数カ所の相違がありました。)
 三義侠者碑の銘文は、表3で示しましたが、本文のみを現代文に意訳してみました。
 (漢文の素養のない筆者の拙い訳文ですので、間違いをご指摘いただければ幸いです。)

本文の意訳
 「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ。古より死する者は一に非ず」というが、身は極刑に死んでも、百世まで人の心を感動させるとはこのことであろう。
 正保明暦(1644~1657)のころ、印旛郡笠神村に三人の「義侠者」がいた。
 笠神の地は、丘をめぐる平坦で豊かな土壌で、その東北一帯には利根川と印旛湖がせまり、塩分が多く、アシとオギが茂る広漠とした地で、俗に埜原と呼ばれていた。
 当時は地祖を納めることもなく、草木を刈り、鳥獣や魚を捕っていたこの地は笠神村に接し、多くの民がその利益に頼っていたために、また小林村との争いの地でもあり、両村ともにその利権は決まらず、幕府の領地となっていた。
 正保2年(1645)4月のこと、幕府の役人が検分に来て地図をあらため、それ以後は両村の所有となるに至ったが、このことは笠神村にとってはその利益を専有できないことであり、村民はたいへん嘆き悲しんだ。
 明暦2年のある月、笠神村はその地域を定めようとのぞんだが、小林村は応じず、その年の9月に再び幕府に訴えたが、見直しはなく地図によって裁かれ、笠神村にとってその境は不利な結果に終わってしまった。
 この時、三人の義侠の者があった。鈴木庄吉、岩井與五兵衛、岩井源右衛門の三人で、皆、優れた人物で、意気盛んで物怖じしない不屈の気性が強かった。
 三人は、弁論をもって小林の民を正そうと村境まで臨んだところ、相手の衆は竹槍を突きつけてきたが、三人が落ち着いて反論した。相手の衆は取り囲んで捕まえようとし、三人は身を挺して奮然と闘って蹴散らせたが、数人を傷つけ若干名を死なせてしまった。
 三人はその事情を聞いて、自首して罪を待った。
 こうして埜原の地は、幕府の決定前の昔からの習慣に戻されて笠神村に属したが、三人はともに磔の極刑をもって殺された。
 その所は字押付で、時は明暦2年12月2日のことであった。村人は三人の亡骸を納めて葬り、後に許されてその地に小さな墓を建て、後世への記標とした。
 それから埜原の地は、堤を築いて田を開墾し、稔り豊かな地域となった。今の埜原村である。
 こうしてこの地は笠神の本郷のものとなり、水陸の田は103町8段あまりとなった。
 それ以来、村人は毎年10月に、十日にわたる法会を行い続け、それゆえに明暦から明治まで236年を経ても、水害や旱魃、蝗害、飢饉になることもない。
 今ここに村人が話し合って財を醵出し、碑を慈眼山の上に建てることを決め、桑畑が滄海に変ずるような大変化に備えることとした。
 ああ、これも貧しい民が極刑で死んだことで、却って一つの村の富の源を作ったのであり、 「身を殺して仁をなす」というべきなことである。
子孫は連綿と末永くその血を受け継ぎ、この地に食してきた。
 今や明治の隆盛の世にあって、玉を磨くように、三人の遺した気風を朽ちることなく伝えていこう。
 これはまさに「人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人に勝つ」ということである。
   (以下、漢詩の銘文は省略)

(2)房総の義民・義人の供養塔・顕彰碑
 房総石造文化財研究会の三明弘氏の調査では、房総の義民関係の石造物は推定を入れて23件あり、そのうち「義民」(=村の代表として領主や幕府に直訴して犠牲になった人)関係が10件、「義人」(=多くの人のために正義に殉じた人)関係は13件とのことです。
 千葉県では、佐倉惣五郎のほか、安房の万石騒動の三義民、館山市の大神宮義民七人様供養碑の3事件が有名ですが、刑死直後の供養塔などは施政者から許されず、五十年近くたってから建てられることもあり、明治中期以降の建碑も7件に及びます。
 23件の中には、重税の減免直訴の義民や、飢饉に際し領主に無断で郷蔵を開けた名主、入会の草刈り場(まぐさ場)や用水をめぐる巡る争論での犠牲者のほか、漁場の境界や入会権、漁業権をめぐって隣村に実力行使して咎を受けた大事件も東京湾岸で3件あります。
 船橋市不動院の石造釈迦如来坐像に白米の飯を盛り上げるようにつける「飯盛大仏追善供養」は、船橋市の指定文化財にもなっていますが、その由来は、文政7年(1824)の漁場の境をめぐる争いで相手方の侍を殴打して入牢した漁師総代の牢内の飢えを償うためといわれています。

 (3)義民を生み出す闘争と顕彰碑建碑の背景
 保坂智氏の「近世初期の義民」(『国士舘大学人文学会紀要』 第35号 2002年)によれば、義民を生み出す闘争は、一揆、共同体間闘争、村方騒動、その他の四類型に分けられ、共同体間闘争は、17世紀に集中するとのことです。
 さらに、その要因として第一に中世村落の権利であった自検断権・自力救済を近世権力が否定したにもかかわらず、複雑な在地の権利関係を生まれたばかりの公権力が完全に掌握しきれていなかったこと、第二に中世末から近世初頭に展開した開発が、入会地の草木の用益権や水をめぐる対立を激しくしていったことがあげられます。
 そして、その開発による新たな村の確立に重要な権利獲得の実力闘争が、近世の公権力による処罰により犠牲者を生まざるを得なかったことがこの時代の義民物語であり、まさに、笠神村の三義人はこの典型でした。

 また五十嵐行男氏は『印西地方よもやま話』で、江戸時代に幕府の裁定の反逆者の「義民」を密かに追悼することはあっても顕彰する事は叶わず、明治22年大日本帝国憲法の発布後、板垣退助らによる自由民権思想の高揚した明治24年という時代に、笠神の義人顕彰碑が建立されたことを指摘しておられます。
 笠神に近い佐倉で、木内惣五郎が直訴し刑死したのは、笠神三義人事件の3年前の承応2年(1653年)といわれています。
 地元に残る伝承を参考にしながら18世紀後半に創作された惣五郎物語は、幕末から全国に広まり、福澤諭吉により「古来唯一の忠臣義士」と称えられ、特に自由民権期には民権家の嚆矢として位置付けられました。
 義民の顕彰が、全国各地で盛んになったのもこの頃であったことを考えると、この三義人顕彰碑は、江戸時代初期と明治中期の二つの時代の歴史を語る文化財であるといえるでしょう。

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2017年3月15日 (水)

S-23 ムラのおかみさんたちは強かった!同日建立のムラの講供養塔

 八千代市の萱田・吉橋・麦丸地区の石造物を調べていて、台座などに刻まれた人名の銘文から、ムラの男性と女性の二つの講により同時に建てられた供養石塔が、寛文八年から元文五年にかけて、四対あることに気付きました。

 吉橋の尾崎大師堂境内の寛文八(1668)年十月十日銘の二十三夜塔は、『房総の石仏百選』に載っている優美な勢至菩薩像塔ですが、同境内には同年同日銘の地蔵菩薩立像を刻んだ日記念仏塔があります。

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 二十三夜塔の願文「右勢至菩薩者廿三夜待開眼成就所 吉橋村施主敬白」に対し、日記念仏塔は「右地蔵菩薩者日記念仏供養成就処 吉橋村施主敬白」と類似していますが、蓮台には、前者が全て男性十八人、後者が「なつ」など女性十六人の名が刻まれていました。

 同じ吉橋の寺台公会堂(勢至堂跡)でも、元禄五年(1692)二月二十三日の二十三夜塔と、同日銘の念仏塔があり、願文と経文はほぼ同じ形式で、前者には勢至菩薩像と男性二十二人の名、後者には聖観音像と女性三十人の名があります。

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 このように男女別に対となる供養塔には、同日ではありませんが、ほぼ同じ時期に建てられた事例では、萱田長福寺の正徳三年(1713)の大日如来像の念仏塔と如意輪観音像の十九夜塔が、麦丸地区では元文五年の庚申塔と十九夜塔があります。

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 吉橋や麦丸の石塔は、像容の作風や願文の形式、文字もよく似ていることから、同一の石工に二基一対として発注されたと考えられます。

 これらの造塔は、そのムラの初めての講としての建立であり、費用もかかる大きな事業だったと思われますが、江戸後期や近代の石塔に女性名がまれであることに比べ、女性の名前がしっかりと記されてあり、江戸前期のムラの女人講に集うおかみさんたちの地位がダンナ衆と同格であったことも注目されます。

 また萱田には、三面にそれぞれ猿を浮彫りし、右面に「およし おきく」など女性三十三名、左面に男性十五名の名が刻まれた延宝元年(1673)銘の笠付角柱型庚申塔があり、さらに萱田の長福寺には、同一の塔に面を違えて男・女別に名を刻んだ寛文九年(1669)銘の三層塔があります。

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 『続房総の石仏百選』にも載っているこの三層塔には、第二層正面に勢至菩薩を浮彫りし、右面に「廿三夜講」、左面に「日記念仏供養」、その下の第一層の龕室左面には「本願花嶋七□兵衛一結施主」「定宥…長十郎」など三十三人の男性名が、右面には「一結施主 女中衆」として「おつる」など二十四人の女性名、裏面には建立発起人とみられる「宥秀」ほか三人の名があり、現状では二十三夜講が女性の講、日記念仏講が男性の講ということになります。

 私は、第一層の龕室の扉枠のある現正面側が裏側で、修理時に表裏逆に据えられたのではないかと思います。この頃の萱田も吉橋と同じように、やはり男性の講が二十三夜講、女性の講が日記念仏講であったと考えますが、いかがでしょうか。

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2016年5月30日 (月)

S-22 北総の「百庚申」探訪

 2月に本ブログに『S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」』をアップしましたが、その後、近隣の百庚申を調べて回っています。

 これは、5月24日に訪ねた千葉県栄町の安食上町の百庚申です。

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 「安食駅東方」という情報しかなかったので、駅前にいたタクシーの運転手さんや上町の地元の方々にお聞きしながら、「旧成田みち」沿いの通称「庚申さま」にたどり着きました。
山の中腹に3基の立派な青面金剛像庚申塔を祀った祠があり、その下の階段脇と道沿いの法面にぎっしりと庚申塔が建っています。
 百庚申として建てられた定型な駒型のほか、大小さまざまな、時代もいろいろな庚申塔がありました。
 特に法面の庚申塔群は、道路整備などで移設集積されたようで、又、笠神社の百庚申とよく似た像容と形式のものもあって、おそらく旧本埜村の梶谷石材の製品かと思えました。

 5月26日に訪ねた船橋市前原東5丁目の庚申塚。

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 ここには享保18年、19年と延享4年の彫りの優れた青面金剛像庚申塔3基のほか、小形の年不明の文字庚申塔64基が並んでいて、百庚申とみられます。

 これは、一石百庚申塔でしょう。

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 5月20日、八千代市麦丸台の庚申塚にあった「一百青面金剛王 當村講中」銘の庚申塔で、文化12年2月の建立。
 北総はたくさんの庚申塔を建立する「多石庚申塔」が20例ほどありますが、1基に「庚申」の文字を多数刻んだものや、「百庚申」の銘を刻んだ事例は珍しいです。

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2016年4月21日 (木)

S-21 須藤梅理を追って - 句碑に見る印旛~利根の俳諧ネットワーク

吉高の宗像神社の芭蕉句碑

 旧本埜村笠神の南陽院に建つ「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(俳号は梅理)を追って、鳥見神社の芭蕉句碑に続き、旧印旛村吉高の芭蕉句碑を調べに行きました。

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 吉高は、須藤元誓が生まれ育ち活動し、そして生涯を終えたムラです。
 春になると、須藤文左衛門(屋号)家の大桜が咲き、最近は、「吉高の大桜」として、印西市の観光名所にもなっています。

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 その旧吉高村の鎮守である宗像神社の境内に入り、社殿に向って右側に、自然石の芭蕉の句碑があります。
 表面に「このあたり 目に見ゆるもの みな涼し / はせを」と流麗な仮名文字で芭蕉の句が、裏面には、松月舎光東の「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句が刻まれています。


 裏面の句の選者は、春秋庵幹雄と半香舎梅理の2名で、「明治三十五年四月一日」の日付です。
 半香舎梅理は須藤元誓。春秋庵幹雄とは、梅理とその父である半香舎梅麿の俳諧の師匠の十一世春秋庵三森幹雄その人です。

 そしてその下には、「俳友賛成員」として19名、「幹事」が17名、「後見」2名(俳友賛成員・幹事と重複)、「企」1名(句の作者と重複)の名前(地名・苗字・俳号)が記されていました。

 

「たまたまに 錦も交る 落葉哉」の句の作者の松月舎光東は、「企」の須藤光東のことでしょう。
 その名の横に「通称太左衛門」とあり、須藤元誓(梅理)が継いだ家でした。

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(画像をクリックして大画面でご覧ください)


 梅理と並ぶ選者の一人の春秋庵幹雄とは、江戸末期から明治初期の俳人三森幹雄(1829 1910年)で、福島県出身。本名は寛、通称は菊治、号は初め静波で、藍染商人の手代として働きながら、地方の師匠のもとで俳句を学び、20代半ばで江戸に出て志倉西馬に俳諧を学ぶ。明倫講社を組織し、1880年、雑誌「俳諧明倫雑誌」を創刊し俳壇に一勢力をなしたが、神道の大成教に属して俳諧による教化運動を進め、正岡子規によって旧派句会を代表する俳人攻撃された一人であるとのこと。(Wikipediaより)

 なお、『梅理家集』には、三森幹雄が「嘉永の暮、奥州より江都へ上るの途次、総の吉高に僑寄し」たことと、さらに二代に亘って交誼を重ねた縁で、幹雄の継嗣の春秋庵準一が、その「叙」を著したと書かれていました。

 

徳満寺地蔵堂の奉納句額と下井・吉高の句碑の俳人名

 この吉高の句碑に記された38名の俳号には、下井鳥見神社の芭蕉句碑の70名と重なる俳号も多く、さらに、利根町布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額にその名と句が掲載されている俳人が10名います。

 徳満寺地蔵堂の奉納句額については、HP「タヌポンの利根ぽんぽ行」 に、入集した99句の俳句と地域、俳号のデータが掲載されていますので、そのデータを参考にして、下井と吉高の句碑と、布川の徳満寺地蔵堂の奉納句額に重複して俳号が記されている23名の俳人名とその俳句10句を抜き出して一覧表にしてみました。

Photo(画像をクリックして大画面でご覧ください)

 徳満寺地蔵堂の奉納句額に記されているのは、地域と俳号と句のみで名字が不明でしたが、下井と吉高の句碑には名字と俳号が記されているので、共通する10名に関しては、名字もわかりました。

 また、下井の句碑には半香舎四世東水の、吉高の句碑には五世こと須藤梅理の門下の俳人の名が列記されていて、南は山田(印西市)、北は北辺田(栄町)におよぶ水郷地帯がその活動エリアであったと思われます。また利根町などでの句会にも参加し、交流していたことでしょう。

 ちなみに、徳満寺地蔵堂の奉納句額の須藤梅理の句は「似た形(なり)の 山も揃ふて 夕かすみ」でした。

 また下井の句碑に記されている「師戸 渡辺義芳」は、20年前に調査した吉橋八幡神社の句額(『史談八千代』19号P15 No.126)の「師ト 義芳」と思われます。さらに丁寧に調べれば、印旛~利根周辺の俳諧ネットワークが見えてくることでしょう。

須藤梅理の太左衛門家

 160411_032さて、毎春、楽しみにしている吉高の大桜見物ですが、今年(2016年)は4811日が満開で、私は混雑する週末を外して11日に行きました。

 地元の方にお尋ねすると、須藤太左衛門家は大桜に一番近い大日堂横で、花見シーズンにタケノコご飯が名物の「峠の茶屋」を開いているお宅でした。
 接客中で忙しくされているご主人は、須藤梅理のお孫さんとか。

 また吉高にもう一基あるT家屋敷内の句碑も、梅理が係った芭蕉の句碑で、俳人の句や名前も多数刻んであるので、ぜひお訪ねしたいと仲介をお願いしようと思ったのですが、T家は現在留守宅となっているそうで、アポを取るのは難しそうと感じられました。

 機会を見て、なんとかT家の句碑も記録したいと考えていますが・・・

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2016年3月23日 (水)

T-6 「国史跡 井野長割遺跡」見学会

 2016年2月27日、佐倉市の「国史跡 井野長割遺跡」の見学会が開催され、佐倉市教育委員会のO倉さんの案内で、遺跡の中を丁寧に説明いただきながら40分ほど歩きました。

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 かつて何度も通った井野長割遺跡遺跡ですが、やはり朝の光の中、縄文人が残した姿を地上にとどめている環状盛土遺構のマウンドが感動的でした。

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 井野長割遺跡の出土遺物も展示されていました。

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 井野長割遺跡遺跡については、下記URLのHPをご覧ください。
 http://sawarabi.a.la9.jp/joumon/inonagawari/inonagawari1.htm

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2016年3月12日 (土)

S-20 「三義侠者碑」の「撰文幷書」の須藤元誓(梅理)と明治俳諧の世界




130528_001_2印西市下井鳥見神社の芭蕉句碑

 印旛沼の旧本埜村干拓地を南北に貫く県道12号線。江戸時代からの堤防道で、うねうねと曲がるカーブの左右の下には、洪水の度に堤が切れた「押堀(おっぽり)」といわれる池が点々と連なり、水害との闘いであったこの地の歴史を語っている道です。

 その12号線沿いの押堀のひとつ、甚平池の北側に小さな祠を祀る下井鳥見神社があり、その前には自然石の芭蕉の優雅な句碑があります。

 この鳥見神社の下には、郷土の先覚者の吉植庄一郎とその子息で歌人の庄亮の墓地や、印西大師の札所、また寛政12年銘の聖観音像十九夜塔や昭和9年銘の子安塔があり、私もしばしば訪ねるところでした。

 

 神社の前の句碑には「原中や ものにもつかす 鳴雲雀 はせを(芭蕉)」と流麗な字で、台石には「俳諧稲穂連」と刻まれています。


 印旛沼周辺には、瀬戸の徳性院などいくつかの芭蕉句碑がありますが、この碑は特に優れた碑でしょう。というのは、句碑の形や銘の書体の良さもさることながら、最近の印西市教育委員会の石造物調査で明らかになった裏面と台座に刻まれた銘文とその内容です。

 碑の裏面には「四世半香舎東水」の句と、明治29年銘で「江南亭梅理」による東水への賛と経歴、また台石には地域の俳人たちの名が刻まれています。

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鳥見神社の芭蕉句碑を建立した「江南亭梅理」さんとは

 「江南亭梅理」とは、半香舎五世の「須藤元誓」さん。
 そう! 笠神の南陽院にある「三義侠者碑」の碑文の撰文と書を書かれた方でした。


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 『印旛村史 近代編史料集Ⅱ』の「文化」の部に、昭和4年の「梅理家集」の抄録が掲載されてあり、その解説によれば、須藤元誓は弘化2年(1845)に、代々医家であった吉高村の前田元珉の三男として生まれ、名は理三郎。早くから和漢の書を修め、医術を究めたとのこと。
 分家して須藤家を継ぐが、詩歌や俳諧は半香舎一世で梅丸の俳号を持つ父の元珉や、前田家を継いだ義兄の宗達こと二世梅麿の業績を受け継ぎ、俳諧結社である半香舎の五世となったとのことです。

「梅理家集」には、梅理の俳諧の師匠の三森幹雄の子の春秋庵準一が「叙」を、梅理の甥二人が「閲歴」を書いていますが、閲歴の中のエピソードに、16歳の時、父の死に心痛めて、それまで一生懸命に書写した漢籍や医術書を捨ててしまったほどだったとか。

 また、文久2年夏に麻疹が大流行した際は、兄の助手として昼夜奔走し、数百人の患者を救ったそうです。

 千葉大学の前身の千葉病院医学教場で医学を修め、内外科医術免許を得て、医師として活躍する傍ら、寸暇を惜しんで、文学・詩歌を儒家などに、俳諧は父について学び、父没後は三森幹雄を師として三十年以上、地域で活動し、その門人は八十余人。そして昭和4年(1929)、81歳で生涯を終えられました。

梅理の句

『憑蔭集』(船橋大穴の齋藤その女傘寿の記念の句集)から十三才の時の句

馳走とは聞くもききよし一夜鮨

Photo_5『明治俳人名鑑』から

みつうみや風は寒くも春心

春の山見馴れし影を見出しけり

長みしか隙な枝なき柳かな

黄鳥の臆気をかしき余寒かな

草や木にさはらて吹きぬ春の風

 

『梅理家集』から

今朝はかり人に待たれて初鴉

人の世や日傘も絹の二重張り

些と風のあれと思ふや月の雲

松の風竹の凪聞く炬燵かな

 

「三義侠者碑」の「撰文幷書」の人物、格調高く難解な文と異体字だらけの篆書体に近寄りがたい印象を持っていましたが、その俳句を拝見し、親しみを持ってその足跡を追ってみたくなりました。まさに印旛沼畔に文化の華を咲かせた方だったのですね。

 

下井の鳥見神社句碑の銘文データを次に掲載します。
(画像をクリックして大画面でご覧ください)

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 なお、下井の鳥見神社句碑に加えて、梅里が建てた吉高宗像神社の芭蕉句碑についてと、両碑の人名銘に見る印旛沼周辺の俳諧ネットワークについては 、次回にアップします。

 また、『八千代の文人たち―歌碑・句碑を訪ねて』の著者村上昭彦氏には、『憑蔭集』『明治俳人名鑑』の情報など、近代の俳諧について詳しくご教授いただきました。あつく御礼申し上げます。

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2016年3月 4日 (金)

K-33 笠神の熊野神社の年不明の子安塔の推定年代と類型を探る

笠神熊野神社の女人講石塔群

130625_047  印西市(旧本埜村)笠神の向辺田にある小さな神社、熊野神社境内には、「粟島大明神」の祠と、延宝5年(1677)から文政9年(1826)までの7基の十九夜塔、さらに嘉永元年(1848)以降の3基の子安像塔が祀られてあり、江戸時代から近代までの女人信仰の姿を見ることができます。(写真1

313日の房総石造文化財研究会主催 見学会「旧本埜村の石仏を探る」でも、ぜひこの女人講石塔群をご案内したく、見学用資料を作りながら、3基の子安塔のうち「明治」以下の年銘を欠く1基(写真2)の年代が気になり、調べてみることにしました。

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 年銘欠の子安像塔の類型を探す

 年銘欠の子安像塔は衣観音風の被布、足を見せ着物を着て乳をつかむ子、2本の蓮華、切れ長の目など、かなり特徴的な像容で、八千代市近辺ではあまり見られない姿です。

右側面に建立年月日が刻んであったでしょうが、「明治」以下の文字が磨滅していて、残念ながら失われて、年不明の子安塔データ集に入れてしまっていましたが、私が撮った子安塔写真データの中から類型を探してみることにしました。

 そこで旧本埜村を中心に近代の子安塔の写真データを丹念に調べてみると、よく似た像容の子安塔が次の3基(写真3)見つかりました。

 

・明治20年(1887)造谷真珠院(旧印旛村)

・明治22年(1889)竜角寺(栄町)

・明治23年(1890)下曽根市杵島神社(旧本埜村)

(写真3 クリックして拡大)

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  地理的にも、笠神熊野神社はこの子安塔のある範囲の中に位置します。

4基とも同一の石工の作と思われ、笠神の年銘欠の子安塔が明治2023年の間か、その前後であることは確かと思われます。

 造谷真珠院の塔が上部だけなので、判断が難しい所ですが、子安像の面立ちと蓮華の丁寧な彫りは、笠神の塔に類似していますので、私としては、明治20年前後まで絞ってよいのではないかと推定しますが、いかがでしょうか。

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2016年2月24日 (水)

S-19 印西市笠神の二つの「百庚申」

 
印西市笠神の笠神社
蘇羽鷹神社


 151228_1551今は広い田圃の中、中世の頃までは利根川と印旛沼の合わさる広い内海に突き出した小島のような独立台地、その裾を巡る集落が印西市笠神で、台地上には笠神城跡があります。

 この台地の東側中腹には中世領主の館跡の名残を残す南陽院の境内があり、また台地上西端の蘇羽鷹(そばたか)神社には戦国時代の遺構と思われる物見やぐら跡や大きな堀跡が残っています。

 古城址の東麓には「船戸」の集落、そして西麓には「根古屋」の集落の中に笠神社(かさがみしゃ)があります。 

                             (右写真は笠神社の百庚申)

 

 「百庚申」とは=下総の百庚申

 下総地方の庚申塔は、江戸中期終わりの寛政期(1790年代)のころから、青面金剛像塔から三猿付文字塔に替わり、後期前半は「青面金剛」の主尊名、文政期頃からは「庚申塔」銘の文字塔となって数多く建てられるようになりますが、下総と印西市域の庚申塔群で特異なのは、江戸後期から近代にかけて建立された「百庚申」です。

 百庚申は、駒型の定型の文字塔9基毎に、青面金剛像塔を1基ずつ1単位として10組並べて路傍などに配置されることが一般的で、道路拡幅などで神社境内などに移設されていることも多々あります。

 庚申塔100基建立の目的は、祈願のための供養は数多い方が有効との「数量信仰」に基づきますが、中には、100基連立せず1基のみに「百庚申」と刻んで代用した「一石百庚申」もみられます。

 なお後者の「一石百庚申」には、その銘文から「百体参詣記念」を意味するものもありました。

 下総では「百庚申」(一石百庚申を除く)は24か所、印西市では、笠神の笠神社と蘇羽鷹神社のほか、武西・浦部・小林・松虫台の百庚申があります。

 特に文久3年(1863年)造立の「武西の百庚申」は、「中尊」として大きな庚申供養塔を中央に、その左右に5単位の庚申塔列が規則正しく配列されてあり、当時の形態を良く残していることから、平成113月に印西市の指定文化財(記念物・史跡)になっています。

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              武西の百庚申 2012.11.27撮影

 

笠神の笠神社の百庚申

 笠神の根古屋には、「笠神様」とよばれる「笠神社」があり、その境内に、幕末期に立てられた「百庚申」の石塔が、左右二列に立ち並ぶ姿は、壮観です。
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 これらを調べてみると、慶應元年~3年(18657)の三年間に建立された青面金剛像塔18、「庚申塔」銘の文字塔7795が並び、大きさは、像塔が高さ60㎝前後、文字塔が48㎝前後で、いずれも駒型です。


・慶應元年=11基(像塔2基:文字塔9基)

・慶應2年= 34基(像塔7基:文字塔27基)

・慶應3年= 33基(像塔8基:文字塔25基)

・年不明=  17基(像塔1基:文字塔16基)

 

 20123.11東日本大地震の後に、倒れていたこの百庚申は建てなおされ、現在はコンクリートの基礎上に据えられており、元の並び方の順は不明です。

 損傷した石塔が片隅に寄せ集められてあり、これを復元すればおそらく元は100基あったと思われますが、現在は、百庚申以外の庚申供養塔5基を入れて、ちょうど100基となります。

 青面金剛像塔と文字塔の割合は、1877とほぼ14の比率なので、像塔1基に文字塔4基の5基1単位で連続して並べられていたと思われます。

 石塔脇の寄進者銘は、「舩戸 根子屋 講中」(「舟戸」や「根子谷」の表記もあり)が17基、個人名が村内42名、村外が13名、無銘または不明が23基でした。

 

 百庚申以外の5基のうち、145㎝の高さの文字塔で建立日が「慶應三卯年十一月吉日」銘の庚申供養塔は、百庚申の三年目の慶応3年の建立月日と同じであることと、また台石に33名の人名が刻まれていることなどから、百庚申完成供養を目的に、百庚申の「中尊」として建立されたのではないかと考えています。

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 青面金剛像の像容は、剣とショケラを持つ六臂像で、頭部が天を衝くようにとがっています。
 この像容は、同時期に近くの栄町安食に建立された百庚申の青面金剛像によく似ています。

 また足元の邪鬼が正面を向き姿はとてもユーモラスで、石工の個性が出ています。

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 笠神の蘓波鷹神社の百庚申


151228_263_2 笠神城の物見台の跡が残る蘓波鷹神社境内には、享保181734)年「南無青面金剛尊/同行三十人」銘の庚申供養塔と、近代になって建立された百庚申が台地上の狭い境内両脇に整然と並んでいます。

 百庚申は高さ4151㎝の駒型の「庚申塔」銘の文字塔54と、青面金剛像塔660で、右面に建立年月日が、左面にはすべてに寄進者名が記されています。

・明治16年(1883)銘
  = 6基 (
像塔1基:文字塔5基)

・明治33年(1900)銘
  =19基(像塔2基:文字塔17基)

・昭和10年(1935)銘=3基 (像塔のみ3基)
・年銘のない文字塔=24基 これらは配列から昭和10年と推定されます。

 
 建立には3次にわたって52年間かかっており、また百庚申には40基足りませんが、60という数は干支の一周の数でもあり、また境内の大きさに合わせた数であったのでないかと推測されます。

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 一般に近代に入ってからの庚申塔建立は少なくなり、特に青面金剛像を刻んだ像塔は珍しくなりますので、蘇羽鷹神社の6基の像塔はとても貴重です。

 蘇羽鷹神社の百庚申は、これまで未報告な事例でしたので、まだその考察の域には達していませんが、近代に入っても続く庚申信仰の姿と笠神地区の結束力を示しているように感じられました。

 

(附)下総の「百庚申」

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        鎌ヶ谷市大仏・八幡神社の百庚申 2009.9.10撮影

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           印西市小林・砂田の百庚申  2010.12.1撮影

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         印西市松虫の百庚申(文政12年)路傍から2か所に移動されている。 2012.1.1撮影

           *参考資料:榎本正三「武西の百庚申」1999『房総の石仏』第12号

 

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